マフィア映画トリロジーの終着点。
1993年。ブライアン・デ・パルマ監督。アル・パチーノ、ショーン・ペン、ペネロープ・アン・ミラー。
1975年、ニューヨーク。麻薬ビジネスで名を馳せた暗黒街の大物カリートが刑務所から出所。彼は犯罪から足を洗うことを決意し、クラブの経営者に収まる。かつての恋人ゲイルとよりを戻すこともできたが、捜査当局からは執拗にマークされ、さらにブロンクスの新興マフィア、ベニーとのいざこざも絶えない。そんな折、カリートはマフィアに脅迫されていた弁護士デイブを助けるが、それがきっかけで命を狙われるはめに…。(映画.com より)
たまに思うことがある。
たとえばよ? たとえばマフィア映画オリンピックを開催したとして、金メダルを取るのはまぁ確実に『ゴッドファーザー』(PART2かな?)だろうし、銀メダルと銅メダルは『スカーフェイス』と『グッドフェローズ』で争うことになるだろう。
ちなみにマフィア映画の究極的傑作『暗黒街の顔役』には出場権はありません。4作品になってしまうと金・銀・銅の喩えが使えなくなるからです。
でもさぁ、『カリートの道』にも何かしらメダルをあげてやってはもらえないだろうか?
なにも金銀銅のように立派なメダルじゃなくてもいい。
メダルチョコでもスロット用コインでもええやん。なんでもいいからメダルっぽいやつ、やったれよ。
『カリートの道』にメダルも与えずに何がマフィア映画オリンピックじゃ!
そもそも何する大会なんじゃ!
葉巻早吸い競争とか死体穴埋め合戦とか?
というわけで、私が全力で肩入れしたいマフィア映画が『カリートの道』。
全身全霊で褒めちぎります。
この作品は『殺しのドレス』と合わせて私的デ・パルマ最高傑作であり、アル・パチーノのマフィア映画トリロジーの終着点でもあります。
※アル・パチーノのマフィア映画トリロジーとは、『ゴッドファーザー』、『スカーフェイス』、『カリートの道』を含めたアルパチ主演のマフィア映画三大傑作を指す完全なる造語。
ちなみにジョニー・デップと共演した『フェイク』は意地でもカウントしない(良い映画だけどね)。
『ゴッドファーザー』が荘厳なクラシック音楽、『スカーフェイス』が爆走のハードロックだとすれば、この『カリートの道』は哀愁漂うブルースとして、アルパチがさまざまな映画で演じたマフィアが辿る栄枯盛衰の枯と衰の部分を壮大なスケールで描き出している。
つまりこのトリロジー、3本ともそれぞれまったく毛色が違う作品だが、悪の扉を開けてしまった男が(『ゴッドファーザー』)、成り上がって慢心し(『スカーフェイス』)、足を洗おうと改心するが裏社会の難事に巻き込まれていく(『カリートの道』)という、世界線や時間軸や超えた一連なりの大河ドラマを形成しているのだ。
3本でひとつの物語!
ゆえに本作はマフィア映画トリロジーの終着点なのである。
物語は、銃撃を受けて死にゆくカリートの回想から始まる。
彼はクラインフェルド弁護士の尽力によって出所を果たした元麻薬王だったが、出所後は綺麗さっぱり裏社会から足を洗ってバハマでレンタカー屋を営むという、慎ましくもまっとうな人生を手に入れようとしている元マフィアだ。
ゆえに彼は、マイケル・コルレオーネのような怜悧な策略家でも、トニー・モンタナのような天下無双の猛虎でもない。「ファック」も「コカローチ」も言わないし、シチリアで嫁はんを爆殺されたりもしない。
しかしカリートが5年の刑に服している間に、街からは仁義が消え失せていた。エンタメ感覚で人を殺すイカレ野郎どもがのさばり、かつての仲間たちは金のためにカリートを裏切ろうとする。
そうした厄介事に関わらず、とっととバハマ行きの資金を作って街とおさらばしようとするカリートだが、次から次へと災難に見舞われる上に、「借りは作らない」というキザなポリシーゆえに恩人クラインフェルドの邪悪な計画に加担してしまい、死の袋小路へと追い込まれてゆく。
この、否応なく悪事に手を染めてしまうというアルパチの業は、後に『訣別の街』や『ニューヨーク 最後の日々』にも継受されることになる。
アルパチの疲れきった佇まいは、『ゴッドファーザー』の凄艶な色気や『スカーフェイス』のほとばしる鋭気とは程遠い。
しかしだからこそ、疲れきった中年の悲哀の中にもかつての研ぎ澄まされた勘を頼りに数々の修羅場を間一髪のところで掻い潜って血路を開くという危うさがたまらない。早い話が、オヤジ版の『ジョン・ウィック』なのだ。
そして、バーでの取引中に襲撃されるシーンや、病院での「あいつは警官じゃない」というモノローグなどに見られる、眼を使って瞬時に状況を察知する鋭敏さは、もともと眼力の強いアルパチの真骨頂。
カリートという男がなぜ麻薬王までのし上がれたのか、というキャラクターのバックグラウンドが眼の芝居だけで語られている。
彼の用心深さは、バーでの銃撃戦の途中で弾丸が尽きたのでトイレに避難して、トイレの中から敵の生死を確認するためにハッタリの脅し文句をまくし立てるさまにも顕著。
敵はすでに死んでるのに、トイレの中から「撃ってこいよ! どうした、撃ってこい! こっちにはまだ弾が残ってるぞ! 怖気づいたのか!? それとも死んでんのか!?」と怒鳴りまくる。
叫べど怒鳴れど梨のつぶてなので、そろりそろりとトイレから顔を出して店内を見渡し、敵がすでに死んでると知ったカリート、「だいぶ恥ずかしいことをしてしまった」という面持ちでバーを出る。
ハッタリ怒鳴りinトイレ。
一刻も早く腐った世界から抜け出して夢の楽園に安住したいという儚いロマンは、しかし彼が償いきれない罪を犯してきた元マフィアである時点で叶わない。
どこかのレビューサイトで「結末を最初に持ってくるからオチが見えてる」という高度な論理を展開するレビュアーもいたが、撃たれた男の回想に始まるという倒叙法的な構成は『サンセット大通り』に倣ったもの。本作はそれを前提にいかにしてカリートの夢が潰えたかを遡及的に紐解く破滅の物語なのだ。オチとかじゃないんですよ。
それにマフィア映画の主人公なんてだいだい最後は死ぬ。
むちゃむちゃ撃たれて担架で運ばれるファーストシーン。ここから物語は過去に遡る。
カリートもさることながら、名優ショーン・ペンがヘボいパーマを当てて臨んだ弁護士クラインフェルドも強烈なキャラクターで。
法廷では「そんなことありません!」とか「田辺君は悪くないと思います!」などと切れ味鋭い弁舌で人々を救う敏腕弁護士だが、私生活ではコカイン漬けのラリパッパで、犯罪にも手を染めまくり。しかもラリったついでにマフィアのボスの息子まで殺してしまう殺人弁護士なのだ。むちゃくちゃである。
そしてカリートを出所させてやった義理をここぞとばかりに利用するクラインフェルドは、足を洗いたがっているカリートに悪事の片棒を担がせようとする。カリートにとってクラインフェルドは恩人なので、断ろうにも断れないというママ友からの宗教勧誘みたいなイヤ~な圧力がかけられる。
いわばクラインフェルドはカリートと裏社会を繋ぐ呪いの鎖だ。その鎖を断ち切らねばバハマでレンタカー屋は営めない。
恩人を取るかレンタカーを取るかという究極の選択を迫られたカリートに明日はあるのか!?
まぁ、そんなとこです。
面白そうでしょ?
え、そうでもない?
いや、面白そうですよ、コレは。
だが、ただ面白いだけでなく、デ・パルマのエッセンスが結晶化されているという点も、本作を彼の最高傑作に挙げた大きな決め手になっている。
クラインフェルドがエレベーターの中で撃たれるシーンは『殺しのドレス』の変奏。グランド・セントラル駅での長回しは『スネーク・アイズ』の冒頭に昇華されているし、駅構内のエスカレーターで繰り広げられる銃撃戦は『アンタッチャブル』におけるシカゴ・ユニオン駅での『戦艦ポチョムキン』オデッサ階段オマージュのセルフリメイク。恋人とのキスシーンでカメラが旋回するのは『キャリー』のプロムシーン等…。
まぁ、挙げだすとキリがない。デ・パルマ印の映像テクニックが網羅されたデ・パルマ決定版!
そして私的最強シビれポイントは、カリートがようやくクラインフェルドの鎖から解き放たれるクライマックス手前。
カリートを裏切った挙句マフィアに撃たれたクラインフェルドの病室に、カリートがお見舞いにきて「べつに怨んじゃいないさ。それよりお前はいまマフィアに狙われてるから用心しろよ」と言って護身用の銃を渡して帰る。
ちょうど病室から出たカリートと、病院にやって来た殺し屋が通路ですれ違う。病室に現れた殺し屋に向けて銃を撃とうとしたクラインフェルドだが、その銃に弾丸は入ってなかった。
殺し屋に銃口を向けられて半ベソかいてるクラインフェルドと、帰り道のカリートが病室でこっそり抜き取っていた弾丸をゴミ箱に捨てて「あばよ、弁護士さん」と呟く裏切り返しのクロスカッティングが失禁級にカッコイイ!
このとき私の中で一生に一度は言ってみたい台詞ランキング第79位に「あばよ、弁護士さん」がランクインしました。おめでとうございます。
ネオンサインの明滅をバックに、雨にけぶるレストランの窓辺を捉えたショットも忘れがたいし、恋人と待ち合わせしていたグランド・セントラル駅でのラストシーンに至っては、何回観ても「あとちょっとー! あとちょっとなのにー!」と、もどかしい気持ちで男泣きしてしまう。
デ・パルマの最高傑作、マフィア映画トリロジーの終着点、それにもどかし男泣きという新しい泣き方を提唱したという意味でも、やっぱり何かしらのメダルは与えるべきじゃない?
当ブログはマフィア映画オリンピックを応援しています。