ロベール・アンリコ、一世一代のナイス夜っぷり。
1968年。ロベール・アンリコ監督。ジョアンナ・シムカス、カティーナ・パクシヌー、ジョゼ、マリア、フロタス。
病に倒れた叔母に迫る死の恐怖に耐えかね、ひとり夜のパリに出たアニーは、チェロを持った青年と出会い…。(Amazonより)
60年代フランスの名匠ロベール・アンリコが『冒険者たち』(67年)の翌年に撮ったもうひとつの代表作。
主演は束の間の女神ことジョアンナ・シムカス。
なぜ束の間なのかというと、女優になってわずか5年後に黒人俳優シドニー・ポワチエ*1と結婚して映画界から引退したからだ。元祖・山口百恵の生き様。
この作品は、J・シムカスがひたすら夜の街をほっつき歩くというほっつき歩き映画の草分け的存在である。
私はほっつき歩き映画には目がないし、わけても夜の街をほっつき歩く映画を手放しで称讃することにかけては他の追随を許さない。
夜の街ほっつき系の映画といえば『幸せはパリで』、『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』、『ミーン・ストリート』、『アメリカン・グラフィティ』、『ナイト・オン・ザ・プラネット』。いずれも傑作だ。あるいは近年の『コラテラル』や『ミッドナイト・ガイズ』もこの系譜だろう。
映画の美しさとは、とどのつまり陰影の美しさである。
そして美しさは荘厳な風景よりも卑近な官能に宿る。つまるところ美を突き詰めるとグロテスクに行き着くのだ。
ルイ・マル、ロベルト・ロッセリーニ、マイケル・マン、また初期のジョン・ヒューストンや初期のマーティン・スコセッシ、そしてグッと遡ってオーソン・ウェルズといった連中は、暗闇にカメラを向けただけで夜の艶をフィルムに収めてみせる影の芸術家だった(白塗りの肌を際立たせるために他の被写体をほとんど黒一色で塗りつぶしたチャップリンの『黄金狂時代』でさえ、その影は実に表情豊かな黒味を持つ)。
影を制する者は映画を制すのです!
それゆえに、もともと映画が暗闇の中で光の明滅を見る行為であることに意識的だった名だたる映画作家がそうであったように、ロベール・アンリコもまた夜の映画を撮った。
しかし我々は『冒険者たち』や『追想』でロベール・アンリコは太陽の監督だというイメージを持っているので、本作の夜っぷりには多少なりとも驚いてしまう。
『若草の萌えるころ』は、お昼大好きの日中監督ロベール・アンリコが、一世一代のナイス夜っぷりを見せつけた貴重な作品なのだ。
危篤の叔母への不安を紛らわすために夜の街をほっつき歩くJ・シムカスは、内省的な夜の静けさを体現するかのように奥ゆかしい。まるで夜に溶け込むシムカスではなく、夜の側がシムカスに溶け込もうとしているようだ。
はじめはチェロ弾きの青年に心惹かれたシムカスだが、そのあとに議論好きの男友達やナンパしてくる中年親父、あるいは猫殺しの男といったさまざまな異性と出会ううちにチェロ男のことをすっかり忘れてしまう。
そのあと偶然再会したときは妙にツンケンした態度でチェロ男を追い払おうとするシムカス。「第一印象はよかったけど、見れば見るほどキモいわ、あんた」とばかりに。
そして追い払われると追いかけてしまうのがフランス男のバカな性。
シムカスがチンピラ二人組に絡まれている現場を目撃したチェロ男は、粋がって彼女を守ろうとするが、腕っぷしの強いチンピラには到底敵わず羽交い絞めにされて腹に強烈なパンチを連打されていると、偶然通りがかったシェパードを散歩させていた親父が「オラフ、かかれっ」と叫び、オラフという名のシェパードがチンピラを追い払うシーンが好きだ。
親父が犬をけしかけるタイミングが不自然なほど早すぎるのだ。腹パン連打されてるチェロ男を目視すると同時に「オラフ、かかれっ」と犬をけしかける親父の即決力。そして二人組のチンピラをいとも容易く追い払うオラフの制圧力。
つい「この親父、日頃からオラフに人を襲わせてるのかな?」と勘繰ってしまう。
また、ひょんなことから脱走した羊を大勢で追いかけたり、なぜか猫殺しに執着する男をシムカスが「猫はやめて、猫はやめて」と泣きながら制止したりと、本筋とはまったく関係のない奇妙な一夜の営為がおだやかにスケッチされる。
真夜中に観ると最高に心地よい映画である。
本作をマイフェイバリットムービーに挙げる作家・村上春樹のモチーフが至る所に散りばめられているのでハルキストは必見(猫殺しの男なんて『海辺のカフカ』に出てくるジョーニー・ウォーカーそのもの)。
半ば強引にシムカスを食事に誘ったチェロ男が、ダイナーのトイレで手を洗っている隙に彼女が店から逃走、駐車場に止まっていたトラックの運ちゃんの助手席に座ってそそくさと家に帰ろうとする。
女の子と食事に来たのに真っ先に手を洗いに行く、というやや意味不明な行動が裏目に出たチェロ男は、慌ててオープンカーで追跡開始(ストーカーです)。
シムカスを乗せたトラックの後方から「待って、待って!」のリズムでブッブ、ブッブ!とクラクションを鳴らしまくった挙げ句、トラックを追い抜いた遥か前方で車から降りたチェロ男は、なんと道路の真ん中に巨大なチェロを置いてギコギコ演奏をはじめる!
いい年した大人がなにをやっているのか。
シムカスを乗せたトラックの運ちゃんに「轢き殺せ! チェロごと!」と念を送る私だったが届くはずもなく…(だけどシムカスは、私の気持ちを代弁するように「何やってんだ、道の真ん中で!」といってチェロ男にビンタをお見舞いした)。
なんと傍迷惑な求愛。迷惑千万のロマンチシズム。
私は男だが、このチェロ男みたいなしつこい男がとても苦手です。
「あっちに行ってよ」と言われてるのにあっちに行かない男はあっちの世界に逝くべきだと考えているので、強引&粘着質のチェロ男には嫌悪感を抱いてしまう。
そして明け方、根負けしてチェロ男の恋人になることを表明したシムカスは、叔母の家でチェロ男と体を交える(裸で部屋をうろちょろするスローモーションが何ともサイケデリック)。
階下では叔母が揺り椅子にむいんむいん揺られながら編み物をしている。しかし叔母はシムカスのアパートで昏睡状態なので、どう考えても階下むいんむいん叔母はシムカスの妄想だ。
その後、アパートに帰ったシムカスが叔母の死を知らされ、今度は妄想ではなく、叔母に遊んでもらった幼少期を回顧する美しい昼のシーンを以て、この一夜の映画は幕を閉じる。
きわめて純度の高い作品である。
光線の屈折や濡れたネオンといった照明が、闇を切り裂いて楽しそうに跳ね回る。光が騒いどんねん。
夜の街の喧騒と静謐。シムカスの幼気と色気。そうしたモチーフの対比がバチッとハマった、真夜中の悪魔が宿りし夜の街ほっつき系映画の傑作なり!
*1:シドニー・ポワチエ…映画界ではじめて黒人の地位を確立した偉大な黒人俳優。彼がいなければモーガン・フリーマンもデンゼル・ワシントンもいなかった、というのは若干過言だが、ポワチエが黒人俳優の道を作ったのは確かだ。