猛り狂うロマンス否定ミュージカル!
2016年。デミアン・チャゼル監督。エマ・ストーン、ライアン・ゴズリング。
オーディションに落ちて意気消沈していた女優志望のミアは、ピアノの音色に誘われて入ったジャズバーで、ピアニストのセバスチャンと最悪な出会いをする。そして後日、ミアは、あるパーティ会場のプールサイドで不機嫌そうに80年代ポップスを演奏するセバスチャンと再会。初めての会話でぶつかりあう2人だったが、互いの才能と夢に惹かれ合ううちに恋に落ちていく。 (映画.com より)
最近バカみたいなレビューばかり書いていたので、たまには真面目に批評活動をします。
つうこって、いま一度『ラ・ラ・ランド』を振り返ってみましょうキャンペーンを急遽実施。できるとこまで絵解きしてみます。
新年の瞬間にこれやったらえらい事だろうな。
古びたモノクロ映像のスタンダード・サイズから、色彩豊かなシネマ・スコープの大画面へと化ける冒頭。色がついて、スクリーンが横いっぱいにググゥーンと伸び、「CinemaScope」と冠せられてゆくゥー!
「は?」って感じでしょうけど、古典映画好きはすでにこの時点で鳥肌総立ちなんですよ。「は?」とか思うな!
地平線の彼方まで続く大渋滞のハイウェイ。その自動車の上で精神錯乱みたいに群舞する数百人のダンサーをワンシーン・ワンショットでなめ尽くしてゆく長回し。
まるで「『ロシュフォールの恋人たち』を思い出せ」と叫んでいるようなオープニング・シーンだ。
このきわめてジャック・ドゥミ的な世界観は、しかし舞台がオープン・セットめいた街並みと人工照明に華やぐあたりから、古典映画に対するパスティーシュ(模倣)の自覚性が主演二人の会話にも代弁される。
具体的には、女優志望のエマ・ストーンがのべつ幕なしに列挙する『赤ちゃん教育』(38年)、『カサブランカ』(42年)、『汚名』(46年)、『理由なき反抗』(55年)など。
女優を志すエマちゃんは、自分の部屋にグレース・ケリーやイングリッド・ バーグマンの巨大ポスターをこれ見よがしに貼っており、ジャズを愛するピアニストのライアン・ゴズリングもまた、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスの逸話を引用しながら、ジャズの良さについて熱弁を振るう。
とりわけ二人のミュージカル・シーンは古典主義の花吹雪。
『有頂天時代』(36年)、『巴里のアメリカ人』(51年)、『雨に唄えば』(52年)など、50年代前後のミュージカル様式を片っ端から取り入れている。
ちなみに、ゴズリン坊が披露する踊り(特にタップダンス)はジーン・ケリーに倣ったもの(※ジーン・ケリー…タップダンスの鬼)。
どうでもいいけど、天文台でのエマ・ストーンのロマンス…というシチュエーションが『マジック・イン・ムーンライト』(14年)とダ・ダ・かぶりの『ラ・ラ・ランド』。
しかし、ゴズリン坊がジャズバーの開業資金を集めるためにわけのわからないロック・バンドに加入することを決意し、エマちゃんも一人芝居に勝負をかけるべく往年の大女優のポスターをベリベリ剥がしてしまう中盤以降、成功するためには古典への愛を捨てねばならないという苦しい決断が迫られ、次第に二人の関係もすれ違ってゆく。
古き良きを懐かしむのではなく今を見ろよっていう、古典大好き人間にとっては耳が痛い現実突きつけイズムに憔悴する二人。
さぁ、ここからが肝心です。
二人がバチバチに喧嘩して以降、陽気で幸福な『ロシュフォールの恋人たち』(67年)のムードは一変して、同監督の悲哀と傷心に満ちた『シェルブールの雨傘』(64年)へと反転する。
名匠ジャック・ドゥミによるこの二本のミュージカル映画は、陰と陽とも言うべき表裏一体の連作で、それを現代版にアップデートして一本の映画にまとめ上げたのが本作なのです。
『シェルブールの雨傘』(左)と『ロシュフォールの恋人たち』(右)。
そしてこの潮流に他者への愛は自分の夢に優先されるという、『セッション』(14年)と軌を一にするシビアな思想が合流する。
愛だの恋だのにうつつを抜かしていた主人公が正気を取り戻し、今度は気が違うまで表現活動に没頭し始めるという、いささかクレイジーな主人公像。
本作は、うっとりするような甘美なミュージカル・ロマンスなどではなく、自己実現のためにいかにしてロマンスを断ち切るかについての映画だ。
だから二人はボン・ジョヴィの「It's My Life」を歌いながら別々の道を歩んでいくのです。
デミアン・チャゼルの前作『セッション』ほど過激ではないにせよ、デートで観にきたカップルの頭をオスカー像でブン殴るようなデミアン・チャゼルの悪魔的情念にシビれてしまう。
「もっと速く叩け、イモ虫野郎ーッ!」
とはいえ、古典映画に対する目配せが古典映画ファンに対する目配せへと音もなく擦り替えられるしたたかな算段が、冒頭のハイウェイでの長回しが群舞としてはまるで失格という矛盾を抱えてもいる本作。
正直、目の肥えたミュージカルファンからすれば決して褒められたものではないです、この映画(ちなみに私は目の肥えたミュージカルファンでもなければ、そもそもミュージカルファンですらなく、さらに言えば人は踊る必要があるのだろうか?という、ダンスそのものに対する根本的な疑問を持っている)。
だけどこの映画は、感情表現としてのミュージカルという不文律を鮮やかに提示してみせたことで、良くも悪くも古典的なミュージカルとしての枠におさまっています。
どういうことかと言うと、まず、ミュージカル映画にあまり馴染みのない世代の「なぜ急に踊りだすの?」という野暮天発言があまりにうっせーものだから、近年のミュージカル映画は歌い踊ることにいちいち理由をつけねばならなくなった。
「ヒロインがダンサー志望だからです」とか「バーレスクが舞台だからです」とか「もともとミュージカルだったものを映画化したからです」とか。
だが本来、ミュージカルとは感情表現の視覚化である。キャラクターの喜びや悲しみを視覚化するために歌い踊るわけです。
ゆえに、感情表現としてのミュージカルを地で行った本作は古典ミュージカルの先祖返りと言えるわけだ。そんなわけだ。断じて今風のミュージカルではないですね。
先程も述べたように、本作はスタンリー・ドーネン、ジャック・ドゥミ、ヴィンセント・ミネリらを愛する年配ミュージカルファンを納得させるのは難しいかもしれないが、私はデミアン・チャゼルのこの一手に、まるでそう、ハワード・ホークスが唐突に『紳士は金髪がお好き』(53年)を撮ったときのような豪奢な余技を見ます。
「撮れたんかい、おまえ! ミュージカル!」っていう。驚きと喜びのハーフ&ハーフだよ。
ジャズの『セッション』、そしてミュージカルの本作…。
たぶん私は、死に絶えた伝統を墓場から引っ張り出して、流行に飛びつく現代人を脅しつけるデミアン・チャゼルの情動的古典愛に心が惹かれているのだと思う。
ぜひとも次作ではハードロックという死に絶えた音楽を題材にしてほしい、という個人的な要望を付け加えさせてほしい。たのむ。
また、「『ラ・ラ・ランド』はレズ要素なしの『マルホランド・ドライブ』だ!」という半狂乱みたいな試論*1もあるが、これは自重しておきましょう。
強烈な悪夢を見せられる『マルホランド・ドライブ』。
アップショットを濫用した愚作『レ・ミゼラブル』(12年)を観てスンスン泣くような若年層が、一人でも多く本作を観て「レミゼとは撮影法が真逆じゃねえか!」と思ってくれることをただただ願うのみ。
また、年配のミュージカルファンが一人でも多く本作を観て「宙、浮いとるやないか!」と楽しんでくれることに期待したい。
だが私のいちばんの願いは、私同様リンチフリークの映画好きが一人でも多く本作を観て「『ラ・ラ・ランド』はレズ要素なしの『マルホランド・ドライブ』やないか!」という半狂乱みたいな試論を持ってくれること!
この写真、めたくそ可愛いらしいけど、照明を落としたら一気にリンチっぽくなる気がしない?
*1:『ラ・ラ・ランド』はレズ要素なしの『マルホランド・ドライブ』だ!…ラ・ラ・ランドとは「ロサンゼルス」と「現実から遊離した精神状態」を意味するスラング。夢と現実が交錯しながらヒロインがロスで女優を目指す物語…という共通項から、脚本家でもあるデミアン・チャゼルが『マルホランド・ドライブ』を観ていないわけがないのです。