シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

パターソン

 昨日と今日とで間違い探しをしよう

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2016年。ジム・ジャームッシュ監督。アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、バリー・シャバカ・ヘンリー。

 

ニュージャージー州パターソン市で暮らすバス運転手のパターソン。朝起きると妻ローラにキスをしてからバスを走らせ、帰宅後には愛犬マーヴィンと散歩へ行ってバーで1杯だけビールを飲む。単調な毎日に見えるが、詩人でもある彼の目にはありふれた日常のすべてが美しく見え、周囲の人々との交流はかけがえのない時間だ。そんな彼が過ごす7日間を、ジャームッシュ監督ならではの絶妙な間と飄々とした語り口で描く。(映画.com より)

 

 

ジャームッシュ決定版なのだろうか?

詩とロックを愛する男ジム・ジャームッシュの最新作は、またしてもミニマリズムだった。
必要最低限のショットと必要最低限の台詞しかなく、華美な装飾もなければ不意打ちの展開性もない。人がジャームッシュに求めているであろうオフビートな息遣いさえ希薄なのだ。

だが、 商業映画におもねらないインディーズ魂は相変わらずで、過去最大級に私小説的な観客ドン無視映画である。

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ジャームッシュ(左)と、彼と仲のいいロック歌手イギー・ポップ(右)。

中指繋がりマイケル・ベイも。

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さて、ジャームッシュの過去作を包括した総決算的な作品(ジャームッシュ決定版)として論じられている『パターソン』だが、むしろ近作の延長線上にある進化の一作だと私は位置づけてます。

限りなくベストアルバムに近いオリジナルアルバムというか。

ガンズ・アンド・ローゼズでいう『アペタイト・フォー・ディストラクション』デフ・レパードでいう『ヒステリア』だよ。

一部のハードロック好きにしか伝わらない喩えなんかするんじゃなかったよ!

 

②毎日は繰り返しじゃない

映画は月曜日から始まる。
毎朝、ほとんど決まった時間に目を覚ますパターソンアダム・ドライバー)は、隣で寝ている妻にキスをしてベッドから抜け出し、ひとりで朝食を取って仕事に出かける。

彼はバスの運転手だ。バス営業所の車庫でノートに詩を綴っていると、車庫長がやってきて「調子はどうだ?」と訊ねる。「いいよ。君は?」とパターソンが返すと、車庫長は「なら言うが最低だ」といって愚痴をこぼし始める。
営業所からバスを出発させたパターソンは、運転席から乗客の会話に耳を澄ませたり、車窓から見える街の風景を眺めながらバスを走らせる。まるで詩のヒントを探しているように。
昼休みになるとキアヌ・リーブスのように一人でベンチに座ってサンドイッチに齧りつく。ただし、ボーっと地面を見つめながらメシを食っているキアヌとは違い、パターソンはサンドイッチを胃に流し込みながら夢中で詩を書くのだ。
夕方、仕事を終えて家に帰ってくると、毎日部屋の内装を変えている妻が「今日はカーテンに絵を描いたの」と楽しそうに話す様子に耳を傾け、妻が作った謎の創作料理を二人で食べる。すっかり夜になると、マーヴィンという不愛想な愛犬を連れて散歩に出かけ、バーでビールを一杯だけ飲んで帰ってくる。

 

これがパターソンのルーティンだ。
この、ほとんど逸脱しないパターソンの日常が、月曜日から日曜日までの一週間に渡って一日ずつ丁寧に描かれていくというエブリデイ・ムービーです。

ニーチェの馬(11年)『さざなみ』(15年)なんかも、時の経過を一日ずつじっくりと描いた作品だが、どちらも6日目で終わっているので、7日間描いた『パターソン』の勝ち!

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バスドライバーを演じるアダム・ドライバー

スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(15年)で癇癪持ちの小悪党カイロ・レンを演じた。


ジム・ジャームッシュを知らない観客の目には死ぬほど退屈な映画に映るだろう。「同じシーンの繰り返しじゃん」と言ってエンドレスエイト*1を思い出すかもしれない。
だが、決して似たり寄ったりの毎日を反復しているわけではない。

まぁ、旅人か暗殺者でもない限り、大抵の人はだいたい同じような毎日を過ごしているが、決して完全に同じではないし、ましてやループなどでもない。

だって、「おまえの人生エンドレスエイトなんて言われたら腹が立つでしょう?

「地味だけど捨てたもんじゃないわ、ナメんなMy Life!」って言い返したくなると思います。

 たしかに本作は小市民のささやかな日常を一週間ぶっ続けで見せているし、まぁ実際単調な作品なのだがジャームッシュ映画において「単調」は最高の褒め言葉)、そんな単調な毎日の中にも確実に何かが変化しているという通奏低音のような気配が漲っていて、昨日と今日とで間違い探しするような感覚で観ると存外スリリングな作品です。

 

昨日と何も変わってないようで、何かが変わっている。

その変化の中心にいるのは、やはりゴルシフテ・ファラハニ演じる妻である。
彼女は、パターソンが仕事に行っている間、ひっきりなしに家具に絵を描いたり、模様替えをして日中を過ごしている。内装チェンジャーとしての妻である。
また、奇妙なカップケーキを焼いて「これで一山当てるわ!」と言ってカップケーキ一攫千金作戦を練ったり、通信販売でギターを買って「カントリー歌手になるー!」と豪語するなど、色んなことをしたがるチャレンジ精神の権化。夢多き孤高のチャレンジャーとしての妻でもあるわけだ。

パターソンに対して「あなたはポエムノートを世に発表してビッグになるべきよ」と説得していることからも、彼女は何者かになろうとしている表現者なのだろう。
バス運転手でありながら詩人でもあるパターソンもまた表現者だが、彼女とは対照的で、べつに詩を発表するつもりなどなく、どちらかといえば内向きな創作活動に終始している。それでも彼は満ち足りているのだ。

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内装チェンジャー夢多き孤高のチャレンジャーとしての妻。

 

③排泄としての表現、ウンコとしての芸術。

さぁ、以前に『ラブソングができるまで』(07年)『二ツ星の料理人』(15年)の評でも触れましたが、ここでも表現活動という裏テーマが出てきました。
世に出て大成してこその表現者であると考えている妻と、たとえ趣味の範疇でも真摯に詩と向き合い、そこに喜びを見出すパターソン。どちらの生きざまもベリークールといえる。
そして表現とは、誰かのためや何かを伝えたくてするものではない。

てめえの中で出口のない情念が肥大していって、そいつを吐き出さないと気が狂ってしまうから表現活動でアウトプットするのだ

いわば生理現象である。
だから芸術とは本質的にウンコなんですよ。芸術としてのウンコを排泄(表現)しないと糞詰まりで死ぬる。だから人は、映画を撮ったり絵を描いたり詩を綴ったりする。それをしないと自我が保てないし、自分と世界の接点を見失ってしまうのだ。

たまに、不可解な映画に疑問を呈するクリシェとして「何が言いたい映画なのかわからない」という物言いをする人がいるけど、必ずしも映画作家たちは何かを言いたくて映画を撮っているわけではない。

だって、ウンコするときにいちいちメッセージなんて込めますか?
カシミール紛争が収束して平和が訪れますように」、ぷりっ。みたいな。

しねえわ!

 

話を戻しましょう。

この妻は持て余した表現欲の捌け口として内装模様替えを繰り返している
次第にエスカレートしていく模様替えは、われわれ観客から見ればちょっと異常にも映るんだけど、パターソンは決して「やり過ぎなんじゃない?」と言って妻を諫めたりしない。なぜならパターソンは、表現者にも関わらず専業主婦として毎日家にいる妻がルサンチマンを抱えていることを知っているし、模様替えやカップケーキやギターこそが彼女にとっての表現の捌け口であることも知っているからだ。

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家の中を少しずつモノトーン化していく妻。私は蓮コラが苦手なのでぞわぞわする。

 

本作が詩のスタイルを踏襲して作られたことや、劇中に散りばめられた音楽的イコン、あるいはニュージャージー州パターソンを舞台にパターソン(アダム・ドライバー)バスドライバーをしているという洒落の連鎖について触れると余計に長くなるので、最後は私のジャームッシュ論を少しだけ展開してさっさと終わります。

 

④彷徨と安住

ジャームッシュの作家性は歩くというモチーフに集約される。
街を闊歩する俳優をドリー・ショットでフォローしていくという横移動の構図は、処女作パーマネント・バケーション(80年)から全作品に共通したジャームッシュ的作法である。
この映像スタイルは、同じくニューヨーク・インディーズの後輩として知られるウェス・アンダーソンノア・バームバックにも影響を与えている。
本作も例に漏れずパターソンがよく歩くが、わけてもジャームッシュ印が炸裂しているのは夜の散歩。何の予備知識がなくても画面を観ただけで「あ、ジャームッシュだ」と分かるぐらいの、彼にしか撮れないドリーショットが実に心地よい。

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ジャームッシュの必殺技、横移動の構図

 

また、ジャームッシュといえばロードムービーだ。
ファンから特に人気の高いストレンジャー・ザン・パラダイス(84年)ダウン・バイ・ロー(86年)などの初期作が放った空虚な旅っぷりオフビートとされて様々な映画に影響を与えてきた。
だが厳密には、ジャームッシュの映画はロードムービーではなく彷徨を描いている。旅とか流浪とか、そんな格好良いものではない。「空虚だなぁ。心が晴れないなー」と言いながら猫背になってぷらぷら歩く、みたいな。そんな情けないイメージである。

そして彷徨う者たちはを求めて歩く。
歩いた先に家を見つけて安住する、というのがジャームッシュ映画の黄金パターンだ。
ジャームッシュ彷徨(ロードムービー安住(反ロードムービーを同時に描く。
ダウン・バイ・ローは、脱獄した男たちがカフェに居着く物語。
『ミステリー・トレイン』(89年)は、旅人たちに休息を与える家(ホテル)での一夜を描いた群像劇。
ブロークン・フラワーズ(05年)は、恋人に振られたおっさんが元カノの家を地獄巡りする物語だし、『コーヒー&シガレッツ』(03年)に至っては室内でタバコ吸ってコーヒー飲んで取り留めのない話をしてるだけの映画(安住そのものを主題化している)

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とてもくつろいでるようには見えないが、パターソンはくつろいでいる。安住しているのだ。

 

本作がおもしろいのは、近年の『リミッツ・オブ・コントロール(09年)『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(13年)と同じく、主人公が彷徨しておらず、意味を持った歩みで目的地に向かっていることだ。バス営業所に向かう、犬の散歩がてらバーに行く…など。
安住の地を求めて彷徨してこそのジャームッシュ映画だが、近年の作品ではどうもそれが変わりつつある。もうやたらにウロウロしない
ジャームッシュの中で「言うて俺も65歳だし、いつまでも彷徨ってる場合じゃない」という心境の変化があったのかもしれない。
ただ、終盤に一度だけ、パターソンは絶望して街を彷徨う。しかしその絶望と彷徨は、どこからともなく現れた永瀬正敏によって瞬く間に救済されるのだ。

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日本人観光客・ジュンの役で『ミステリー・トレイン』に出演した永瀬正敏が、27年ぶりにジャームッシュ映画に帰ってきたことに謎の感慨深さを覚える。
本作の永瀬は『ミステリー・トレイン』のジュンと同一人物にも見えるが、まったく別の日本人という設定かもしれない。気になるぅー。
こういう些細な小ネタがそこかしこに仕掛けられているので、ジャームッシュファンは大いに心をくすぐられるだろう。

 

⑤非ジャームッシュファンの処遇について

反面、ジャームッシュの楽しみ方を知らないジャームッシュファンにとっては少々キツい映画かもしれません。

ただただ単調で掴みどころがないので、「何が言いたいのかわからないー!」癇癪を起こして不貞寝する、または開幕10分で居眠りするかのどちらかでしょう。

というわけで非ジャームッシュファンの方には、ジャームッシュとの相性を占うリトマス試験紙としてストレンジャー・ザン・パラダイスまたは『ナイト・オン・ザ・プラネット』(91年)を先に観ておくことをおすすめします。

そもそもジャームッシュに興味のない人におすすめしたところで「観ねえわ」と返されるのが関の山でしょうけどね!

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ストレンジャー・ザン・パラダイスは、風邪引くぐらいクーラーをがんがん効かせた部屋で観るとよいでしょう。

『ナイト・オン・ザ・プラネット』は、タクシーで帰宅したあとの真夜中に観るとよいでしょう。

 

*1:エンドレスエイト涼宮ハルヒの憂鬱で同じ日を延々ループするというエピソードがあり、アニメでは8話連続で同じ内容が放送され、視聴者に大いなる苦痛をもたらした。