無条件モテはダメだろう。
2008年。ピーター・ソレット監督。マイケル・セラ、カット・デニングス、アリ・グレイノール。
音楽を通じて出逢った男女が織り成す一夜のファッキン・ラブストーリー。はらたつ。
大好きなバンドがシークレット・ライブをするというのでライブ会場を探し回る主人公が、ディスコで出会ったセクシーがあり余るカット・デニングスと良い雰囲気になったり、二人の関係を邪魔しようとする元カノにつきまとわれたり、泥酔して行方不明になったカットの友人を捜したりしながら、秘匿されていたライブ会場をようやく探し当て、しつこい元カノをきっぱり振ってばっちりカットと恋仲になるという、煌びやかな青春を描いた一夜の物語…。
んんんんんん!
虫唾が走る!!
インディーズ・ロックをこよなく愛する冴えない主人公のミックスCDにカットが大喜びしたり、カットと出会ったその日に肉体関係を持ったり、セクシーな元カノがヒエラルキー最下層の主人公とヨリを戻すためにタクシーで街中つきまとったりなど、オタク男子にとって都合のいい出来事しか起きない本作は、しかし主演がマイケル・セラであることから容易に想像はできていた。
青春小僧マイケル・セラ。「何か問題でも?」みたいなしらこい顔しやがって!
セラ坊といえば無条件でモテまくる不思議なオタクを体現する若手俳優。
『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(07年)にしても『JUNO/ジュノ』(07年)にしても『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』(10年)にしても、ひねもす部屋で音楽を聴きながらMacをいじり倒してるようなオタクの役ばかりだが、なぜか女性には不自由しないという覆面リア充。
たぶん『映画秘宝』とか読んでるボンクラ映画オタクにとっては殺意の対象でしかないだろう。
まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、問題はモテない設定とモテる展開に相関性が見当たらないことである。
設定は展開のためにあるのに、このふたつが結びついていない。
モテない奴がモテることに理由がないのだ。
もう無条件でモテてんの。
「じゃあ最初からモテる設定でいいじゃん!」なんて思うが、恐らくセラ坊映画の無条件モテとは、全世界のモテない観客に希望とエールを贈るための妄想装置なのだろう。
だが、そんなもんに励まされるほど、世界中のモテない男たちは鈍感ではない。むしろ同志だと思っていたモテないセラ坊が無条件でモテまくるのだから、まじでモテない観客にとってはかえって酷な仕打ちとは言えまいか。うんうん、言える言える。
ちなみに高橋留美子のラブコメ漫画に出てくる主人公も冴えないボンクラばかりなのに、なぜか美女から一方的に惚れられるという忌わしい規則性を持っている(偉大なる例外は『めぞん一刻』)。
そしてヒロインはセクシーがあり余るカット・デニングス。
ワォ!
物語の目的は、セラ坊が大好きなバンドのシークレット・ライブの会場を探し当てることだが、空間的にも時間的にも冒険性を欠いていて、ただ夜の街で油を売ってるようにしか見えないという。
いつどこでライブが始まるかわからないというのに、女としけこんだり知人の捜索に精を出すハイパー悠長なセラ坊は、果たして本当にライブに行きたいのだろうか?
カットちゃんが他の男に言い寄られて、セラ坊はジェラシーがあり余る。
ちなみに、セラ坊が好きなバンドはザ・キュアー。なんというか、うまく説明できないが、なんかむかつく。
別にザ・キュアーを非難しているわけではないが、なんかむかつくなぁ。原因はザ・キュアーにあるのではなく、ザ・キュアーを好むナヨナヨしたセラ坊にあるのだろう。なんというか、いかにもすぎて。
百歩譲ってオアシスとかだったら「なるほどね」と思っていたかもしれない。なんだろうなぁ、このむかつきは。
たとえばさ、自撮りするときは照明を爛々に当ててシミとかシワを飛ばして上目遣いする、サバイバルになったら一日で死んじゃいそうな頬にチーク塗りすぎの森ガールファッションの女の子が「アタシ、YUKIとかきゃりーぱみゅぱみゅが好きなんですう~」とか言ってると、一瞬「うざ」ってなるじゃない。ならない? マジ? 心が豊かなのか?
あるいは、部屋に飾るためだけにギターを購入したり首からぶら下げるためだけに一眼レフを購入したりする炭酸水とかよく飲む都会のクソヤングが「Suchmosきてるよねー」とか言ってると、一瞬「うざ」ってなるよね。ならない?
一回ぐらい「なる」って言え。
まぁ、そんな感じなんですよ。セラ坊がザ・キュアーを好むことに対するむかつきは。
ザ・キュアー。78年に結成したイギリスのニューウェーヴ・バンド。オルタナティヴ・ロックの中ではかなりの大物らしい。
個人的にはちょっと…いや、かなり苦手です。
で、ライブ会場を伏せるというなら、せめて開演時間だけ告知しておいて、腕時計のインサート・ショットなどで現在時刻を示してタイムアップが迫る演出を施しさえすれば映画内に時間が流れるし、「間に合うのか!? 間に合わないのか!?」みたいなサスペンスも生まれるが、そうした融通も利かない本作はいつどこで行われるか分からないライブへの参加を目指すという、えらくボンヤリした大筋と戯れているだけ。
よって89分という短い尺が恐ろしく長大に感じるほど弛緩している。まるで『タクシードライバー』(76年)のあの退屈な前半部分を89分観させられているようだ。
タイムアップ演出がないから、映画内の時間が止まったままなんですよ。セラ坊は焦ったりしないし(開演時間を知らないから)、ライブ会場を探したりもしない(他のことで忙しいから)。
だからパッと見、この主人公は本当にライブに行きたいのかな? って。
本当に音楽が好きなのかな? って。
セラ坊とカットちゃんが二人きりになる終盤の舞台は、ロック好きにとってはお馴染みのエレクトリック・レディ・スタジオ。
ジミ・ヘンドリックスが建設した有名なレコーディング・スタジオである。
でも、どうしてここが舞台?
カット「ここには出入り自由なの。私のパパ、音楽業界の人なんだな♪」
え~。取ってつけた感満載だし、後出しジャンケンじゃんその設定…。まぁいい。まぁいいよ!
すると、スタジオ見学に余念がないセラ坊が、興奮気味にウンチクを垂れる。
「ここでストーンズやツェッペリンもレコーディングしたんだぜ☆」
黙れ小僧!!!
おめぇ、さっき「ザ・キュアーみたいなニューウェーヴ・バンドが好き☆」つってたじゃねえか。
ニューウェーヴ好きがストーンズやツェッペリンなんて聴くわけねえだろ!
まぁ、そりゃあ「どっちも聴きますよ」という人は探せばいくらでもいるだろうが、少なくともセラ坊は、音楽の趣味、世代、性格、あと俺の直感などから総合判断して絶対にストーンズやツェッペリンなんて無骨なロックは聴かないと断言できる。ましてやジミヘンなんて来世でも聴かないだろう。
ミキサー室に飾られたジミヘンの愛器ストラトキャスターへの無反応ぶりこそがその証拠だぁー!
ミニオンたちでさえジミヘンのギターに興味を示したのに!
その後、セラ坊は神聖なスタジオ内でカットを抱き、「急がなきゃ☆」なんつって二人でライブ会場に赴くが、入場寸前で踵を返して「やはりキミと過ごしたい。この夜は…」などとわけのわからないことを言って、手を繋いで地下鉄のエスカレーターを下りてゆくのでした。
エンド。
…やっぱりライブどうでもよかったのかよ!!
というわけで、女性にはモテるわ、ストラトには言及しないわ、結局ライブ行かねえわで、一応同じロック好きとしてどないやねんという万感の思いがあり余った。
ストレスがあり余るのでレッド・ツェッペリンでも聴くぜ。
論理、論理、論理、論理、論理、タイッ!