シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ワン・デイ 23年のラブストーリー

これ…、美談け?

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2011年。ロネ・シェルフィグ監督。アン・ハサウェイジム・スタージェス

 

しっかり者のエマと自由奔放で恋多きデクスターは、互いに惹かれ合いながらも友人でいることを選び、親友として毎年7月15日を一緒に過ごすと決める。旅行や恋愛相談など友人としての交際を続けながらも、エマは秘かにデクスターを思い続けていたが、あるときデクスターから別の女性と結婚することを告げられ…。(映画.com より)

 

最初に断っておきます。

「泣ける」という可能動詞をこよなく愛するスイーツ女子と呼ばれし邪悪なイチゴたちは、本稿を読まないことを激烈に推奨します。

なぜならスイーツ御用達の本作を今からクソミソにこき下ろすからです。オーライ。

 

さて、『ワン・デイ』だか何だか知らんが、使い捨てコンタクトみたいなシケた題名の本作は、最初から両想いなのに友達以上・恋人未満の男女が長い年月を曖昧な関係で過ごしながら好きでもない別の異性と結婚したり子供を作ったりしてそれぞれの人生をそれなりに幸福に生きてるけどどこか満たされない自分がいたりなんかしちゃったりして最終的にはお互いへの長年の想いが友情ではなく真実の愛だったことに今さら気付いてようやく結ばれる系ラブストーリーである。ご苦労さん。

 

最初から両想いなのだから素直に告白してとっとと結ばれりゃあいいのに、10年も20年も「告白しようかなぁ…。でも断られたら気まずいからなぁ…。このまま友人関係に留めておくべきなのかしらん」なんつってウジウジウジウジした挙句、やっと告白して「やったー。ようやく結ばれました!」って言われても「まぁ、だろうね」っていう。

あと「おっせ」っていう。

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最近こういうのが流行っているのでしょうか。友情と愛情の区別もつかない鈍感男女の恋愛感覚麻痺映画というか。日本のラブコメアニメには多いけどさ。

その嚆矢はロブ・ライナー恋人たちの予感(89年)だが、最近やけにアメリカ映画でこういうのが多い気がしてるんですよ。気のせいかしらん?

恋人たちの予感以降、すなわち90年代~ゼロ年代のハリウッド製恋愛映画は、タイタニック(97年)ムーラン・ルージュ(01年)『君に読む物語』(04年)のような、ロマンティックというよりドラマティックな大恋愛を描いた感動大作が多かった。

ところが2010年代になると、ハリウッド黄金期からの伝統だった大恋愛ではなく「ささやかな恋」の駆け引きが恋愛映画の主成分となり、スクリーンへと向けられた観客のまなざしは「憧れ」ではなく「共感」を求めはじめる。映画のバジェット(予算)が縮小するとラブコメになる傾向があり、より庶民的な共感型のドラマになるのです。 

そのため、携帯電話やSNSといった小賢しい道具を積極的に用い、恋愛映画はひたすら情報戦的複雑化の一途を辿っているスマホ使いまくりの『あと1センチの恋』(14年)なんてまさにそうだよ(ちなみに携帯やパソコンなど電子端末をしきりに出すのはダメ映画の典型)

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ずっとケータイばっかり触ってるスマホ依存の若者たちの病理をドキュメンタリックに描いた『あと1センチの恋』


アン・ハサウェイジム・スタージェスの23年間の人生譚を追った本作は、毎年の7月15日だけを見せていくというなかなか目新しい構成だが、このアイデアが切ないほど活きてこない。

「長い年月の決まった日付だけを描く」というアイデアは、時系列をランダムに配置して、その時々の男女の感情の浮き沈みをシャッフル形式で素描した『(500)日のサマー』(09年)や、その本家本元であるオードリー・ヘップバーン『いつも2人で』(67年)、あるいは近年の『ブルー・バレンタイン』(10年)といった不規則の時系列ブームに逆行して、「毎年の7月15日だけを見せるという規則性を持たせてみたらおもろいんちゃう? 逆に」という逆の発想から出発しているのだろうが、この縛り自体が特別なんの説話的機能も持ってないのですよ。

「7月15日に出会った二人だから、毎年の7月15日だけを見せます」という記念日的なノリだけで7月15日を刻んでいくけど、べつに7月15日じゃなくても成立しちゃうお話なんですよね。

こういうのを私はイデア一発出落ち映画と呼ばせて頂いてます。愛と憎悪を込めて。アリス。

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時系列をシャッフルするとだいたい苦い結末が訪れる

撮影は概ね好調。そこだけは素直に認めたい。けっこう素敵よ。

景色を美しく切りとりながらショットを回避してゆくことで(つまり景色は美しいけど、ただ表面的に美しいだけ)、恋愛映画の幻想性と、恋愛映画が本質的に含み持つ卑俗性をうまく画面に落とし込んでます。
また、低俗な番組の司会者になってショービズの底なし沼にどんどん嵌っていくジム・スタージェス空っぽで軽薄な姿と、ジム坊の軽薄さをことさら強調する華美(つまり下品)な照明・美術・衣装が、純粋な心を持つアンちゃんとの対比にもなっていて。

ところが、念願の作家デビューを果たしたアンちゃんもまた、軽薄なフランス野郎と付き合うようになり、いかにも気取った服を着てモード系の髪形に目覚めはじめる。

何色にも染まっていない若かりし頃の純粋な姿と、富と名声を手にした現在の姿をファッションによって視覚化することで、時代とともに移り変わる二人の生き方や心情を表現しているので、まあ「上手いな」とは思いますよ。

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でも、やっぱりこの手のロマンスには納得いきません。癇癪おこしちゃう!

何十年経っても諦めきれないお互いの愛。

それ自体は結構なことだが、少なくとも本作の二人は、落ち込んだり寂しくなったときにすぐ駆けつけてくれる都合のいい関係にしか映らなくて。

挙げ句に、双方合意の上で「よき友人」という関係を続けていたにも関わらず、急に「やっぱり愛してた」とか言い出して、双方がパートナーを捨てて結ばれる。

自由恋愛ってそういうことなのかなぁ。

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本作に限らず、私は恋の噛ませ犬が出てくる恋愛映画には拒否反応を起こしがちです。

アンちゃんとジム坊は、互いを想い合いながらも、それぞれ別の相手と付き合っているわけで。その辺の女子高生に言わせれば「せつなーい!」てなもんだろうが、私に言わせれば「不義理も不義理」っていう。

で結局、双方のパートナーは、それぞれアンちゃんとジム坊から「ごめん、実は長年好きな人がいて、その人のことが忘れられないから別れて丁髷」とか言われて一方的に捨てられるわけですよ。まさに恋の噛ませ犬。不憫すぎるだろ!

それでアンちゃんとジム坊が結ばれて、めでたしめでたし…って。

これ…、美談け?

だが映画は、あくまでこの二人の奔放なロマンスを擁護する。

ジム坊の妻はほかの男と不倫してましたという展開があって、ゆえにジム坊がアンちゃんのもとに走ってもそれはフェアであるというエクスキューズになっていてさ。つまり主演二人を美化するために、ジム坊の妻を悪役に仕立て上げてるわけですよ。おまけに終盤にぶちかまされる愛する者の死によって、さらにこの二人のロマンスは究極的に美化される。

だけどジム坊もアンちゃんも、配偶者や子供を捨てて結ばれた男女には変わりないわけでしょう?

多くの恋愛映画が視点のトリックによって作られた幻想であるように、本作の場合も、心のどこかで本命の相手を想いながら手近な異性とテキトーに結婚して、ある日突然「やっぱ本命だわ」つって別れを突きつける…という残酷物語なのだ。

ジム坊とアンちゃんのパートナーの視点に立ってみれば激怒必至のふざけんなムービーの決定版なのである。

 

されど浮世では、「愛し合ってるのに結ばれないなんて、せつなーい」とかいって、こういうものが歓待されるわけですよ。「泣ける」という可能動詞をこよなく愛するスイーツ女子から。

切ないことあるかぁ!

あるいは、旧態依然とした道徳に囚われている私の方がおかしいのでしょうか。

逐一「セツナ系コンテンツ」をブチギレのトリガーにしている私の方が


恋は盲目とはよく言うが、不誠実な態度で第三者を振り回すこの男女は恋愛DQNの名に相応しいし、それを美化する本作もしらこいのでフィルム押収!