だから見んなって!!
1959年。ヴァレリオ・ズルリーニ監督。エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、ジャン=ルイ・トランティニャン、ジャクリーヌ・ササール。
1943年、ファシスト高官の息子カルロは、徴兵前の一時をアドリア海沿岸の避暑地で過ごしていた。彼は小さな子供を助けたことから、その母親ロベルタに出会い、恋に落ちる。兵役を逃れるため、二人は山奥の別荘に身を隠そうとするのだが…。(映画.com より)
寡聞にして、『鞄を持った女』(61年)と合わせてヴァレリオ・ズルリーニの作品を初めて観た。イタリアの映画作家だ。
それにしても、ズルリーニ。なんとなく口にするのが躊躇われる名前である。あんまり言いたくないですね、ズルリーニって。「階段からズルリーニと足を滑らせて…」みたいな擬態語を連想せしむるし、何より汚いわ、語感が。
なぜこんな名前にしようと思ったのだろう。あまつさえイタリアにはパゾリーニという巨匠がいるのに。「あっちがパゾリならこっちはズルリ」という具合に、パゾリーニに対抗心を燃やしたのだろうか。
なんにせよ俺はズルリーニなんて名前はいやだ。
ブリジット・バルドー(BB)、マリリン・モンロー(MM)と並んでCCと呼ばれたクラウディア・カルディナーレ主演の『鞄を持った女』。ズルリーニのもうひとつの代表作だ。
さて。本作はTSUTAYAで復刻レンタルが開始され、HDリマスターのDVDとなって甦ったものだが、59年の映画にしては素晴らしく映像がクリアで、イタリア・リミニの艶めかしさが十全に表現されている。
もちろんHDリマスターによる精細化も手伝っているのだろうが、もともとのカメラの性能と照明技術の高さがこの映像美を実現したものと思われる。何らかの技術に感謝。
先に結論めいたことを言うと、「映画としては優れているが、くそイライラする」。これがすべてだ。
祖国の苦境をよそに避暑地リッチョーネでバカンス気分を味わっている上流階級の若者たちがどうなろうが、俺の知ったことではない。
ましてや、浜辺を脅かす敵機の襲来に逃げ惑う人々の中で、泣き叫ぶキッズを助けた青年ジャン=ルイ・トランティニャンが、その母親エレオノラ・ロッシ=ドラゴと恋に落ちるという浅ましいことこの上ないソープ・オペラを、どれだけ豊かなショットと典雅な音楽で飾り立てようとも、こちらの心はビタイチ動かない。
ジャン=ルイ・トランティニャン…ゴダール、ロメール、トリュフォー、ベルトルッチ、ルルーシュら、フランス映画の錚々たる巨匠たちと組んできた俳優。代表作を挙げだすとキリがないが、『男と女』(66年)、『女鹿』(68年)、『暗殺の森』(70年)、『離愁』(73年)など。80歳を過ぎた現在でもミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』(12年)などで精力的に活動。
ひとまずはフランスの名優とされているトランティニャンだが、しかしここでは未亡人エレオノラの横顔をバカみたいにいつまでも注視し続ける辛気臭い相貌が、観る者(特に俺ね!)を大いにむかつかせる。
もうね、ひたすらエレオノラの横顔をジ~~~~ッと見てるのね、この男。しかも無言で。なに見とんねん、と。
そうそう。『離愁』(73年)でのトランティニャンも、ロミー・シュナイダーの横顔を穴があくほど見続けていた。人の顔をじろじろ見るなんてどういう了見なのだろう。気味が悪いし、なにより失礼だと思う。
もちろん俺は、スクリーンの中のトランティニャンに向かって「見んなボケ」を連呼することになる。
海辺で優雅に読書しているエレオノラを、だっさい海パン姿で至近距離から凝視。
おまえはデカい赤ちゃんか?
だから見るなっつーの。
そして何やねん、その佇まいは。かりんとうか?
未亡人のエレオノラに一目惚れしたトランティニャンは、仲間と一緒にエレオノラとその義妹をヨット遊びやサーカスに誘いだして仲良くなろうとする。
だが、ここぞというタイミングでトランティニャンが恋のアプローチを仕掛けられないのは、いつも彼の横にくっ付いている恋人ジャクリーヌ・ササールがいるためだ。だから彼は遠目からジトーッとした熱視線をエレオノラに送り続けるのだ。きも。
恋人ジャクリーヌと一緒にエレオノラを見続けるトランティニャン。
男女9人が深夜の豪邸でコンパじみた事をおこなうシーンでは、恋人ジャクリーヌの目があるにも関わらず、互いにうっとりと見つめ合って淫欲のダンスを踊るトランティニャンとエレオノラ。これがまた露骨すぎて可笑しい。
ほかの女性に心移りするにしても、もうちょっと上手にやりなさいよ。なに堂々と淫欲のダンスなんか踊っとんねん。そんなことしたらジャクリーヌが嫉妬して二人の仲を勘繰るに決まってるじゃねえか。アホか?
映画における視線劇が無前提的にサスペンスたり得るのは、たとえばトランティニャンとエレオノラのように、相思相愛であることを周囲に気取られてはならず、さり気ないアイコンタクトだけで愛を確かめ合う瞬間が刻み込まれているからだが、ここでのトランティニャンは「隠秘」と「露見」の綱渡りを放棄して、「ジャクリーヌにばれてもいいからエレオノラを見続ける(だって好きだから)」という、さながら馬鹿の子みたいな暴挙に出る。
つまり、心理ドラマに必須の視線劇(サスペンス)が破綻しているのだ。
こういうのはジャクリーヌにバレるかバレないかというところで相思相愛のトランティニャンとエレオノラが陰でイチャイチャするからスリリングなんだよ。
後先考えず淫欲のダンスなんかしやがって!
そもそも、どういう精神構造をしてたら恋人の前でほかの女性と淫欲のダンスなんて出来るんでしょう。おまえは『スパイダーマン3』(07年)におけるピーター・パーカーか。
さんざん淫欲のダンスをしたあと、ついにトランティニャンとエレオノラが中庭で口づけを交わしていたところをジャクリーヌが目撃してしまったことで、彼らの仲は決定的に崩壊してしまう。
人の男を横取りしたこと、そして20歳以上も歳が離れていることに対して、一応エレオノラは人並みに背徳感を覚えて「これっきりよ。もう会わない方がいいわ」と突き放すが、トランティニャンの方はジャクリーヌを裏切ったことに対して申し訳なさを感じるどころか、追いつめられた愛の袋小路に興奮してますますエレオノラに夢中になり、「なぜだい。いいじゃないか。こんなにも愛してるのに!」などと御託を並べてしつこく食い下がる。
ハイ出た、ヨーロッパ男に見られる愛のゴリ押し!
良識派のエレオノラが「これ以上、私を苦しめないで。終わりにしましょう…」と言って不実の関係にケリをつけようとしても、「なぜだい。いいじゃないか。こんなにも愛してるのに!」の一辺倒で、エレオノラの話を無視してゴリ押しを試みるトランティニャン。
人の話聞いてんのか?
なんぼほど論理的思考能力が欠如しとんねん、この男。
エレオノラが何を言っても「なぜだい」、「いいじゃないか」、「こんなにも愛してるのに!」の無限ループ。その3つしか語彙ねえのか?
喋るぬいぐるみか、おまえは!
そのあともエレオノラを見続けるトランティニャン。
見てますねぇ、見てますねぇ。
だいぶ見てますねぇ。
この作品が、部屋の中で長ネギを振り回したくなるほど不愉快な理由は…
(1)トランティニャンが超のつくほど粘着質であること。
(2)トランティニャンが変態みたいに対象を凝視し続けること。
(3)トランティニャンが没論理すぎること。
(4)トランティニャンが自分の思い通りになるまで、拒否するエレオノラの袖を引っ張って(3つの語彙だけで)説得を続けること。
…など、ほとんどトランティニャンのクソみたいなキャラクター造形に集約されるが、もうひとつの原因は、そんなトランティニャンの性格を映画がトレースしたかのように、粘着的でまどろっこしい演出と編集のリズムだ。
平たく言えば、著しくテンポが悪い。
ほんの一例に過ぎないが、その場から立ち去ろうとするエレオノラを呼び止めてキス&ハグ…、というパターンが何度も何度も何度も何度も繰り返されるのだ。
悶絶級のしつこさ。
つまるところ、立ち去ることのできないエレオノラと、立ち去る権利を奪うトランティニャンという構図に、「女性を縛りつけて意思を奪い取る、恋愛関係における男性の横暴さ」といったふてぶてしい態度を見るのですねぇ、私なんかは特に。
『若草の萌えるころ』(68年)の評でも述べたが、私は「論理的な話し合い」を重んじるタイプ=議論大好き人間なので(それはそれで面倒臭いタイプなのだろうが)、この映画のトランティニャンみたいに立ち去ろうとする女性の腕を強引に掴んで手前勝手な愛をしつこく押しつけるような男は殺意の対象です。
説得するのは自由だが、腕を掴んで身体を拘束する権利はない。それはれっきとした暴力だ。やめろ。暴力はやめろ。
↓この映画にもしつこい男が出てきます。
そんなわけで、映像的には文句なしに素晴らしいし、HDリマスターにもマジ感謝だが、むかつくから褒めてあげない。
何がズルリーニじゃ。
二度と観るか!
エレオノラ・ロッシ=ドラゴ(左)。圧倒的な大人の色香を漂わせる、ジャンヌ・モロータイプの妖婦。代表作に『女ともだち』(55年)、『激しい季節』(59年)など。2007年に82歳で亡くなった。
ジャクリーヌ・ササール(右)。デビュー作『芽ばえ』(57年)で披露したコート姿や『三月生れ』(58年)での髪型はササール・コートやササール・カットと呼ばれ、日本でも50年代末に大流行した。
「ジャクリーヌの可愛さが心にササール」というすてきなギャグを思いついたので、みんな使っていいよ。