バキバキ・エイミー同情映画。
2016年。トム・フォード監督。エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール、マイケル・シャノン。
アートディーラーとして成功を収めているものの、夫との関係がうまくいかないスーザン。ある日、そんな彼女のもとに、元夫のエドワードから謎めいた小説の原稿が送られてくる。原稿を読んだスーザンは、そこに書かれた不穏な物語に次第に不安を覚えていくが…。(映画.com より)
私はこの映画に失恋しました。
パッと見でガッと一目惚れしたけど、中身を知れば知るほど「あ~…、はんはんはん。あ~~…、なるほどねぇ。ちょっと、ウン。違うかなぁ。失礼しましたぁ…」という感じで自主退場。
どういうことか?
今からじっくり説明するから、そう慌てなさんな。
生き急ぐな!
もくじ
ある日、金持ちハンサムと再婚したエイミー・アダムスの家に、元夫のジェイク・ギレンホールから『夜の獣たち』という自作の小説が届く。不眠症の彼女は夜通し小説を読み耽る。だがその小説は、妻と娘を拉致殺害された男が犯人に復讐するという陰惨な内容だった。
元夫のジェイクは、この小説を通して元妻のエイミーに何を伝えたかったのだろう?
そもそも、なぜジェイクは元妻に自作の小説など送りつけたのか?
劇中ではこれらの意図が明示されていないため、観客の間ではさまざまな考察がなされている。
①化粧バキバキ・エイミーを祝福!
最近、この手の白黒はっきりしない難解映画が多いんだわぁ。『エル』(16年)とか『マザー!』(17年)とか『婚約者の友人』(16年)とか。全部ウチで取り上げた映画やないか。
本作もまさにその類の映画で、ある意味では最も批評するのが難しいタイプの作品だ。なぜなら考察や解説に気を取られるあまり映画としての評価がお留守になってしまうから。
なので今回はあまり絵解きするつもりはありません。
私は映画の話がしたいのです。
さて。『ノクターナル・アニマルズ』の存在を知ったのはすでに日本公開が終わった頃だ。スチールを見た瞬間に「これはやがて観ねば」と心に誓った。「ネバー観ねば」と思ったのだ。
なぜ心に誓ったのか。化粧バキバキのエイミー・アダムスがハイファッションに身を包んでいたからにほかならない。
私は化粧バキバキイズムを称揚しています。化粧はバキバキであること、それが映画女優の原形だからだ。
化粧バキバキか、しからずんば、潔くスッピンか。
どっちかにせえ。
※ナチュラルメイクは観客に対して親近感や共感を促しているので馴れ合いだと思う。
その点、これまで多くの映画でナチュラルメイクを披露してきたエイミーが、本作では化粧バキバキだ。『女神の見えざる手』(16年)のジェシカ・チャステインに比肩しうるほどのバキバキっぷりだ。
もはやバキバキ・エイミーと呼ぶことにやぶさかではないよ、私は。
この時点で『ノクターナル・アニマルズ』はほぼ勝ちと言っていい。どれだけ内容がダメでもクソでも「エイミー・アダムスにバキバキの化粧をさせた」という一点において、すでに勝利の栄光を手にしているのだ、この映画は。
おめでとうございます。
バキバキ・エイミー(超最高)。
②ややこしいけど分かりやすい映画。
さて、いい加減バキバキ・エイミーから離れねばなるまい。
ヒマな映画通によってさまざまな考察がなされている『ノクターナル・アニマルズ』だが、本作が難解映画だとすれば、それは物語の行間に満ちた難解さではなく視覚的な難解さによるものだろう。
この作品は3つのパートが平行して描かれる。
(1)エイミーが『夜の獣たち』を読んでいる現在パート。
(2)エイミーが読んでいる『夜の獣たち』を映像化した劇中小説パート。
(3)エイミーとジェイクの馴れ初めから夫婦生活の破綻までを描いた回想パート。
これら、過去と現在と劇中劇のシーンが複雑にカットバックしながら進んでいく映画なのである。
こうして言葉で説明するとひどくややこしいと感じるだろう。たまったもんじゃないね。
あまつさえ『夜の獣たち』(劇中小説パート)の中に出てくる主人公トニーはジェイク自身が演じているのだ。つまり本作のジェイク・ギレンホールは「エイミーの元夫」と「『夜の獣たち』の主人公」の一人二役を演じている。
クソややこしいわ。
だけど安心されたい。
この3つのパートは映像に微細な変化をつけることでうまく描き分けられているので、実際に観てみるとまったく混乱しないように作られている。
現在パートのエイミーは仲の冷え切った金持ちハンサムと豪勢な暮らしを送っているので寒色だけで画面が構成されており、建造物やインテリアも冷たく無機的だ。
劇中小説パートではテキサスの荒野が舞台なのでイエローを基調としており、粒子の粗いタッチで撮られている。
そして回想パートのエイミーとジェイクは幸せ絶頂期なので暖色が使われており、CGを使って二人の肌もツヤツヤぷるるんとしている。
ふぅ~、混乱しなーい。すんなり呑み込めるー、ってわけ。
わかった?
劇中小説パートにおけるジェイク・ギレンホールとマイケル・シャノン刑事。ジェイクの妻子を殺した犯人に復讐する二人だ。
③映画は客観的な事実だけを映すとは限らない。
この映画に騙されないためのアドバイスをひとつだけ贈りたいと思います。
劇中小説パートの中で、ジェイク演じる主人公は妻子をレイプされて殺される。
それとほぼ同時に、ジェイクとエイミーの結婚生活の破綻が「エイミーの浮気と夫に対する無理解」であることが回想パートで示される。
小説の主人公としてのジェイクと過去のジェイクに共通しているのは「愛する人を失った」ということだ。
つまり『夜の獣たち』とは、現在のジェイクが自分を裏切った元妻エイミーに「自分はこれだけ苦しんだんだぞ」ということを思い知らせるために書いた当てつけ小説なのだ…と誰もが直感する。
だがこれは映画の構造を逆手に取ったミスリードだ。
たしかに劇中小説パートの中で主人公を演じているのはジェイクだが、だからといってこの小説の主人公のモデルが作者のジェイク自身とは限らない。
なぜならエイミーとわれわれ観客が共有する劇中小説パートのシーンは、エイミーが『夜の獣たち』を読みながら頭の中で勝手に膨らませている心象風景に過ぎないからだ。
つまり劇中小説パートはすべてエイミーの主観である。
したがって、『夜の獣たち』の主人公のモデルはジェイクではなくエイミー自身かもしれないし、必ずしもジェイクは復讐のために『夜の獣たち』を書いたわけではない…という可能性が示唆されているわけだ。
そもそも『夜の獣たち』というネーミングは、かつてジェイクが不眠症の妻エイミーにつけたあだ名である。これが露骨すぎるヒントになっている。
小説『夜の獣たち』はエイミーについての物語なのだろう。
映画は客観的な事実だけを映すとは限らない。
文章と同じように、カメラにも「人称」というものがあるのだ。
小説の主人公とエイミーがあたかも一心同体のように重なっている。この意味深な海外版のポスターデザインは大きなヒントだ。
④ショットがイキってる問題。
3つのパートの描き分けや主観を使ったミスリードなど、映画の構造を作劇にうまく活用しているし、全編に渡って何度も繰り返される対比構図のディゾルブも映画ならではの手法だ。
劇中小説パートに出てくるマイケル・シャノンやアーロン・テイラー=ジョンソンの泥臭い佇まいもいい。
それに、アーミー・ハマー、アイラ・フィッシャー、ローラ・リニー、マイケル・シーン、ジェナ・マローンなど、無駄に豪華すぎるキャストがやかましく主張したりぶつかり合うことなく、まるで柵に閉じ込められた気の毒な羊たちのように静かに映画を引き立てている点も特筆しておきたい。
『狂気の行方』(09年)や『シェイプ・オブ・ウォーター』(17年)など何かと当ブログで取り上げる映画にやたらと出てくるマイケル・シャノン(画像左)と、『キック・アス』(10年)でキック・アスを演じたアーロン・テイラー=ジョンソン(画像右)。
DA・KE・DO!
はい、「だけど」が出ました。酷評モードに切り替わったときのサインです。
全体的にキザなのよね、この映画。
もっと分かりやすく言いましょうか。
イキってる。
うん、イキってるというか気取ってるというか…、なんとなく鼻につく作品だったよ。
ここからはもう感情論だけで喋っていくが、私はこの映画をお作りあそばせたトム・フォードに対して「しゃらくせえわ、坊主っ」と言いたい。
なんといってもショットを狙い過ぎ。
ファーストシーンの「腹を揺らして踊る乳丸出しのババア」もそうだし、とりわけ劇中小説パートのテキサスの青空や夕陽を「良い画、撮ったるでー」と気合い入れまくりでおさめたバッキバキのエスタブリッシング・ショットとかね。
※エスタブリッシング・ショット…シーンの始めで人物の位置関係や場所の状況を示すためのショット。大抵の場合ロングショット、もしくは超ロングショットであることが多い。「状況設定ショット」とも言う。
たとえばこういうのね。
現代パートと回想パートに関しては人物も風景もよく撮れているし、もちろん化粧バキバキのエイミーも終始最高なのだが、どうしてテキサスの風景を撮るときだけイキっちゃったんだろう?
鑑賞中にこの疑問をずっと抱いてモヤモヤしていたが、映画を観終えたあとに監督のトム・フォードの本職がファッションデザイナーだと知ってなんとなく合点がいった(全編に渡って画面を艶めかせるハイブランドな衣装や小物にも合点がいった)。
特にCM出身の映画監督に多いけど、異業種の人間が映画を撮ると「一枚絵としての美しさ」に固執する傾向がある。いわゆる「ポスターにして部屋に飾りたくなるようなショット」こそが映画なのだ、と。
でもそれは「映画」ではなく「写真」の考え方だ。
一枚絵としての美しさだけを追求したショットは「まぁ、綺麗ですね」で消費されてしまう。
映画とは、ショットとショットが連なってシーンになり、シーンとシーンが連なってシーケンスになり、シーケンスとシーケンスが連なって一本の映画を構成している。
「ショット」とは映画の最小単位だ(まぁ厳密には「コマ」だが)。
したがって、ショットがそれ単体でどれだけ美しくても、前後のショットと有機的に結びついてなければ一巻の終わりである。
おそらく磨き抜かれた美的感性を持つトム・フォードは、テキサスにも「美」を求めてしまったのだろう。でもテキサスを美しく撮ったってしょうがねえじゃねえか。
ジョン・フォードのように力強く、泥臭く撮るべきだと思います!
ことテキサスに関してはな。
何でもかんでも美しく撮ればいいというものではない。
こと映画に関してはな!
⑤エイミーはそこまで責められるべきなのか?
『ノクターナル・アニマルズ』評もいよいよラストスパートです。
いちばん率直な感想を言っていいですか?
エイミーはそこまで責められるべきなのか?
これはもはや「道義的に納得できない」というレベルの話だから映画評でも何でもないが、とにかくエイミーが終始こっぴどい仕打ちを受けることに我慢ならん。
たしかにその原因は、ジェイクと結婚しているときに今の夫と不倫したエイミーの側にある。それは認める。俺も認めるし、エイミーだって認めてる。
でも、その遥か手前から「不倫するのも無理からぬこと!」と同情してしまうぐらい、若き日のジェイクはエイミーに対して相当ひどいことをしていたと思うですよ!
若き日のお肌つやつやジェイクが可愛い! ひどい奴だけど可愛い!
親の反対を押し切って小説家志望で貧乏なジェイクと結婚したエイミーは、いつまで経っても芽が出ないジェイクに対して「そろそろまともな職について普通の人生を送らない? 子供だって欲しいの」と言うが、あくまで作家の夢にしがみついているジェイクは「愛があったら乗り越えられるさ!」と安いJ-POPみたいなクリシェを繰り返すだけ。
おまけに、自分の母親を嫌っているエイミーに「母親に似てきたな」なんて皮肉を飛ばしたり、「キミは現実から目を逸らしながら生きている!」とエイミーの生き様を腐すジェイク。
どちらかと言えば現実から目を逸らしてるのはお前の方だろ。
これまでずっとジェイクに寄り添って献身的に支えてきたのに、「まともな生活を送りたい」という本音を吐露した途端に言われたい放題で反撃を喰らうエイミーが不憫すぎて…。
またある時には、ジェイクから小説の感想を求められたエイミーが「あなたはいつも自分のことばかり書くけど、たまには他のことも書いてみたら?」と忌憚のない意見をぶつけたところ、ジェイクは今にも泣き出しそうな顔でこう怒鳴る。
「批判しないでくれ! 自分の作品を最愛の人に批判されるなんてショックだわ! 気に入ってくれると思ったのに!」
あのなぁ、ジェイク…。ダメだ、おまえは。
偉大なるジェダイ、ルーク・スカイウォーカーの言葉を借りれば「素晴らしい。すべて間違っている」だよ。
「批判しないでくれ!」は、あまねく表現者が一番言ってはならない言葉です。すべての表現活動は批判に揉まれながら強度を高めていくものだからだ。
「批判」とは物事をより良くするための検討だ。
したがって、批判精神なきところに科学も文化も芸術もない。批判とは人間を人間たらしめる理性の振舞いである。
ましてや、最愛の人や身近な友人の否定的な意見ほど貴重でありがたいものだから「最愛の人に批判されるなんて!」などと甘ったれたことを言ってはならないよ。その意見を作品にフィードバックさせることで、お前の小説はよりタフになっていくのだから。
あと「気に入ってくれると思ったのに!」というしみったれファッキン発言がいちばん気に入らない。なんじゃその甘ったれた発言は。ナメとんのか。
他人に気に入られようとして作ったモノのことを人は「商品」と呼ぶ。
逆に、ひとまず他人など無視して自分の激情のままに作り上げたモノのことを「作品」と呼ぶのだ。
お前は妻に気に入ってもらいたくて小説を書いてるのか? そんな浅いところで創作活動をしているのか?
それとも、お前はただ自分の小説を褒めてくれるイエスマンが欲しいだけなのか?
ならば私がイエスマンになろう。
「イエスマンの歌」を歌ってやるから、よく聞いとけよ。
ジェイクに捧げる「イエスマンの歌」
作詞作曲 ふかづめ
フィッツジェラルドもカポーティも超えてまっせ(超えてまっせ!)
程よいページ数。フゥー、イエ!
触り心地よい紙質。フゥー、イエ!
(装丁もおしゃれ♪)
ヘミングウェイもサリンジャーも超えてまっせ(超えてまっせ!)
世界中で翻訳されてる。フゥー、イエ!
村上春樹も翻訳に乗り気。フゥー、イエ!
(著者紹介の写真がおしゃれ♪)
活字を追う目が止まんない
近視になりそう
又吉(イエス)!
満足か?
くだらねぇ。
ラストシーンの待ちぼうけエイミーにも同情。