あまり好きじゃない方のスピルバーグだが、やはり映画としては一級。
1981年。スティーブン・スピルバーグ監督。ハリソン・フォード、カレン・アレン、デンホルム・エリオット。
ジョージ・ルーカスとのスティーブン・スピルバーグが初タッグを組んだ冒険活劇。
第2次世界大戦前夜の1936年を舞台に、旧約聖書に記されている十戒が刻まれた石板が収められ、神秘の力を宿しているという契約の箱(=聖櫃)を巡って、ナチスドイツとアメリカの考古学者インディ・ジョーンズ(ハリソン・フォード)が争奪戦を展開する。(映画.com より)
はい、今回は『インディ・ジョーンズ』シリーズの第一作『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』をペロッと評論。
シリーズ一作目にも関わらず、タイトルに『インディ・ジョーンズ』とついてないからややこしいんだよね、これ(二作目からはつく)。
それに正式名称は「インディアナ・ジョーンズ」なのに、日本では「インディ・ジョーンズ」という邦題が定着してるから、呼び名が二通りあってクソややこしい。
このシリーズは、盟友のスピルバーグとジョージ・ルーカスが共同製作したもの。
ルーカスはともかく、スピルバーグについてはどこかでがっつりと論じておかねばならないと思ってます。
失われたもくじ
①僕があまり好きじゃない方のスピルバーグ。
スピルバーグは二種類の映画を交互に撮り続けている。
ひとつは世のキッズどもを楽しませる通俗映画。
もうひとつは世のキッズどもを思いきり無視した社会派映画。
で、今回取り上げる映画は僕があまり好きじゃない方のスピルバーグで。つまり前者だよ。
これまで、ただの一度も『インディ・ジョーンズ』シリーズと『ジュラシック・パーク』シリーズに胸を躍らせたためしがない。本作に限らず、私は冒険とか恐竜とかロボットとか、いわゆる「男の子が好きなもの」に対して徹底的に無関心だ。ごめんなさいね。
ハリソン・フォード演じるインディアナ・ジョーンズは、大学で教鞭を執る考古学者であると同時に、愛用のハットと鞭を手にして秘境や遺跡を探検する冒険家でもある。
私からインディアナ・ジョーンズへ個人的なお願いなのだが、頼むから冒険には行かないでほしい。
もしこのシリーズが、大学の講義室でジョーンズ先生がひたすら遺跡や遺物についてボソボソ語るだけの純粋な考古学映画だとしたら、私はこの上なく楽しめただろう(世界中のキッズはこの上なくがっかりするだろうが)。
さて、もう20年近く前に見たきりの『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』を改めて観返してみた。
きっかけは「俺はこの映画の冒頭でインディ・ジョーンズが黄金像と砂袋をすり替えるシーンが好きなんだ」といった友人の一言。
「ごめん、ぜんぜん覚えてねえわ」と不甲斐ない返事をしてしまった私、「これは観返さねばな…」と思い、ようようこのたび20年ぶりに『レイダース』に思いを馳せる!
やっと思い出したわ。このシーンのことを言ってたんでしょ!?(友人に向けて)
観たはいいけど…
やっぱりあかんかった。
すまん。これは完全に私自身の好みの問題だから、映画の側にはなんの責任もない。
私は『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(99年)や『ナショナル・トレジャー』(04年)にも同様の馬鹿馬鹿しさを感じてしまう。
いい年したおっさんが宝探しなんかして喜んでる場合か、と。
だけど私は「作品としての良し悪し」と「感情論としての好き嫌い」は別ものとして区別する「縦軸・横軸 評価法」という奇怪な批評メソッドを持っているので、それに当てはめて総括すると「何が楽しいのか僕にはさっぱりわからないけど、映画としては素晴らしい」と、こうなるわけですねー。
②やはりスピルバーグは巧い―「対比構図」と「肉体の配置」。
スピルバーグ作品のおもしろさは「技術的な上手さ」に裏打ちされている。
たとえば、カイロの酒場でライバルの考古学者・ベロックとジョーンズ先生が語らう長回しのワンショット。
ここでは黙して話を聞くジョーンズの顔を画面手前に置き、長広舌をふるうベロックの顔をその奥に配置しており、「対角線の構図」と「白と黒の色彩対比」を用いてジョーンズとベロックのライバル関係をたったひとつのショットの中で見事に視覚化している。
これが映画だ。
物語とかセリフとか芝居に頼らずとも、このひとつのショットがジョーンズとベロックの深い因縁を饒舌に物語っているのだ。本作屈指の名ショットと言ってもいい。
微妙な関係性から徐々に惹かれ合っていくヒロイン カレン・アレンとのロマンスも、決して物語やセリフではなく「肉体の配置」によって的確に表現している。
二人の曖昧な関係性は言葉では十全に語られないが、画面を観ていればわかること。「肉体的な距離の近さ」が「心の距離」に比例するからだ。
カレンが初登場するネパールの酒場では、ジョーンズと彼女を「横並び」に配置することで、何やらこの二人が気まずい関係であることを示唆する。
カイロの市場では誘拐されたヒロインを主人公が追いかけることで「姫を救出する王子」という古典的な作劇が立ち上がり、やがてこの二人は結ばれるのだと誰もが直感する。
そしてタニス遺跡の中で大量のヘビに囲まれるシーンでは「おんぶ」や「お姫様だっこ」といった疑似的なロマンスの結実によって、二人の仲はいよいよ決定的なものになる。
③冒険バカは女心に気づかない。
そしてついに貨物船の中で交わされる接吻。
この貨物船でのキスシーンがまたすごい。
貨物船の中で傷の手当てをするカレンが、どこを触っても痛がるジョーンズに「どこなら痛くないのよ?」と苛立ちながら訊ねると、「ここは痛くない」と言ってジョーンズが指さした肘にやさしく口づけをする。調子に乗ったジョーンズが「ここも痛くない」と言って自分の額を指さすと、そこにも口づけするカレン。
そしてついに「ここも…」と言って自らの唇を指さしたジョーンズと接吻を交わすのだ。
うひゃ~、恥ずかしい!
ロマンチックだけど、これはちょっと恥ずかしい。思わず笑ってしまった。
さすがは恋愛経験絶無のスピルバーグ。中学生の妄想のごとき、ウブすぎるキスシーン!
この絶妙な青臭さはスピルバーグが「女」を撮れない監督だからこそ。
でもそんな「色事に対する鈍感さ」が、冒険バカゆえに女心に気づかないインディアナ・ジョーンズというキャラクターを描く上では見事にハマってるんだよね。
愛する女や家庭を顧みずに自分の好きなことだけに熱中するインディアナ・ジョーンズは、『未知との遭遇』(77年)のリチャード・ドレイファスや、『フック』(91年)におけるロビン・ウィリアムズ(ピーターパン)と同じだ。
こうした趣味に没頭するバカな男というモチーフがスピルバーグ作品では繰り返し描かれるが、彼らは他でもなく映画バカのスピルバーグの分身である。
④キッズが見たらトラウマ必至の残酷描写!
さらにスピルバーグの本質に肉薄していきます。
20年ぶりに本作を観返して、まず第一にインディアナ・ジョーンズが何の躊躇いもなく人殺しをするというエクストリームな描写の数々にショックを受けた。
だがその直後、「ああ。そういえばこれスピルバーグだったな」ということを思い出して得心。
スピルバーグは子供向け映画の名手という顔を持つ一方で、キッズが見たらトラウマになるような暴力描写をふんだんに盛り込む悪趣味監督としての顔も併せ持つ。『プライベート・ライアン』(98年)や『ミュンヘン』(05年)を例に挙げるまでもないだろう。
だからインディアナ・ジョーンズの冒険は殺人や暴力に彩られている。
ネパールの寒村でゲシュタポに襲われたジョーンズ先生は、敵に火をつけて燃やした挙句に銃で脳天を吹き飛ばす。
カイロでヒロインを救出するシーンでは、大刀を振り回す巨体の男が「さぁ決闘だ!」と挑んできたのを無視してなんの躊躇いもなく拳銃で射殺する。
輸送機の真下で格闘するシーンでは、敵がプロペラに巻き込まれて四肢がグチャグチャになって辺り一面に血や内臓が飛び散る。
極めつけは、ベロックが聖櫃のフタを開けると、中から悪霊が飛び出してきて敵の一軍を焼き尽くすというオカルト丸出しのクライマックス。
スピルバーグお得意の 「強烈な閃光」。
皮膚は爛れて骨が溶け、血だらけの骸骨になるまでをストップモーション・アニメで描写しているのだが…、気持ち悪いわ。
おぼぼぼぼぼぼぼぼぼb…
アッバァァァァァァァァ!
やりすぎだろ。
こども泣くわ。
そんなわけで、冒険嫌いの私はインディアナ・ジョーンズが巨大な岩に追われようが蛇に襲われようがドッチラケの真顔で静観していたが、映画の端々に「あ、ここにもスピルバーグ節が! ここにもスピルバーグ節が!」といってインディアナ・ジョーンズ越しにスピルバーグの作家性を見つけて楽しんでいた。
というか、世間が『レディ・プレイヤー1』(18年)で盛り上がっているタイミングで、よく今さら『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』なんて取り上げようと思ったな…と自分自身に対して思わなくもない。
流行に逆行してゴー。