純愛? いえ、バキバキの性愛です。
2016年。エイプリル・マレン監督。エリカ・リンダー、ナタリー・クリル、セバスチャン・ピゴット。
心身ともにたくましく、昼間は大工として働くダラスは、夜ごと違う女性と関係を持つという奔放な日常を送りながら、自身の居場所を探していた。ある週末の夜、ダラスはバーの片隅で、ファッション誌の編集者として成功するキャリアウーマンのジャスミンと出会う。情熱的に絡み合い、お互いの愛を確かめ合った2人の時間は永遠のものと思われた。しかし、ジャスミンには結婚を約束した男性がおり、その男性の存在がダラスとジャスミンの行く末を遮る大きな障壁となる。(映画.com より)
ぷんすか怒ってます、私。
最近、映画を観てぷんすか怒ることが多いので、酷評レビューばっかり書いているのだけど、ネガティブワード乱発の酷評レビューばっかり立て続けにアップしちゃうと読者様の気分までダダ下がりにしちゃうので、絶賛回と酷評回をいい塩梅に配置してバランス取って行こうみたいな打算があります、私の中に。
ちなみに私の「酷評」は3段階のステージに分けられます。
軽:ぷんすかレビュー
「疑問」、「不快」、「呆れ」を感じた作品を腐したレビュー。
これが最も多い。とはいえ良いところがある映画も多いので、部分的には褒めているのが特徴。
中:プチ切れレビュー
「怒り」を感じた作品を腐したレビュー。
「ブ」じゃなくて「プ」ですよ。あくまでプチ切れです。ありとあらゆる悪口や嫌味が飛び交うことが特徴。だいぶキレてますが辛うじて理性は保ってます。
重:ブチ切れレビュー
「憎悪」や「殺意」を感じた作品を腐したレビュー。
阿修羅のような形相で「指よ、折れろ」とばかりにキーボードを弾丸押しして罵詈雑言を書き殴った支離滅裂かつ感情的な文体が特徴。一年に一度あるかないかの貴重な回で、幸いにも当ブログではまだ披露していない(披露するのが怖い)。
くだらない前置きはこの辺にしておきましょう。
本日は『アンダー・ハー・マウス』をぶった斬って候。
まずはこの写真をご覧あれ。
※女性です。
『アンダー・ハー・マウス』は、ユニセックスなトップモデルとして活躍するエリカ・リンダーの初出演作だ。
女性でありながら「イケメン」と評されるほどの中性的に整った顔立ちから、若き日のレオナルド・ディカプリオやエドワード・ファーロングとの相似性をみとめる者が後を絶たないという!
※大事なことなのでもう一度言うけど、女性です。
画像右はディカプリオに見えるし、画像左はエドワード・ファーロング(『ターミネーター2』のイケメン小僧)に見える。
そんなエリカ・リンダーが主演を務めた『アンダー・ハー・マウス』は、女性同士の過激な性愛を描いた官能作品である。
監督はあくまで「性愛」ではなく「純愛」という言葉にこだわっているが、全体の約60パーセントはセックスシーンで、夜な夜なレズバーで女を漁るエリカの奔放な性が描かれているのでバキバキの性愛です。いくら純愛という言葉でごまかしても無駄だ。ぜんぶ見通しだっ。
そんなイケメン・エリカ、ようやく運命の相手ナタリー・クリルと出会って愛し合うようになるが、精神的な交流なんてまるで描かれず、セックス→ピロートーク→セックス→ピロートークの繰り返しで、「これを純愛と呼ぶなら性愛との違いはどこにあるんでしょうね?」という感じで。
少なくとも表層的にはエリカの止まらない性欲がただただ律儀に描かれているだけだし、どうも私の目にはそれを「純愛」という方便で美化しているだけのようにしか映らないのですよ。文字通りのファック映画だ(質的にも内容的にも)。
ちなみにエイプリル・マレンというまれに嘘をつきそうな名前の監督もまた女性監督です。
それにしても男前やなぁ。
ただ単にセックスしてるだけの映画ならまだしも、この作品にはひとつ厄介なファクターが横たわっていて。
まぁ、ご想像の通りLGBT問題だ。
LGBT文化全盛の中で作られたレズビアンを主題とした内容なだけに、「レズビアンの何が悪い!」という主張が過剰なまでに詰め込まれていて、もうヒステリー寸前の逆ギレ状態。
レズビアンに対する偏見をなくすために彼女たちの恋愛観とかレズビアンバーといった「同性愛者の思想・文化」を扱う…というのは映画としてこの上なく真っ当なのだけど、もはや監督含め映画全体がエリカという主人公に100パーセント肩入れしちゃってて、自分らしく堂々と(ていうか奔放に)生きるエリカを無条件で称揚または盲信しているさまには薄気味悪さすら感じる。
たとえば、エリカは毎晩のようにレズビアンバーで女を漁っては行きずりの関係を結ぶ、一般的に言えば「性に奔放」なキャラクターだ。
だが映画は、決してエリカの奔放な性生活を客観的な立場から批評するでも留保するでもなく、むしろ「クールで格好いい生き方」として全面的に肯定している。
「今の時代、レズビアンはこれぐらいサバサバしてなきゃダメよ!」とでも言うかのように。
えてして異性愛者の奔放な性生活は「ふしだら」とか「男好き・女好き」といった言葉で批判されるのに、その「奔放さ」はレズビアンを対象にした途端に「純愛」になるんですか? っていう。
マイノリティを過度に贔屓することって、一周回って差別になるんじゃないの?
エリカと本気で愛し合ったナタリーには婚約者の彼氏がいるが、ナタリーはどっちつかずの態度でエリカと婚約者の二足の草鞋を優雅に履きこなしている。
ところが、女二人がバスタブで激しくヤってる現場を、出張から帰ってきた婚約者が目の当たりにしてしまう。
婚約者 「うそーん」
エリカ「うそーん」
ナタリー「あ、やっべ!」
おれ 「うそーん」
多数決により結論「うそーん」。
浮気にぶち切れる婚約者に対して「でも相手は女なのよ…」と、言い訳してるようで言い訳にもなってない言い訳をするナタリー。
一日経って冷静さを取り戻した婚約者だが、今度は激しく落ち込んでナタリーからの性交渉を「とてもじゃないが今はそんな気分にはなれない…」と断る。するとナタリーはバルコニーでヘコんでる婚約者に対して「私だって辛いのよ。あなたも努力して!」と謎の努力を要請。
もはや厚かましくて引く。
だが婚約者はナタリーとやり直すことを決意し、ナタリーにエリカとの関係を綺麗さっぱり清算させたあと、しばらく抱く気にもなれなかったナタリーをついに抱こうとする!
しかし土壇場になって、ナタリーの方が「ごめん、やっぱ無理…」といって仲直りセックス大会中止。自分を許してくれた彼氏との婚約も破棄して、結局エリカのもとに走ってしまう。
うそーん。
「恋の噛ませ犬を守る会」の会長を務める私としては、婚約者が不憫で仕方ないし、ナタリーの外道ぶりは到底看過できるものではない。ナタリーぶっ殺す!
…というのはわたくし一個人の感情論として流して頂きたいのだが、この問題の本質は「同性愛を擁護するために、ナタリーと婚約者の異性愛を相対的不平等に扱っている」という点だ。語弊を怖れずに要約すれば「異性愛よりも同性愛の方が尊重されるべき」というバイアスが極端に働いている。
また、婚約解消したナタリーが、晴れて堂々と付き合えるエリカに対して「同僚にあなたのことを打ち明けたわ」と報告するラストシーンの一言にはドッチラケだ。最後の最後にカミングアウト展開で一気にテーマが矮小化されてしまう。
『ムーンライト』(16年)評でも少し触れたが、私はLGBTが広く認知されて受け入れられることはとてもグレートなことだと思っているけど(より多くの人が自己表現しやすくなるからね)、ただ、昨今顕著な神経質なまでのLGBT推しには違和感を覚えている。
たとえば本作も「女性スタッフだけで作る」という、とてつもなくバカなことをしていて。
「それ、なんか意味あんの?」と。
ここまでは映画の思想や態度について不満を爆発させてきたけど、実際に映画としての出来がよければ結果オーライなんだよ。「作り手のスタンスには賛同できないけど、映画としては素晴らしいし、技術的にも一級でした。悔しいけど認めざるを得ない!」ってね。
でも、それすらナイ状態で。
カットの繋ぎは滅っ茶苦茶。エスタブリッシング・ショットを撮り逃したまま部屋Aから部屋Bのショットに繋げているのでその部屋が誰の家の部屋なのかがまったく分からない…といった編集ミスが目につく。
おまけに純愛純愛と言ってるわりには、やってることは性行性行で「なんなの? 純愛=性行なの? だとしたら動物の交尾はぜんぶ純愛なの?」と。「純愛」ってこんなに安い言葉だったんだ…と目が開かれる思いです。
この映画で描かれる愛には説得力がない。
畢竟、「マイノリティに対する理解」と「マイノリティを守るためのマジョリティに対する攻撃」を履き違えると、ある意味ではマイノリティもマジョリティも差別してしまう結果になる…、ということに気づかされる作品でした。
レズビアンを描いた映画では『キャロル』(15年)がおすすめです。『キャロル』は最高だ。
ただし、主演のエリカ・リンダーだけは絶賛したい。
フォトジェニックな佇まいや、タフな骨格、そして曖昧な笑みは、それだけで画面をさらい、映画を支配している。ぜひモデル業だけでなく映画にもバンバン出てほしい。この監督以外の映画にね。
えらいのが出てきたなー。今後が楽しみだなぁ。
まぁ、エリカ・リンダーを発掘した…という点においては意義のある作品なんじゃないすか?(ヤケクソ)
もう知るか!