シンジ君の精神世界 × 7人分=この映画。
2015年。テレンス・マリック監督。クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、タリー・ポートマン。
気鋭の脚本家リックは、ハリウッド映画の仕事を引き受けたことをきっかけにセレブな生活を送るようになるが、その一方で心の奥底に怯えや虚しさを抱えていた。進むべき道を見失ったリックは、6人の女たちとの出会いと愛を通して自分の過去と向きあっていく。(映画.com より)
おはようございます。
しばしば私は人と話してて、相手が本題を口にする前に「この話、ふかづめさんにしましたっけ?」と事前確認されることが多い。
知るか。
相手がまだ話してもいない内から、開口一番「この話、ふかづめさんにしましたっけ?」なんて言われても、僕はまだその話を聞いてもいないから、そいつの言う「この話」がどの話なのかなんて分かるわけないよね。
「話し終わったあとでするべきじゃない? その確認」と思ってしまいます。
まぁ、きっと相手にしてみれば、すでに色んな人にその話をしてきたから私に話したかどうかまでいちいち覚えておらず、半ば独り言に近い形で「この話、ふかづめさんにしたかなぁ? いや、まだしてなかったかな?」と呟いて薄れゆく記憶を必死で辿ろうとしているのだろうけど、少なくとも言われた側としてはあまり気持ちのいい言葉ではない。
だって、開口一番「この話、ふかづめさんにしましたっけ?」なんて言われたら、「いやそれは知らんけど、その話を僕にしたかどうかすら覚えてないということは、少なくともこれまで散々いろんな人にしてきた使い古しの話題、すなわち、すでに鮮度を失った出涸らしの話題ということだよね。それを私にぶつけてきたということは、きっとこの人にとって私という人間はかなり下のランクに位置するどうでもいい人間ということ。いわば、シェフが『お前みたいな薄汚いポンコツ野郎にはこれで充分だ。ハハ。これ食ってさっさと帰れ』つって、余った食材を使ってテキトーに作った料理をオレという客に出す、みたいなナメが働いている。ふかづめナメだよ。ナメられて悲しいな。切ないな」って思ってしまうよねぇ。
だから「この話、ふかづめさんにしましたっけ?」という意味のない事前確認はやめてね。地味にハートブレイクするから。おねがい。
そんなわけで『聖杯たちの騎士』です。
- ①「独りよがり」の代名詞、テレンス・マリック。
- ②テレンス・マリックの歪んだ磁場。
- ③これは映像素材の洪水であり、映画ではない。
- ④映像詩さえ撮れなくなった男の世迷い言。
- ⑤唯一の救いは「オールキャストという眼福効果」。
①「独りよがり」の代名詞、テレンス・マリック。
テレンス・マリックは『ツリー・オブ・ライフ』(11年)ではっきりと見限った監督だ。
私は普段、どれだけダメな監督でも見限ることはしないし、むしろ大嫌いな監督ほど最新作が出るたびに欠かさずチェックする「嫌いなもの好き」を自称している。
だが『ツリー・オブ・ライフ』のテレンス・マリックは度し難いまでの映画に対する冒涜を喜々として演じ、普段こんなに温和で紳士で心やさしい私を般若のような顔面にした男である。
「二度とテレンス・マリックは観るまい」と思った。
しかし、あれだけ意思堅固にテレンス・マリックを見限ったにも関わらず、結果的に私は『聖杯たちの騎士』を観てしまった。理由は「好きな俳優が大勢出ていたから」です。
ミーハー!!!
テレンス・マリックを知らない人に向けて彼の作家性を簡単に要約しよう。
なんとなく綺麗でなんとなくポエティックな映像に、なんとなく綺麗でなんとなくポエティックなナレーションが延々と挿入される、なんとなく綺麗でなんとなくポエティックな映画をよく撮るおっさん。ザッツオールである。
まぁ、日本のアニメ界に喩えるなら新海誠でしょうね。
私に言わせれば、テレンス・マリックは独りよがりの代名詞的存在にして、感性一発勝負の先駆け的存在である。
「感性一発勝負」とは、映画理論や映画的ルーツをこれといって持たず、独自の美学・感性に根差した方法論だけで好き勝手に映画を撮ること。要はデタラメ映画術。「なんかイイじゃん。雰囲気が好き」などと曖昧な感想を述べるサブカルorアート系の人民から支持を受けることでかろうじて商業的にも成立する。
そんなテレンス・マリックの唯一の長所は寡作であることだ。作品数の少なさが唯一の救い。
だが近年、70歳の大台に乗って急に勢いづき、アホみたいに映画を撮りまくっている。困ったもんだ。
テレンス・マリックの代表作を挙げてみた。まぁ、こんなところだろう。
②テレンス・マリックの歪んだ磁場。
はっきり言って、テレンス・マリックを巨匠と崇めるような文化的土壌を持つ国からはロクな映画人は出てこないだろう、と私なんかは愚考している。
日本でも、一部のシネフィルからは熱烈に支持されているが、「ではテレンス・マリックのどこかどういう風に優れているのか」といった具体論は誰も口にしない(できない?)。
だけど、シネフィルの間ではテレンス・マリックを貶すことはなんとなく不文律のタブーとされている。テレンス・マリックを攻撃することは自らの美的感性の欠如ぶりを露呈する行為に等しいので、プライドの高いシネフィルほど本当はよく分かってないのに雰囲気だけでテレンス・マリックを称揚する…といったおかしな磁場が少なからず存在するのだ。
しかし、そんな磁場を飄然と断ち切り、堂々とテレンス・マリックに不快感を示した映画評論家が蓮實重彦*1(通称ハスミン)だ。
『この映画作家の「謙虚」さの欠如は、見る者の「寛容」さの限界を超えている』という痛烈な題で『ツリー・オブ・ライフ』を酷評してみせた。
「この作品が見る側に期待しているのは「寛容」さではなく、もっぱら「従順」さである。あるいは、「従順」さの錯覚をあおりたてるひたすらな「盲信」だといってもよい。オーソン・ウェルズやスタンリー・キューブリックでさえその種の「厚顔無恥」だけは自粛していたのに、テレンス・マリックはといえば、「寛容」さによる映画の相対的な肯定とは異なる地点へと見る者を誘いこみ、自分とともに歩むかそれとも自分を見捨てるのかという二者択一を要請しており、その点で、宗教的な風土を身にまとったいかにも「傲慢」な映画作家だというしかない。」
『映画時評2009-2011』より
さすがは元東大総長だけあって理知的な文章だが、ハスミン文体に慣れた者にとってはいかにハスミンがこの映画にぶち切れているかは想像に難くない。
私にはハスミンのような明晰な頭脳がないので、この作品を下品にこき下ろしていこうと思う。
③これは映像素材の洪水であり、映画ではない。
テレンス・マリックを知る者にとっては「毎度お馴染みの…」ということになるが、本作にはダイアローグ(人物同士の対話)がほとんどなく、モノローグ(独白)が大部分を占めている。
映画脚本家のクリスチャン・ベールが、恋人、元妻、行きずりの娼婦といった6人の女たちと関係していくだけの内容なのだが、ほとんど各キャラクターのモノローグだけで映画は進行していく。
たとえば「人生というパズルは永遠に完成しない。バラバラのままだ…」とか「私は旅人。放浪者。異邦人…」といったキザなモノローグが延々続く。
だいたい「私は旅人。放浪者。異邦人…」って何やねん。
なんで同じような意味のことをなんべんも言うねん。同語反復も甚だしいわ。
このような恥ずかしモノローグを、すべてのキャラクターが118分ノンストップでボソボソと呟いているのだ。
もう少しご紹介しましょうか。
「私に何を臨む? 魔法をかけてほしい? 夢を見せてほしい? 夢はいい匂い…。でも夢じゃ生きられない」
「おまえは流浪の身…。異国の地の異邦人。巡礼者。騎士だ。道を見つけろ。暗闇から光の中へ…」
などなど、ポエムもしくは歌詞みたいな何か言ってるようで何も言ってないモノローグが延々と続く。
そこに、海辺をぷらぷらしたり、女と身体を触り合ったり、カリフォルニアの夜景をおさめた映像がポンポンと乗せられるだけ。
とりわけ広角レンズの多用と、アラビア的な音楽の濫用にはうんざりしてしまう。
もう…、言ってしまいますよ。
プロモーションビデオです。
映画というのは、ショットとショットの間に意味や繋がりがあって、それによって物語の事態や状況が変化していくさまを「シーン」として語るメディアだ。これを映像言語と呼ぶ。言葉の代わりに映像によって何かを語る。それが映画だ。
つまり、ある様子をカメラにおさめた「ショットA」と「ショットB」は、有機的または論理的に結びついている。映画における編集作業とはショットの文脈を整えることにほかならない。文章と同じだ。文法や論理がないとしっちゃかめっちゃかになるだけ。
だがテレンス・マリックのように、映像言語ではなく「映像詩」を志向するタイプの映画には、この「文脈」や「文法」がない。ただ雰囲気で撮った映像素材が脈絡もなく繋がれているだけ。
「映像」としてはめっぽう美しいが「映画」ではない。すなわちプロモーションビデオなのだ。
④映像詩さえ撮れなくなった男の世迷い言。
…と、いま述べたようなことは、テレンス・マリックの過去作を観るたびにこれまで幾度となく糾弾してきたことなので、これ以上は言及しません。もういいよいいよ。映像詩でもなんでも好きにしなはれや!
とにかく主人公のクリスチャン・ベールは心の奥に虚無や孤独を抱えているらしく、彼と出会う6人の女たちもまた心の奥に虚無や孤独を抱えている。甘ったれしか出てこない映画だ。
しかも画面に映し出されているものは「カラオケ映像」みたいに脈絡や規則性を欠いた「なんとなく綺麗でなんとなくポエティックなショット」ばかり。
観る者は、まるで心に何らかの問題を抱えて何らかの事柄に思い悩むキャラクターたちの精神世界を横断していくような錯覚を味わう。
『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話がひたすら118分続くと思ってくれ。
シンジ君の精神世界 × 7人分だよ。
しかも「心に抱えた何らかの問題」とか「思い悩む何らかの事柄」の「何らか」がいったい何なのかについては一切明示されない。
精神世界でいろんな人に祝福されるシンジ君。おめでとー。
そして、ある意味ショックだったのは映像が言葉に従属してしまっていることだ。
テレンス・マリックといえば、映像によって詩を語る映像優位のポエマー監督だったが、本作はモノローグ(独白=言葉)が主体で、映像はモノローグのオマケ扱いだ。
まるで目で見るラジオドラマといった具合なのである。
私は長年テレンス・マリックのデタラメな映像詩を批判してきたが、もはやその映像詩さえも言葉に従属してしまった作品。それが『聖杯たちの騎士』だ。
ついに映像詩さえ撮れなくなった男の世迷い言を延々と聞かされ続けるだけの118分。
観ている最中、却ってハイになったわ。
女優を撮ることに関してだけは上手い。ケイト様!
⑤唯一の救いは「オールキャストという眼福効果」。
テレンス・マリックが撮っているのは「限りなく映画に似た何か」なので、この人の作品に映画としての瑕疵を指摘したところで何の意味もないのだけど、それでもあえて映画的瑕疵と論うならば、まず第一に主人公が脚本家にも関わらず一度として原稿用紙またはワープロに向かうシーンがないこと。
これは明らかに意図的なもので、ハナから映画を放棄した身振りだ。
だが、本人でさえ言い逃れできない瑕疵がひとつある。
『聖杯たちの騎士』は、さまざまな女を渡り歩く男の話なのに、ベッドシーンがひとつとしてカメラにおさめられていないことだ。
クリスチャン・ベールがテリーサ・パーマーとシーツの中でじゃれ合うショットだったり、ナタリー・ポートマンのつま先を舐めるショットだったり、なるほど「撮ろうとした痕跡」こそ認められるが、決定的に男女が交わる瞬間を撮り逃している。
私が記憶する限り、テレンス・マリックの映画にはベッドシーンがひとつも紛れ込んでいない。それは本人にとってのある種の美学なのかもしれないが、傍目からはどうしても「70歳にもなってベッドシーンのひとつも撮れないなんて」と呆れ返ってしまう。
女優を撮ることに関してだけは上手い。ナタポー!
他方、クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、ナタリー・ポートマン、アントニオ・バンデラス、フリーダ・ピントーなど錚々たるキャストが集結しているので、辛うじて眼福効果だけはみとめられます。これで怒りを和らげろってか?
和らいだわ、チクショー!