空前絶後の逆エイリアン。
2015年。ルシール・アザリロビック監督。マックス・ブラバン、ロクサーヌ・デュラン、ジュリー=マリー・パルマンティエ。
少年と女性しか住んでいない島で母親と暮らす10歳の少年ニコラ。その島の少年たちは、全員が奇妙な医療行為の対象となっていた。そんな島の様子に違和感を覚えたニコラは、夜遅く外出する母親の後をつけてみることに。やがて海辺にたどり着いた彼は、母親がほかの女性たちと「ある行為」をしているのを目撃してしまう。(映画.com より)
ハイ、おはす。今日もぶざまな太陽、昇りくる。
先日、もっと深く知り合いたい映画ブロガーランキング第4位に堂々輝くとんぬらさんに「超辛口」と評して頂きました。
なぜバレた?
mixiレビューならいざ知らず、ここ『シネマ一刀両断』では香辛料控えめで猫かぶって「マイルドな私」を出していたつもりなのだけど(未だブチ切れレビューすら書いてないしね)、とんぬらさんにはあっさり看破されてしまいました。猫、かぶれてないですか? じゃあ何をかぶろうかな。鳥打帽?
というか、私ごときが「超辛口」になるということは、いかに世間の映画ブロガーが波風立てぬように甘口のレビューを書いてるか…ということですよ!
とんぬらさんやGさんのように、思ったことをギャンギャン書けばいいのに。
何事によらず、「※私個人の感想です」とか「少なくとも僕はそう思いました。僕はね。僕はね」というエクスキューズを入れて反論の予防線を張っている人を見ると、「誰に遠慮をしてるんだろう?」と不思議に思います。
批判なんか知るか。むしろ批判精神は大事だ。いちばんヤバい奴は他者から受けた批判を無視する奴だ。
どうせ俺もアンタもそのうち死ぬんだ。批判の予防線は張れても、死は予防できない。好かれようが嫌われようが関係あるか。死んだら仕舞いじゃ。
死は最高!
…というわけで『エヴォリューション』ですね。はーい。
『エコール』(06年)のルシール・アザリロビック(ギャスパー・ノエの嫁)の10年ぶりの新作は、こりゃもう完全に『エコール』の少年版でした。
孤島で暮らす少年たちが毎晩奇妙な手術を施され、恐怖を感じた主人公が島から逃げ出そうとする話。
これは、外界と隔絶された寄宿学校で少女たちが毎晩ダンス発表会をさせられ、脱走を企てた生徒は教師たちによって殺される『エコール』と話の骨格がほとんど同じ。
共通しているのは物語だけではない。
無垢な子供が大人たちのある目的のために利用されるという謎めいた主題。そこで出てくる大人はなぜか無表情な女性ばかり。映画の舞台は人間社会から隔絶されたコミュニティの中だけ…etc。
子供たちは毎日、謎の薬を飲まされ、謎の注射を打たれ、謎の海藻オートミールを食べさせられる。副作用としてたまに鼻血がプープー出る。そして夜になると手術室に運ばれて腹にメスを入れられるのだ。
物語の舞台は海沿いの病院に限定され、台詞はほとんどない。
深海のイメージが繰り返し挿入され、ヒトデのモチーフが頻出する。主人公は海の底で人間の死体を見たといい、その死体の腹にはヒトデが張りついていたという。また、手術室の五芒星形の無影灯もヒトデのモチーフを象っている。
ヒトデに興味を示すキッズたち。
これは何についての映画なのだろう?
レビューサイトを覗けば、ほとんどのレビュアーがポカンとしていた。ようよう絞り出したように「さっぱり意味はわからないが映像は美しい」と申し訳程度の感想を漏らしていたのだ。
だが、この映画はシュルレアリスムというものに理解がある人にはさほど難解ではない。
まず、この監督はジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受けたと明言している。どちらもシュルレアリスムの画家だ。
シュルレアリスム、俗に言う「シュール」というやつだが、日本語では超現実主義と訳されている。超現実主義とは、人間の無意識や、睡眠時の夢、深層心理などを表現した芸術思想だ。
とかく現代のヤングマンたちは、あり得ない光景や非現実的な状況に対して「シュールwww」と言ってけらけらと笑いがちだが、これは端的に誤用。むしろ逆です。
「シュール」とは非現実的なさまではなく、現実的すぎて現実かどうかさえ疑わしいぐらい現実的なさま(超現実)を指す。
だから夢の世界に近い。夢を見ているとき、多くの人は「これは現実だ」と思うだろう(もちろん夢を見ながらこれが夢だと気づく場合もあるが)。そして夢とは意味深なもので、さまざまな示唆やメタファーに富んでいる。
そしてこの『エヴォリューション』は、まさに超現実的な世界観と夢の暗喩性を持った、紛うことなきシュルレアリスム映画なのだ。
キリコ(左)とエルンスト(右)の作品。
※以下ネタバレです。
映画中盤で、主人公は大人たちの背中に吸盤がついていることに気付く。どうやら人間ではないらしい。彼女たちは、少年の腹部に「人間ならざるもの」の胎児を植えつけることで子孫を増やしている生き物だったのだ!
なんやそれ。エイリアンかよ。
えらく突飛な話というか、飛躍っぷりがすげえわ。
『エコール』と比べてもずいぶん現実味がなく「え、そんな話だったの?」と思うような予想の斜め上をいく展開だ。
しかし、この突飛な話をシュルレアリスムの手法で表現しているので、表面的には「浮遊感のある幻想的な映画」に見えるのだ。そしてその浮遊感や幻想性には明確な意味がある。
たとえば、この島の大人が全員女性である理由は、物語の中で「種の危機」に立たされる少年たちの恐怖心を表象するためでしょう。成人男性、もしくは父という自分たちの未来の姿がないことで、(「僕は死ぬの?」という台詞にもあるように)彼らはこの世界で男は生きていけないことを無意識に理解している。その無意識は「成人女性しかいない世界」という形で表現されている。
主人公が赤いヒトデを石で潰したあとに鼻血が出る…というシーンも象徴的だ。五芒星形のヒトデは主人公(人間)そのものだからだ。
そのあと主人公は、虐めたヒトデをガラスの鉢に入れて飼うことにするのだが、これも島に閉じ込められた少年たちの境遇を表象している。
また、なぜ「人間ならざるもの」の胎児は少年の腹部を母体にするのか。
これはルシール監督が最も影響を受けた映画にデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』(77年)を挙げていることが大きなヒントになっているが、どうやらこの女性監督は「セックス」や「出産」というものに対する嫌悪感を持っているようだ。
『イレイザーヘッド』は、恋人を妊娠させてしまった男の「父になる恐怖」をシュルレアリスティックに描いた作品だし、『エコール』もまた少女が肉体的な変化を経て「女」になることの戸惑いを描いている。
そして本作では、妊娠・出産とは何の関わりもなく、いわば性行為に対して肉体的な代償を支払うことのない少年(男)に妊娠・出産の恐怖を疑似体験させている。
オーケー、すばらしく悪趣味だ。
したがって本作は、私のような男性観客にとっては相当キツい作品になっているぞ。自分の腹の中にべつの誰かがいるという女性しか知り得ない感覚を、世界中のメンズに押しつけた空前絶後の嫌がらせ映画なのだから!
逆『エイリアン』(79年)だよ。
『エイリアン』…レイプの恐怖を描いたSF映画。シガニー・ウィーバー演じる戦闘的フェミニストがエイリアン(見たまんま男性器のメタファー)に立ち向かう…というポコチン撃退映画の金字塔である。
『エコール』、そして『エヴォリューション』と、純粋な子供が徹底的に穢される悪夢的世界を描き続けるルシール・アザリロビック。
さすがギャスパー・ノエの嫁。この底意地の悪さ!
まるで疑似葬礼。『エコール』から繰り返される構図。