ずいぶん前だけど、なおきちさんというだいぶ映画に詳しい方から「近年のイーストウッドについて自由に論じよ」という勅命を受けていたので、今回は21世紀のクリント・イーストウッドについてダラダラと論じてみます。
なおきちさん、21世紀のクリント・イーストウッドについて論じる機会を与えてくれてどうもアリス。さすが、なおきちさん。何かについて論じる機会を人に与えることにかけては他の追随を許さないですね。
※一丁前に「論じる」とか言ってますが、「イーストウッドがわからない」ということを6000字近く語っているだけの不毛の極北みたいな内容です。
クリント・もくじウッド
- ①限りなく秩序立った混沌
- ②書道家としてのイーストウッド
- ③変態としてのイーストウッド
- ④辛うじて理解できる21世紀のイーストウッド。
- 『ミスティック・リバー』(03年)
- 『グラン・トリノ』(08年)
- 『ヒア アフター』(10年)
- 『ハドソン川の奇跡』(16年)
- ⑤「勘」と「勘違い」
①限りなく秩序立った混沌
クリント・イーストウッドの歴史は非常に長いので、今回は21世紀以降のキャリアに焦点を絞ろうと思う。
なぜ21世紀をピックアップしたのか。それは人が辛うじてイーストウッドの映画を理解できる「易しい映画」が密集した時代だからだ。
とりわけ『ミスティック・リバー』(03年)、『ミリオンダラー・ベイビー』(04年)、『チェンジリング』(08年)といったゼロ年代の代表作は、「陰影が深くて格調高い映像」や「明確なテーマを持った骨太なドラマ」といった名作映画の条件をわかりやすく満たしているため、いわゆる「映画を観た」という気分に浸れる正統派路線なので、語りやすく、また捉えやすいのである。
裏を返せば、それ以前の(本来の)イーストウッドは掴みどころがない。
べつに抽象的でもなければ難解でもないのだが、映画としてのおもしろさやテクニックに「これはスゴい!」と度肝を抜かれることはまずない。
凄いことをしている気もするし、おかしなことをしている気もする。
おもしろいのかつまらないのか、もはやそれさえ分からない。
だから、イキった映画通がしたり顔で口にする「さすがイーストウッド。巨匠の名に恥じぬ重厚な映画だったわー」などという美辞麗句なんて、すべて知ったかぶりの嘘八百です。
あなたは、美術の教科書に載っている抽象画を見て評価に困ったことはないだろうか?
「なんとなく凄いという気はする。でも何が凄いのかはさっぱりわからない…。ていうか俺でも描けそうだ」
それがイーストウッドだ!
なんとなくわかったか、この野郎!
『ペイルライダー』(85年)とは、『ホワイトハンター ブラックハート』(90年)とは一体何だったのでしょう?
イーストウッドの映画はイーストウッドのファンでも語れない。難しいから語れないのではない。ある種の失語状態に陥ってしまうから語れないのだ。
イーストウッドは、われわれが当たり前のように観ている世間一般の映画群とはまったく異なる映像言語で映画を撮っている。そう、まるでゴダールのように。
ジャン=リュック・ゴダール…映画好きが必ずブチ当たる壁。ショットの断片がデタラメに継ぎ接ぎされて、その映像に政治発言が延々とナレーションで挿入されるという映画をよく撮る。秩序だった映像の連続性もなければ物語性もないため、ゴダールを観たパンピーは癇癪を起こすか居眠りするかの二択を強いられる。
ただ、ゴダールほど極端に映画の秩序を破壊しているなら「意味不明!」の一言で片づけることもできただろうが、イーストウッドに漂う違和感はもっと微妙なもので、限りなく秩序立った混沌をフィルムの底部に流し込んでいるから始末に負えないのだ。
なんというか…、イーストウッドとわれわれ観客との間にはいわく形容しがたい齟齬があるというか、映画を通して作り手と受け手が意思疎通できていないという断絶が横たわっているのである。
まるで、同じ日本語で喋ってても異なる方言を使ってるから微妙に会話が噛み合わない言論空間のようにな!
当時の恋人と。
②書道家としてのイーストウッド
たとえば、私がイーストウッドに対して抱いている戸惑いは「行きすぎた書道」に似ている。
ガチの書道家が書く「もはや達筆ですらなく、何と書いてあるのかさえ分かんねえ字」。
私のように書道に暗い人間からしたら「逆に下手じゃない? ていうか読めねえ」なんて思ってしまうのだが、イーストウッドの映画はこれと非常によく似ている。もはや上手いのか下手なのかさえよく分からなくなるほど、従来の映画理論とはかけ離れているのだ。
したがって、世界的に有名な巨匠として高く評価されているイーストウッドだが、本当のところは誰も正しく評価できていない。
そもそも「イーストウッドとは何者なのか?」ということすら、まともに論じられてこなかった。ただなんとなくキャリアが長くて、数々の賞を取っていて、すでに巨匠扱いされているから褒めているに過ぎないのだ。
実際、個人的な興味からイーストウッドに関するさまざまな評論や文献をこれまでにずいぶん読み漁ってきたが、個々の作品論については素晴らしい批評はいくつもあったものの、イーストウッドの作家性を包括した「本質を突く文章」は一度も目にしたことがない(お勧めの文献があったら教えてください)。
したがって、イーストウッドは本来的にカルト映画だと思う。
実験映画と言い換えてもいい。人を寄せつけない妖しい秘境に隠された、人智の及ばぬ混沌そのものなのだ。
だからこそ、21世紀以降の「わかりやすい正統派路線」を人々は有難がる。
特にゼロ年代の『ミスティック・リバー』、『ミリオンダラー・ベイビー』、『父親たちの星条旗』(06年)、『硫黄島からの手紙』(06年)、『チェンジリング』、『グラン・トリノ』(08年)あたりは、過去最大級に「平易なイーストウッド」が顔をのぞかせたディケードだ。
観やすい、分かりやすい、持ち上げやすい!
だが、それはあくまでイーストウッド本来の混沌性に比定すれば…という話であって、たとえばイーストウッドをひとつも観たことのない人からすれば21世紀のイーストウッドだって充分にタチが悪い。
我らパンピーの生理にピタッと合った商業映画の体をとりながらも、やはりイーストウッドはごく普通の映画が使っているごく普通の映像言語とは異なる言語で、掴みどころのない映画を撮り続けている。
③変態としてのイーストウッド
また、イーストウッドといえば変態としても有名。
倒錯的な被虐嗜好。
一言でいえば、イジメられたい、傷つきたい、というゴリゴリのマゾヒストなのである。
自分の身体についた傷を聖痕として顕示するというキリスト的な身振りは『ガントレット』(77年)、『許されざる者』(92年)、『ブラッド・ワーク』(02年)など多数の作品に認められる(一度死んで甦る、もしくは亡霊となって現れる…というのもイーストウッド作品に通底するモチーフ)。
もっと下世話な例を出すと、『白い肌の異常な夜』(71年)、『ルーキー』(90年)、『タイトロープ』(84年)などでは女性に痛めつけられたいというSM趣味がモロに描かれている。
だいたい初監督作の『恐怖のメロディ』(71年)からして、イーストウッド演じるラジオDJが女性ファンからストーカーされるっていう話だし。ほかにも、自身にホモ疑惑がかけられる映画を2本ほど手掛けている。
要するにイーストウッド作品では、マゾヒズム、女性恐怖、ホモ疑惑といった超個人的なセクシュアリティが何の必然性もなく劇中の端々に盛り込まれているのだ。
そんなイーストウッドを変態たらしめるアブノーマルな性癖は、21世紀からニュアンスを変え始めた。イーストウッドの変態性は「個人の性癖」から「映画の作り方」にまで瀰漫したのだ。
「なんでこんなことするの? あぁ、変態だからか…」というセオリーを無理した画運びや、「普通こうは撮らないでしょう。変態以外は」という常識外れのフレーミングが満載で、「描かれていること」も変態なら「描き方」も変態という。
そりゃあ理解されないわ。
それでは、辛うじて理解できる21世紀のイーストウッド作品をいくつか見ていきましょう。
④辛うじて理解できる21世紀のイーストウッド。
『ミスティック・リバー』(03年)
『ミスティック・リバー』はイーストウッドの不可思議なエッセンスが凝縮されながらも、比較的「傑作」と呼びやすい間口の広さを持っている。
ある殺人事件を通して幼馴染み3人組の運命が狂い出し、誤解や思い込みによって三者の関係が悪化した果てに最悪の結末を迎える…という果てしなく暗い内容。
私は『ミリオンダラー・ベイビー』、『チェンジリング』と合わせて不穏三部作と呼んでいる。
特にイーストウッドの作家性がより強固になった『許されざる者』(92年)以降は画面の重量が増している。イーストウッドの画面は、爽やかな水彩画ではなく150時間も絵の具を重ね塗りし続けた絵画のように重苦しい。ヘヴィネスだ。
すべてのシーンが不穏! っていう。
ずっと嫌な予感がする! っていう。
また、単純な善悪二元論、物語の起承転結、ジャンルによる定義づけなどを嫌い、大衆映画のセオリーをことごとく拒否するので、観客からすれば「映画に関するこれまでの知識や経験」がイーストウッドの前では何の役にも立たず、まったく対処できないのだ。
とはいえ『ミスティック・リバー』はイーストウッド入門にはうってつけ。分かりやすく重苦しいし、分かりやすく豪華な俳優が出ているし、観終わったあとは分かりやすくモヤッとする。
貌のクローズアップが印象的な作品で、物語の息苦しさに拍車をかけています。
『グラン・トリノ』(08年)
『グラン・トリノ』もまた、一見して間口が広い映画に思える。
表面だけ見れば、人種差別主義者の退役軍人を演じるイーストウッド爺さんが、モン族の少年のために彼を虐めるギャングに立ち向かう…みたいな美談的ヒューマンドラマだが、これは2つのレイヤーによって構造化された、なかなか奥の深い作品だ。
ひとつはアメリカ車のフォード・トリノを他民族の少年に譲るという「伝承」をテーマとした作品で、アメリカの未来を他人種に委ねるというボーダーレス化を扱っている。ちょうど、本作が作られた2008年にオバマが大統領に就任して「チェンジ! チェンジ!」と騒いでいたように。
もうひとつは、俳優イーストウッドの総決算的作品という点だ。
これまで悪党を殺しまくってきたダーティなガンマンが、「もう暴力の時代じゃない」と言って銃を封印する物語なのだ。
また、これまでに『夕陽のガンマン』(65年)や『許されざる者』などで儀式的な死と再生を繰り返してきたイーストウッドがついに「肉体的な死を迎える」という意味でも、本作は俳優イーストウッドの精神的な遺作と言えるだろう。
ちょっとうるさいことを言うと、これまでにどれだけイーストウッドの映画を観てきたか…という経験と思い入れに比例して感動の度合いが決まる作品なので、イーストウッドを初めて観る人には絶対にお勧めしない。
「なるべく最後に観て! 色んなイーストウッド映画を通ったあとの『グラン・トリノ』はマジで感慨深いから、なるべく最後に観て!」っていうさ。
余計なお世話だろうがな。ハッ!
『ヒア アフター』(10年)
そしていよいよ我々を混乱させたのが『ヒア アフター』だ。
死者と交信できるジミー大西だかマット・デイモンだかが、朗読会に行ったり料理教室に通ったりする…というヤケにふんわりした内容で、「掴みどころのないイーストウッド映画ランキング」で堂々の3位に輝いた作品である(私が勝手に決めた。ちなみに1位は『ホワイトハンター ブラックハート』、2位は『真夜中のサバナ』)。
細木数子感というか、江原啓之感というか…。霊視・臨死体験といったスピリチュアルな要素をふんだんに盛り込んでいるけど、やけにボンヤリした内容で。
「で結局、何についての映画なの?」と。
なまじ画面がバッキバキの映像派だけに、余計に「何なんだろう、この映画は?」と戸惑ってしまう。
当時79歳でそろそろ死について考えはじめたイーストウッドの、「丹波哲郎の大霊界」ならぬ「イーストウッドの大霊界」が炸裂したトチ狂い映画の金字塔。やりたい放題だよ。
『ハドソン川の奇跡』(16年)
近作『ハドソン川の奇跡』も、よーく考えるとヘンテコな映画だ。
イーストウッド・フリークの私は、観る前からすでにぶったまげた。
あのイーストウッドが96分の映画を撮った、という事実が未だに信じられないのだ。
「スピルバーグが96分の映画を撮った」と「イーストウッドが96分の映画を撮った」とでは、ことの重さに天と地ほどの差がある。なぜなら半世紀にも渡るキャリアの中で、かつてイーストウッドが90分台の映画を撮った前例など何処にもないからである(ちなみに最も短い映画は『荒野のストレンジャー』の105分)。
トム・ハンクス演じるサリー機長が、墜落する飛行機をハドソン川に着水させて一人の犠牲者も出さなかった「USエアウェイズ1549便不時着水事故」の映画化だが、いわゆるパニック映画ではないし、ましてや美談としても描いていない。
事故原因を調べる国家運輸安全委員会は「乗客全員の命を救ったから結果オーライとは言え、管制塔の指示を無視したあなたの判断は正しかったのか?」とサリー機長を追及する。
一方、「奇跡を起こしたヒーロー」として世間やメディアが持ち上げれば持ち上げるほど、サリー機長は自分が導いた最良の結果が奇跡ではないということを証明せねばならなくなる。
「奇跡」って、言い換えれば「運」だからね。
「たまたま運が良かっただけです」ってことになると規則違反の責任を追及されるので、「乗客全員が無事だったのは運じゃなくて私の実力です」ということを論理的に実証せねばならないのだ。
そんなわけで物語は、サリー機長の「経験に基づいた判断」の是非をめぐって公聴会へともつれ込み、国家運輸安全委員会の前でサリー機長の行動が奇跡ではなく必然の結果であることを論証してゆく舌戦映画へと発展する。
どこにスポット当てとんねん。
まともな感覚を持ったまともな監督なら「最後はお涙頂戴でシメる航空パニックもの」として処理するだろう。墜落する飛行機をハドソン川に着水させるシーンをこそクライマックスに持ってくるはずだ。
だがイーストウッドは「事が起きたあと」を描く。
目のつけどころが非凡すぎて、思わず「アンタ、やっぱりおかしいわ(最大の賛辞)」と呟かざるをえまい。
⑤「勘」と「勘違い」
つまるところ、イーストウッドとは勘だけで映画を撮っている人だ。
だが、その勘が正しいかどうかは我々には判断できない。前例がないからだ。だから我々はイーストウッドを勘違いしてしまう。
特に私のような『奴らを高く吊るせ!』(68年)と言われても仕方のないようなシネフィルは、イーストウッドの新作が出るたびに「これ、褒めて…いいんだよね?」なんつって、周囲の出方を見ながらこわごわと称讃するのだ。
ほとんど当てずっぽうで映画を撮っている人なのだから、それを観る我々も当てずっぽうでイーストウッドを語ることしかできない。
そんなイーストウッドの作品が「これが映画だ」などというとんでもない思い違いで受け入れられているのだから、まったくおめでたいというか、世の中不思議である。
イーストウッドの作品に対して、我々にかろうじて漏らし得る言葉があるとすれば「これが映画だ」ではなく「これは映画か?」だ。
「イーストウッドの勘」と「我々の勘違い」。この綱渡りの上に成り立っているのが クリント・イーストウッドである。
見ようとすれば消えてしまう。触れようと手を伸ばせば透けてしまう。まるで亡霊だ。