デ・パルマを追放したハリウッドは死ぬべき!
2015年。ノア・バームバック、ジェイク・パルトロウ監督。
作品によって評価の差が激しいといわれるデ・パルマが、成功作・失敗作に関係なく自身の全作品について語るほか、デ・パルマが影響を受けた映画監督や作品なども散りばめながら、その波乱万丈な映画人生に迫る。(映画.com より)
ビデオ屋に立ち寄ったらブライアン・デ・パルマのドキュメンタリー映画がレンタルされていた。考える余地もなく手に取ってマッハで家帰ってマッパで鑑賞。
とてつもなくニコニコした。
大体において私は、ドキュメンタリー映画を観ると21%の確率でニコニコするのだ。
『リュミエール!』(16年)も「恍惚のリュミエール108連発!」というステキな副題をつけて絶賛したし。
だが、ドキュメンタリー映画を観るのは嫌いだ。
ダメなドキュメンタリー映画は、対象の見方ではなく対象そのものにこだわるし、対象の磁場ではなく対象そのものにこそバイアスをかけて我々をそこにいざなおうとする。
ちなみにドキュメンタリー映画にとって最も必要なものは「主観性」だ。そこを履き違えた人間がドキュメンタリーを撮ると、まるで田舎のデパートのように退屈な映画になってしまう。主観性だけは犬に喰わせてはならない。
◆映画好きがデ・パルマを無視していい理由などひとつとして見当たらない◆
ブライアン・デ・パルマほどアクセスしやすい名匠はまたといない。
監督別に楽しく映画を掘り下げようとする人がいれば、まず私はデ・パルマを片っ端から観ることをおすすめするかもしれない(しないかもしれない)。
すべての作品に一貫した作風を持っているし、有名スターを使ったメジャー映画が多く、何より掛け値なしにおもしろいからだ。
デ・パルマは代表作の数が異常に多い監督だが、ひとまず上から順に名作とされている作品を5つ選ぶなら、およそ次のようになる。
『キャリー』(76年)
『ミッドナイトクロス』(81年)
『スカーフェイス』(83年)
『アンタッチャブル』(87年)
『ミッション:インポッシブル』(96年)
※こんなことは言いたくないけど、5本中1本も知らない人は蛮族です!
おもしろいのは、デ・パルマといえばヒッチコックの影響をモロに受けた世界一のヒッチコック・フォロワーとして知られている通り、その基本はサスペンスにあるわけだが、いま挙げた代表作は見事にジャンルがバラけているのだ。気付いてた? 気づいてた?
ホラー、サスペンス、ギャング映画、アクション、スパイ映画…という風に。ほかにも、ミュージカル、戦争、コメディ、文芸、なんでもござれだ。
つまりデ・パルマはジャンルを越境する。彼に撮れないのはロマンスぐらいだろう(だが女性を撮るのはめっぽう上手い)。ここにハワード・ホークスとの共通点をみとめるのは大袈裟だろうか。さすがに大袈裟だろうな。
とにかく全方位型のオールマイティで、しかも個性的、そしておもしろい。
映画好きがデ・パルマを無視していい理由などひとつとして見当たらないではないか!
そんなデ・パルマが、30作以上も手掛けた自身の作品についてバカみたいに喋りまくるというドキュメンタリーが本作だ。
インタビュー形式でもないのに勝手にベラベラ喋ってくれるので非常に有難い。惜しげもなく撮影技法を種明かししたり、影響を受けた作品を堂々と口にするのだ。
頑なに発言を拒否するデヴィッド・リンチのような困ったちゃんや、「誰の影響も受けてない。すべて僕のアイデアだ!」などとわけのわからないことを言い張るM・ナイト・シャマランのような大ぼら吹きとは大違い!
それはもうさっぱりしたもので、立て板に水という感じで喋ってくれる。ベラベラとな。
デ・パルマが世に送り出した輝かしい名作群。
◆デ・パルマは毒舌だが、反省の虫でもある◆
そして、話の端々に感じる棘のある物言いや皮肉がまたおもしろくて。
たとえば『キャリー』について語っているとき、「続編やリメイクは私も見ている。それを作った奴らが、私が回避した過ちを犯しているのを見るのは実にいい気分だ」といって満面の笑みを浮かべちゃう。
隙あらば他の監督や脚本家をディスるというヒップホップみたいな独演ぶりがユニークなのだ(ヒップホップといえば、『スカーフェイス』はヒップホップ的な生き方のロールモデルとされており、ラッパーの間では神格化されている映画らしい)。
だが、むやみに他者を攻撃するだけではない。自身の作品を振り返って、反省するところは大いに反省しているので、他者への毒舌が嫌味にならないってわけ!
「映画には自分の犯した過ちが残る。解決できなかったことや手抜きしたことが永久にね。映画作りというのは自分のミスを記録するのと同じだ…」と言って、急にうなだれて暗い話を始めるのだ。まさに反省の虫である。
ちなみに、本人が認めた失敗作がこちら。
『フューリー』(78年)
『虚栄のかがり火』(90年)
『レイジング・ケイン』(92年)
『スネーク・アイズ』(98年)
『ミッション・トゥ・マーズ』(00年)
まぁ、世間が下した悪評とおおよそ合致しているが、個人的には『ミッション:インポッシブル 』に不満を漏らすことなく、むしろ満面の笑みで自画自賛していたのは少し意外だった(トム・クルーズへの悪口を期待していたのに)。
私的デ・パルマTOP3は『ファントム・オブ・パラダイス』(74年)、『殺しのドレス』(80年)、『カリートの道』(93年)。
◆模倣? 低俗 ? 悪趣味? 上等だコノヤロー!◆
また、若い頃はスピルバーグ、スコセッシ、コッポラらと親交があり、その当時の思い出話にはいち映画ファンとして否が応でも興奮してしまう。
VFXやCGを使いこなすスピルバーグを「僕にはできない。尊敬するよ」と称讃する一方で、『スカーフェイス』製作時にはコッポラの『ゴッドファーザー』(72年)に敵愾心を燃やしていたと思わせるような言葉もあって、同世代の名匠たちの微妙な関係性を読み取る楽しさに満ち溢れている。
私が感じたところ、どうもデ・パルマは他の3人に対して薄っすらとした疎外感を抱いているように思う。
デ・パルマはこの3人のように巨匠とは呼ばれない。なぜなら映画の格調高さではコッポラが一頭地を抜いているし、マニア度ではスコセッシに及ばず、そして同じ土俵の「大メジャー対決」ではスピルバーグに完敗している。
なにより自他ともに認める「ヒッチコックの模倣者」であり、それがデ・パルマの過小評価へと繋がっているからだ。
まったくアホらしい。
模倣上等だコノヤロー!
実際、本人が語っている通り、デ・パルマの映画が封切られるたびに「悪趣味」とか「低俗」と批評家に揶揄されるのが昔からの通例だった。とりわけデ・パルマ作品には女性がむごたらしく殺されるサスペンス映画が多いので、そのたびに女性団体からはバチバチに怒られるという。
「試写はしない。公開前にマスコミの連中に悪口を広められるだけだからね!」
たしかに、スコセッシを観て「これが映画だ」などとのたまうスノッブな連中からは軽視されがちだが、映画の腕はスコセッシごときの比ではない。眼識なきスノッブな連中は、題材やジャンルだけでデ・パルマを色眼鏡で見て俗物扱いしているだけなのだ。
だから、タランティーノが初めて夢中になった監督にデ・パルマの名前を挙げているのは必然的帰結といえるだろう。彼もまたデ・パルマ同様にサンプリング(古典映画の引用)の名手で、いわゆる「悪趣味」で「低俗」なジャンル映画を手掛ける監督なのだから。
悪趣味上等! 低俗上等! ってな。
2002年の『ファム・ファタール』から、ハリウッドに嫌気が差したデ・パルマは非アメリカ資本で映画を撮っている。いずれも低予算で作られた小品だが、やいのやいのと口出しするお偉方のバカがいない分、自由の利く製作環境をゲットした。『エル ELLE』(16年)のポール・バーホーベンのように。
低予算上等、自由最高だよコノヤロー!
デ・パルマ、バーホーベン、デヴィッド・リンチ、ジョー・ダンテといった一流監督たちは、個性の強さゆえにハリウッドに見切りをつけられ、資金難から思うように映画が撮れないという馬鹿げた現状がある。
ハリウッド、コノヤロー!
ハリウッドは、デ・パルマのような素晴らしい才能を自ら殺しているのだ。これは間接的な自殺を意味する。
結論、「デ・パルマを追放したハリウッドは死ぬべき!」
ノオミ・ラパスとレイチェル・マクアダムスを起用した古典スリラー『パッション』(12年)から、待てと暮らせど新作が発表されないデ・パルマ御大。いよいよ引退なのか…?