未曾有の全編活劇化!
2017年。ポール・キング監督。ヒュー・ボネヴィル、サリー・ホーキンス、ヒュー・グラント。
大好きなルーシーおばさんの100歳の誕生日プレゼントを探していたパディントンは、グルーバーさんの骨董品屋でロンドンの街並みを再現した飛び出す絵本を見つけ、絵本を買うためパディントンは窓ふきなど人生初めてのアルバイトに精を出していた。しかしある日、その絵本が何者かに盗まれてしまう事件が発生し、警察の手違いでパディントンが逮捕されてしまい…。(映画.com より)
やぁみんな、暑さでとろけてない?
『パディントン2』がちょっと引くぐらいすごい映画だったので、大まじめに論じてみます。
まじめに映画を語れば語るほどアクセス数は伸びないものだけど、もう最近そういうのはどうでもよくなってきました。正味の話、アクセス数が伸びようが伸びまいが何のメリットもデメリットもないし、僕の明日がとびきり輝くわけでもないし。
というわけで、『パディントン2』を大まじめに語って候。
◆もう誰もポール・キングのことを「ポッと出ング」とは言えまい◆
前作の評では、開口一番「キッズどもに確実に夢を与えるシュアーな一品だ」というソリッドな言葉をぶっ込んだが、この続編に開口一番ぶっ込む言葉があるとすれば、およそ次のようになる。
大人にも確実に夢を与えるホーリーシットな逸品だ。
要するに、前作から更にブラッシュアップされた正統続編である、ということだ。
前作『パディントン』が事実上の長編処女作となったポール・キングは、ぽっと出の新人監督とは思えないほど急成長している。もう誰もポール・キングのことを「ポッと出ング」とは軽々しく言えまい。
↓ちなみに前作の評です。9つしかスターがついてないことから分かる通り、中身ナシナシのペラペラです。映画ほったらかしでおかっぱボブについて語ってるからね。
さて、誰もが感嘆した伏線回収の妙については今さら褒めない。
すでに見識あるレビュアー諸兄が「すべての登場人物のバックボーンが来るべきクライマックスで見事に活かされているうううううううううるるるるうるr」などと言葉を尽くして語っているし、そもそも私は綺麗に伏線回収することがすぐれた脚本とは考えないからだ。伏線回収に重きを置いてしまうと映画がパズルになってしまう。
とはいえ、本作の伏線回収はパズルの域を超えてキャラクターの魅力に還元されているので最高だ。イエイ。
私が本気で褒めたいのは、21世紀の映画史から淘汰された全編活劇化が実践されているという点だ。
あっ。あっ。先に断っておくべきだったけど、本稿では「パディントンが可愛い」とか「ワクワクドキドキの楽しい映画です!」といったタレント兼映画コメンテーターがよく口にするような最大公約数的な賛辞は一文たりとも出てこないので、ライトな評論が読みたい方は今すぐページを閉ジー・ホーキンス!
『シェイプ・オブ・ウォーター』(17年)でお馴染みのサリー・ホーキンスがママ役!
◆未曾有の全編活劇化◆
さて、本作の「全編活劇化」だが、これはちょっととんでもなく凄いことをしてますよ。
この現代にジョン・フォードとバスター・キートンをやっている(この言葉の意味は100人の読者のうち1~2人に伝わってくれれば充分です)。
ジョン・フォードの「馬、列車、銃撃」は、パディントンが犬の背中に跨っての追跡劇、クライマックスの舞台が列車内、ヒュー・ボネヴィルの的当て…という形ですべて網羅している。
また、『パディントン』シリーズが主題として貫く「家族愛」ですら、メロドラマではなく活劇として処理している(一家が列車に駆けつけ、サリー・ホーキンスらが溺死寸前のパディントンを救う)。
ちなみに、悪党ヒュー・グラントが列車の屋根を歩いてパディントンを追いつめるシーンでは、古き良きオプティカル合成を使ってわざと不自然な背景合成にする…という手の込みよう。
一方、日常シーンにおけるスラップスティック・コメディでは、チャップリン(喜劇)とバスター・キートン(活劇)にならって笑いを取る。
すべてのコメディパートがたまらなく良い。可笑しくて可笑しくてしょうがないし、しかも依然として活劇が継続されているのだ。
パディントンが理髪店でアルバイトするシーンでは、手にしたバリカンの振動が思いのほか強く、ガクガク震えながらフィギュアスケーターのように身体が回転してしまったことでコードが身体に巻きつき、運悪く客の頭をど真ん中からバリカンで剃ってしまう。死ぬほど笑ったが、これだけならチャップリン(喜劇)だ。
だがその直後、パディントンに巻きついたバリカンのコードが天井のシーリングファンに引っかかったことでブンブン振り回された挙げ句に店の窓に叩きつけられる…、というところまでやる。これがバスター・キートン(活劇)。
理髪店での失態が店主に露呈したことで穏当にクビになったパディントンが、その次にアパートやビルの窓ふきアルバイトをするシーンも活劇化されている。
重いバケツを高所に運ぶために、バケツに括りつけた紐を高所の排水管に引っかけ、もう片方の紐に全体重をかけてバケツを天高く持ち上げるという彼のアイデア(喜劇)は、しかし、上から降ってきたバケツをかぶって水浸しになるというドリフ的なオチがつく(活劇)。
これがなぜ活劇なのかといえば、高所から低所へ、低所から高所へ…という上昇と落下が視覚化されているからだ。「上昇と落下」は活劇の基本。
このシーンに限らず、本作には至るところに「上昇と落下」がある。シーリングファンに引っかかったバリカンのコードに身体を持ち上げられる、アヒルの足に掴まって空を飛ぶ、気球で脱獄、川への飛び込みetc…。
バケツが持ち上がらなくて困っちゃうパディちゃん。
◆ウェス・アンダーソン引用、という高等テクニック◆
そして、前作にも満載されていた映画パロディ。
もちろん本作でも健在で、『ピンク・フラミンゴ』(72年)、『ノッティングヒルの恋人』(99年)、…ほかにも色々ある(お、思い出せない…)。
わけても重要なのはウェス・アンダーソンのパロディだ。
映画におけるパロディ(厳密には間テクスト性と呼ぶ)というのは、多くの場合「なんとなく」で引用しているだけの場合が多いが、本作におけるウェス・アンダーソンのパロディは、もはやパロディというよりウェス・アンダーソンを作品に組み込んだと言ってもいいほど本作の根幹に大きく関わっている。
パディントンが刑務所にぶち込まれる中盤は、誰の目にも明らかなように『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年)の美術を真似ている。
そしてこの刑務所シーケンスだけ「上昇と落下」がなく、もっぱらウェス・アンダーソン的「横移動の構図」が採られているのだ。
ここでは、刑務所という狭い空間において例外的に活劇は寸断される。
色彩設計、横移動、シンメトリーの構図…。まさにウェス・アンダーソンの世界。
時を同じくして、パディントンの潔白を晴らすためにボネヴィル&ホーキンス夫妻が怪盗ヒュー・グラント邸に不法侵入を試みるさまがカットバックされるが、その「義のある犯罪行為」は驚くべき呆気なさでヒュー・グラントに見つかってしまう。
ここでも活劇は寸断される。
普通、家に帰ってきた怪盗ヒューと家の中であたふたする不法侵入夫妻の「バレるかバレないかサスペンス」を引っ張るところだが、拍子抜けするぐらいあっさりバレてしまうのだ。
怪盗ヒュー「キミ、ここで何してるんだ? カーテンに隠れてるキミも…」
これは、物語が不穏な谷間に差し掛かって、パディントンたちのどん詰まりを表現するためのテクニックだ。
セリフや展開といったまどろっこしい要素なしで、一時的に活劇を停止するだけで物語の谷間を作っているのである。
だからこそ、公衆電話から出てトボトボと歩きだすパディントンの耳に電話のベルが飛び込んだ瞬間に、われわれは心の中で「よっしゃああああ!」とシャウトする。再び活劇が目覚める予感に、やむにやまれず心を奮わせるのだ。
そして列車でのクライマックスへ…。
これは参った。「文句をつけろ」という方が難しい。
特に、この映画の本当の価値が分かるのはフォードやチャップリンやバスター・キートンで育った映画好きのジジイ、ババアだろう。
マーマレードを顔面に塗りたくりながらの祝福!
『ラブソングができるまで』(07年)や『Re:LIFE〜リライフ〜』(14年)に続いて、またしても落ちぶれ男を演じたヒュー様!