最終的に主演の男女はどうしてもくっつかなあかんのけ?
1986年。エドワード・ズウィック監督。ロブ・ロウ、デミ・ムーア、ジェームズ・ベルーシ。
恋に落ちたダニーとデビーはお互い束縛しないという約束で同棲生活を始める。しかし暮らし始めてみると、些細なことでぶつかりあい、徐々に亀裂が入っていく。ついに行きつけのバーでのパーティでケンカをして同棲を解消。しかしお互いが忘れられない二人は…。(Amazonより)
デミといえば選手権で見事3位になったデミ・ムーア。ちなみに1位はデミグラスソースで、2位はデミヒューマン。
デミグラスソースやデミヒューマンはみんな大好きだよね。それなのになぜデミ・ムーアを観ないんですか? ってことですよ。
もしもデミ・ムーアが司会の『快傑デミちゃんねる』という番組が関西テレビで始まったら、僕は見るよ。初回だけね。だから皆さんもデミ映画を観てください。痛み分けです。
そんなわけで『デミ映画特集』の第三弾は『きのうの夜は…』で決まり!
※本文に入る前に私の感情を開示しておきます。
ややギレです。
◆定番のファッキン・ロマンス・コース◆
女遊びを生き甲斐とするロブ・ロウと、職場の上司と付き合っているデミ・ムーアが一夜限りの関係を持つがセックスがあまりにすてき過ぎたために同棲、ところが徐々に喧嘩が増えて破局。「私たち、子供すぎたのね…」などと観客からすれば映画が始まって10分でわかったことに今さら気づいてお互い反省、ヨリを戻したいロブ・ロウがロブロブ言いながら付きまとうが、やり直す気はないデミはデミデミ言いながらこれに抗う。
しばらくは別の異性と新たな恋を始めようとする二人だったが、なんだかんだで未練があって互いを忘れられず、偶然再会した二人は、ロブロブ、デミデミと会話したあと結局ヨリを戻す。終わり。
人を食ったふざけた映画だ。
これまでに我々が5657回ぐらい観てきた「交際→喧嘩→復縁」という定番のファッキン・ロマンス・コースが何の鮮味も学習もなく繰り返される。
男と女ってやつは、なぜ飽きもせずに同じことを繰り返すのだろう。ほかに夢中になれるものや打ち込めることがないのだろうか。
こういう映画を観るたびに「人類はいつまで経っても進歩しないな」などと嘆息してしまうのだが、まぁどうでもよろしい。私には何の関係もないことだ。
若手俳優集団「ブラット・パック」の構成員だったマット・ディロンやトム・クルーズらとまとめて売り出されていたロブ・ロウ(左)。一文字違えば「三郎」だったのに、惜しいことをしました。
◆デンゼル・ワシントンを使う監督に悪い奴はいない◆
だが、この映画を観た人民の間ではわりに受けているらしいじゃないか。
『ラストサムライ』(03年)や『ブラッド・ダイヤモンド』(06年)など人畜無害な映画を撮り続けてきたハリウッドきっての人畜無害の監督エドワード・ズウィックの長編処女作でもある本作は、『セント・エルモス・ファイアー』(86年)で共演したばかりのロブ・ロウとデミ・ムーアの再共演作である。
当時、アホみたいにブームを巻き起こしていたブラット・パック(ヤングアダルトスターの大群)のツートップが共演していて、おまけにそんな二人のベッドシーンまで用意されているというのだから、いかに本作が話題をさらったかは推して知るべし。
きっと女子高生3人組とか大学生のカップルが観に行って「デミデミ」、「ロブロブ」などとわけのわからない感嘆詞を漏らしてスクリーンの二人に胸をトキめかせていたのだろう。
こんな映画を観てないで、とっととウチ帰れ!
ブラット・パックの総本山的作品にして、悪名高きシュマッカー先生の底なしバケツ映画!
まぁ、だが実際、ロブ・ロウはちょっと洒落にならないぐらいハンサムだし、泣くのを堪えるあまり鼻の穴がヒクつく…というバカみたいな芝居すら可愛く見えてくるから反則だ。端的にこれはひきょい。
そして、どこも整形していない頃のデミ・ムーアはとてもナチュラルで、私がデミを苦手と感じる最たる理由であるたるんだ頬だって、この頃は果敢にも重力に逆らっていた。バブル丸出しの掻き上げヘアもザッツ80年代という感じで、たいへんよろしい。
映画の主舞台はアパートの一室とか下品なバーといったせせこましい場所ばかりだが、少ないながらもシカゴの街並みや風俗はよく撮れている。
だいたいにおいて、私はエドワード・ズウィックが嫌いではない。近作の『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(16年)だって応援したし(トム・クルーズが10年ぶりに芝居をしてるしね)。
たしかに手掛けた映画はほぼすべてヌルいが、ジョエル・シュマッカーのような俗物ではないと思います。デンゼル・ワシントンを3回も起用していることがそれを傍証している!(『グローリー』、『戦火の勇気』、『マーシャル・ロー』)
そんなわけだから、甘えきったロマンス映画に逐一キレてまわる私のような恋愛警察でもなければ、ひょっとすると普通に楽しめる善良な映画なのかもしれない(善良な映画にいかほどの価値があるのかは知らん)が、とりあえず今現在、私は半ギレになっています。
ここから先は「ただの疾走する感情論」です。
仲がよかったころ。接客最低のダイナーで昼食を楽しむ二人。
◆ただの疾走する感情論◆
要するにクソみたいなロマンスを供給されても困るということだ。
助平男と二股女が合意の上でファックおよび同棲するのは当人たちの自由だし、「祝福しろ」と脅しつけられたら引きつった顔で祝福だってするだろう。
徐々に心がすれ違って喧嘩が耐えなくなる同棲生活にも、べつにイラつきはしまい。そもそも恋愛とは「相手の中に自分の理想を投影する」という自己完結したものであり、「I Love You」とは回り回って「I Love Me」なのだ。
だから同棲生活によって徐々に相手の本性を知って理想が投影できなくった二人が喧嘩別れに至るというのは、むしろ当然の帰結である。人間味があって結構なことじゃないか。
だが問題は、別れて2週間経ったロブ・ロウが「やっぱり忘れられないだロウ」などとふざけたことを言ってデミにつきまとう終盤である。
終わった花火にもう一度ライターで火を点けようとするがごとき往生際の悪さ。その卑しさ!
始めこそ「私たちは終わったのよ。もうあなたを愛してないの…」と言ってけんもほろろに復縁を断るデミだったが、ロブに押されまくるあまり「うーん…。だったら善処します」と謎の保留モードになった挙句、数日後に再会したときには打って変わって「やり直すのもアリだよね。逆にね!」って、どんな方程式を使ったらその解に辿り着くんだよ。
「恋は理屈じゃない」と言うけど、理屈じゃないものを理屈で見せるのが映画ですからね。
私が不快感を抱いたのは、この二人にではなく、こういう映画を量産するハリウッド・システムに対してである。
最終的に主演の男女はどうしてもくっつかなあかんのけ?
なぜ別れがいけないことなのだろう。別れた二人が別の相手と出会って幸せな道を歩むことだって充分すばらしいことではないか。
ましてや本作は自由恋愛を標榜した作品。二人は同棲する前に「互いを束縛したり執着し合うのはやめましょうね」と約束を交わすのだ。
にも関わらずそこで描かれているのは「何が何でも別れた相手に執着しろ」というもので、ロブがデミ以外の人と結ばれるのはハッピーエンドじゃないとする価値観だ。
これって、この二人が何よりも嫌っていた束縛にほかならないよね?
ロブはデミの束縛を嫌って別れを切り出した。あくまで物語上はね。でも本当はそうじゃない。
この二人を束縛しているのは映画の側だよ。
まるで「ロブとデミ、お前たちは何が何でも結ばれなきゃいけない。喧嘩しようが別れようが、別の異性と結ばれるのは許さない。それはハッピーエンドではないからだ。お前たち二人が結ばれることで初めてハッピーエンドは成立するのだ!」と言っているかのよう。
もうハリウッド脳まるだしのハッピーエンド主義にはうんざりだ。
そもそも「結ばれたからハッピーエンド」とするのはこの上なく短絡的な結論だから!
むしろ結ばれてからがスタートだよっ。
特にこの映画なんて、助平男と二股女が体の相性のよさで同棲を始めたようなもので、ロブに至っては別れていた間も手当たり次第にほかの女性と一夜限りの関係を持つような男だから、デミと復縁したところでまた別れるのも時間の問題でしょう。
長い目で見ればバッドエンドだよ、これ!
だったらいっそ綺麗さっぱり関係を清算してそれぞれの道を歩むことこそが真のハッピーエンドなのでは?
そんなわけでこの映画には、職場の上司がロブに放った名言を贈りたいと思います。
「おまえは14カラットのクソタレだ!」
ロブが野球してたらデミが来て「やり直すのもアリだよね。逆にね!」。試合を放棄したロブは、デミに寄り添いながら緑道を歩いて行く…。
緑道の木が全部倒れて二人がその下敷きになったら最高の映画なのに!