皆さんお馴染みの「サウナでフリチン映画」の金字塔。
2007年。デヴィッド・クローネンバーグ監督。ヴィゴ・モーテンセン、ナオミ・ワッツ、ヴァンサン・カッセル。
病院で助産婦をしているアンナは、駆け込み出産をして死んでしまった少女が持っていたロシア語の日記を手がかりに少女の身元を探し始める。だが、彼女が辿り着いたのはロシアンマフィアによる人身売買、売春の実態だった…。(Yahoo!映画より)
ヘイみんな、吹き飛ばされてはいないかい。
前回に引き続きリクエスト回です。
本日取り上げるのはやなぎやさんにリクエストを頂いていた『イースタン・プロミス』という恐ろしい映画なのです。普通に批評したら普通に終わってしまうようないい意味で穏当な作品なので、後半では監督の作家論をぶちまけ展開するという、ちょっと気合いの入った記事になっています。
ふざけたことばかり書いてないで、もっと気合いを出していきたい。
それでは『イースタン・プロミス』についてくっちゃべっていきましょうね。ちなみにタイトルの意味は「人身売買」。
◆クローネンバーグというニヒルな思想家◆
評論する側にとってデヴィッド・クローネンバーグは少々厄介な監督だが、今回の『イースタン・プロミス』はクローネンバーグ史上最高に易しい作品なので胸を撫で下ろしている。
本来、デヴィッド・クローネンバーグはデヴィッド・リンチの8倍ぐらい難解だ。
ある程度までは「感性と雰囲気」で楽しんでしまえるリンチとは異なり、クローネンバーグを理解するには科学・文学・哲学の教養が必要になる。特にバロウズとマクルーハンぐらいは押さえておかねばチンプンカンプンだろう。
クローネンバーグといえば『スキャナーズ』(81年)や『ザ・フライ』(86年)で知られるように、一般的には「過激な暴力描写によって人体が変容するさまを描き続けたド変態」として認知されているが、間違ってもゲテモノ映画監督などではない!
クローネンバーグの世界に通底しているのは、「資本主義の亡霊」や「メディアの暴走」、それに「身体の拡張」といったニヒルな主題群である。
強欲な人間と堕落した社会に対する悪意だけが渦巻いているのだ。
リンチが俗世間から離れた芸術家なら、クローネンバーグは俗世間を攻撃する思想家といったところか。
デヴィッドと名のつく映画作家にまともな奴はいねえのか!!
◆日常が浸蝕される危機感◆
そんなクローネンバーグが『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(05年)に続いて、ヴィゴ・モーテンセンを続投して撮った姉妹編が『イースタン・プロミス』です。
どちらもマフィア映画で、どちらもクローネンバーグとは思えないぐらい弩ストレートな暴力映画なので「暴力が好きだな♪」という人には楽しめること請け合いだ。
私は初めてこの映画を観たとき「え…」と驚いた。
「劇映画として普通にスルスル観れてしまったけど…、いいの? これ。本当にクローネンバーグ?」
あのクローネンバーグが真っ当な映画を真っ当に撮りあげたことが俄かには信じられなかったのだ。
まるでリンチの『ストレイト・ストーリー』(99年)だよ!
だが今回観返したことで、やはりクローネンバーグはクローネンバーグということを知った。ハンバーグは腐ってもハンバーグなように。ザッカーバーグが作家に転身してもサッカーバーグにはならないように。
さて、本作はロシアンマフィアのヴィゴ・モーテンセンと、ひょんなことからマフィア一族に関わってしまった助産婦のナオミ・ワッツを軸に展開される、わずか96分の引き締まった小品だ。
そもそもマフィア映画を90分台で撮るということ自体がひとつの事件なのだが、この話題に触れると論旨がブレブレになるので割愛。
物語は爆裂にシンプルである。
出産直後に死んだ少女が持っていたロシア語の日記をゲットした助産婦ワッツが、日記に挟まれていたレストランのカードを頼りにその店を訪ねると、そこはロシアンマフィアが隠れ蓑として経営していた悪の巣窟だった…。
えらいことに巻き込まれる助産婦ワッツ。
通常、マフィア映画というのはマフィア同士がドンパチと抗争に明け暮れていて、基本的にパンピーには手を出さない。だから我々のような一般人は対岸の火事として客観視できるし、なんだったらマフィアの主人公を「ヒーロー」と錯覚するには十分なほど心の余裕が持てるのだ。
翻って『イースタン・プロミス』が恐ろしいのは、一般人のワッツがマフィアの世界に足を踏み入れてしまうからにほかならない。
レストランを経営する老人アーミン・ミューラー=スタールは、訪ねてきたワッツを笑顔で歓迎して取り留めもない話をするが、遠回しに「日記を渡せ」と要求する。この老人の正体はロシアンマフィアのボスで、ワッツが偶然手にした日記にはロシアンマフィアがおこなっていた人身売春に関する記述があったのだ。
ワッツも鈍感な女ではないから、「このジジイ、遠回しに脅してきとるな」と薄々気付いて「そろそろ帰りますね」なんて言うのだが、一瞬だけ笑顔が消えたアーミン老人はワッツに向かってこう言う。
「送って行こう。家はどこなんだい…?」
ひょおー、こえええええ。
住所特定して本格的に脅す気満々やないか、このジジイ!
皆様におかれましても、さすがにマフィアでなくとも大なり小なり似たような経験はないだろうか。
「ヤバい奴に関わってしまった」とか「ヤバいことに首を突っ込みかけた」とか。
私の場合、ぜんぜん大した話じゃないけど、それっぽい事ならあるですよ。タチの悪い不良から仲間に誘われたとか(丁重にお断りしました)、知り合いの知り合いが麻薬食ってたとか(「ンーフ~ン?」と言っておきました)。
平和な日常が浸蝕される危機感というか、一歩間違えたらそっちの世界に引きずり込まれてしまうような…。
◆ヴィゴ史に刻まれるべきサウナでの死闘◆
お待ちかね。いよいよヴィゴに触れるときが来たようだ。
表向きはアーミン一族の運転手として雇われているヴィゴだが、実際はアーミンの悩みの種である愚息ヴァンサン・カッセルのお守り役として数々の悪事に手を染めてきた殺人マシーンだ。
舌に煙草を押しつけて火種を消すような怖い人です。
ターミネーターさながらのヴィゴ(左)と、モニカ・ベルッチの旦那としてお馴染みの晩餐カッセル(右)。
『ロード・オブ・ザ・リング』(01年)のイメージですっかり人気者のヴィゴだが、どこからどう見てもカタギの人間とは思えないほどのコワモテ。
ヴィゴにインタビューした町山智浩いわく「こちらが何か質問したら、宙を見つめて哲学的なことを独り言のように呟いていた」、「役作りのために一人でロシアに渡って本物のマフィアと交流しながらロシア語を習得した。一歩間違えたら死ぬぞ!」とのこと。
そんなヴィゴがサウナを楽しんでいる最中に殺し屋の襲撃を受けて全裸で格闘するシーンは後世まで語り継がれるだろう。
というのも、ヴィゴ・モーテンセンのモーテンセンが丸見えなんですね(さすがにその画像は載せませんが)。
やはり今観てもなかなかパンチの利いたシーンだ。短いシーンながら、途中2~3回ぐらい「あっ、モーテンセンが見えてる!」っていうような奇跡の瞬間が刻まれているのである。
ヴィゴはこの映画でケビン・ベーコンに比肩しうるフリチン俳優としての地位を確立しました。文字通り「ヴィゴのすべて」を曝け出した、ヴィゴ史に刻まれるべき名シーンである。
…と、ここまでならよく言われていることなので、もう一歩踏み込んだ話をしたいと思います。
◆銃の不在◆
特筆大書すべきは暴力描写である。
ヴィゴはサウナで2人の殺し屋と格闘し、ナイフで体中を切り裂かれながらもどうにか返り討ちにする。
このシーンだけでなく、本作はマフィア映画にも関わらずただの一度も銃が出てこない。床屋での暗殺に始まるファーストシーンも剃刀で喉を切り裂いている。
かように死と暴力に彩られたクローネンバーグ作品だが、原則として「普通の拳銃」が使用されることはない。
『ヴィデオドローム』でジェームズ・ウッズの腹部から出てきた銃は「キャンサー・ガン(癌銃)」というもので、手と一体化して癌細胞を放つという激烈にキモい拳銃である(撃たれた者は癌になる)。
また、『イグジステンズ』(99年)のジュード・ロウは魚の骨で作った「グリッスルガン」というトチ狂った拳銃を使う。
このように、いわゆる普通の拳銃はほとんど出てこない。
クローネンバーグ作品における「拳銃」とは、彼が一貫してテーマに掲げる「身体の拡張」そのものなので、無機物と有機物が溶け合ったデザインとして描かれるのだ。
人間がテレビと一体化した『ヴィデオドローム』や、自動車と一体化した『クラッシュ』(96年)と同じく、拳銃もまた人体の一部なのである。それを観て「グロテスクだ」などと他人事のようなフリをしてはならない。
クローネンバーグが描いた世界は、今や現実になっているではないか。
携帯電話を肌身離さず持っている現代人はスマートフォンと一体化しているし、現実と虚構を往還するクローネンバーグ的主人公と同じようにメディアと一体化して「ありもしない夢」にまどろんでいるのだから。
「実際の自分とSNSの自分…、どちらが本当の自分なのだろう?」って…、完全に『ヴィデオドローム』だよ!
我々はすでにキャンサー・ガンを手にしてしまっているのだ。
要するに、これが「身体の拡張」である。現代人のわれわれはメディアを身体の一部として使っている、半身メディア怪人なのだ!
◆裂傷の儀式◆
クローネンバーグの暴力描写とは、つまるところ裂傷のモチーフに収斂される。
『ラビッド』(77年)、『ザ・フライ』、『クラッシュ』など、多くのクローネンバーグ作品には裂傷描写が執拗に繰り返される。とにかく主人公の身体が切り傷だらけなのだ。
裂傷した傷口は女性器のメタファーだ。つまりセックスを意味する。「身体の拡張」を描き続けるクローネンバーグ作品において、裂傷すること…すなわちセックスとは「人間でないものとの融合」を意味する。
だから、事故で全身裂傷した『ラビッド』のマリリン・チェンバースは脇からペニス状の針を出して男の血を吸い、『ザ・フライ』のジェフ・ゴールドブラムはテレポート実験に失敗してハエと融合し、交通事故フェチになった『クラッシュ』のジェームズ・スペイダーはわざと追突事故を起こして車とともにグチャグチャになるのだ。
「裂傷」は何かと一体化するための儀式である。
では、サウナで全身を切りつけられたヴィゴは何と一体化したのか?
こればかりはネタバレに直結してしまうので詳しくは言えないけど、婉曲的な表現を用いるなら「聖母」ですよ。これ以上はだめぇー。
◆デートムービーとしての『イースタン・プロミス』◆
ほかにも、ナオミ・ワッツの髪質とかヴァンサン・カッセルの小物っぷりとか、魅力的な要素がいろいろ詰まった作品なのだけど、4000字を超えてしまったので早いとこ退散せねばなるまい。
最後に言っておきたいのは、むちゃむちゃ怖いヴィゴがワッツの壊れたバイクを直してあげるシーンに顕著なバイク修理萌えという新たなる地平!
よく観るとこの映画、ヴィゴとワッツのロマンスがさり気なく描き込まれているので、カップルで見るにはもってこいのデートムービーなのである!
指をペンチで切断したり、喉を搔き切ったり、モーテンセンのモーテンセンがコンニチワしてるシーンもあるけれど、まぁまぁ、いいじゃないですか。