フランソワ・トリュフォーがヒッチコックにインタビューした『定本 映画術』は映画好き必携のバイブルとされている。4000円もするバカでかい本だ。学生時代に大枚はたいてヒィヒィ言いながら家に持ち帰り精読したが、全くおもしろくなかった。
映画監督が映画を語っている本よりも、映画評論家が映画を語っている本の方が遥かにおもしろい。
高度に体系化された映画理論が心躍る筆致で綴られているからだと思う。何より、奴らは映画のプロであると同時に文章のプロでもある。たとえ書いていることがデタラメでも、読み物として滅法おもしろいのだ。
そんなわけで、私にとっての映画バイブルを6冊ご紹介。しゃっちょこばったおカタい本は1冊しか出てこないので、どうか安心してほしい。
『映画の見方がわかる本』
町山 智浩
『キネマ旬報』の副編集長とトラブルになり、編集部に乗り込んでパイ投げを行うという事件を起こした『映画秘宝』の創刊者・町山智浩の名著である。
威厳たっぷりの町山氏。
60年代末~70年代までの名作映画を、制作の裏側や当時の時代背景を踏まえながら解説した映画ガイド本の最高峰。町山といえば、徹底したリサーチに基づいて「わからない映画」を解き明かす情報収集型の評論家で、私も含めて現代の映画好きは大なり小なり彼の教育を受けている。
そんな氏が、『2001年宇宙の旅』(68年)をはじめ、『俺たちに明日はない』(67年)、『猿の惑星』(68年)、『ロッキー』(76年)といった誰でも知ってる有名映画を、当時の欧米文化や政治的背景を絡めながら誰も知らなかった映画の裏側を紐解いていく。
また、「映画なんてどんな見方をしようと俺の勝手だ!」と言う人に対する熱い反論にこそ町山の矜持が迸っている。
町山は、著書やラジオの中で「見方や解釈は人それぞれだし自由なものだけど、正解は存在する」と繰り返している。すべての映画、すべてのシーン、すべてのショットには、何らかの意味や意図はあるのだ、と。
にも関わらず、難解映画とされている『2001年宇宙の旅』に対して「この映画に正解なんてないから、観た人が自由に解釈していい」と言い張る人がいるが、これは単に誤読を正当化して開き直っているだけ。平たくいえば思考停止だ。
これに対して町山は「いや、正解はある。小説版にすべて書かれている。読めば誰でもわかることなのに誰も読まない」と嘆く。
「わからなければ自分で調べればいいのに、調べることもせず、ただ『わからない』とか『解釈は自由だ』とか言ってるだけ。調べろよ!」
町山智浩の活躍によって、ここ10年ほどで日本人の映画リテラシーは多少なりとも底上げされたと思います。
「解釈は自由だけど“正解”は存在する」
「分からなければ自分で調べろ」
この二つの教えを胸に刻むべし!
『現代映画作家を知る17の〈方法〉』
浜口 幸一(ほか編)
フィルムアート社から出ている「CineLesson」シリーズの第一弾。このシリーズはどれも良質なのでおすすめです。
1960年代以降の現代映画作家たちの紹介と映画史の流れを17のテーマでまとめたアーカイブ的な側面が強い。
「ハリウッド派」や「インディペンデント」といった鉄板のトピックはもちろん、普通の映画本があまり紹介しないような「ラジカル・フェミニズム」、「ポスト・コロニアリズム」、「ノーホワイト」といったちょっと突っ込んだトピックも設けているので検索性の精度はピカイチ。
評論や持論よりも情報性に重きを置いたガイド本になっているので、べつに読んで楽しいものではないけれど、部屋に一冊あれば安心である。
ある日突然、頭のイカれたシネフィルが家に上がり込んできて「植民地体制下で支配を受けてきた第三世界の映画文化に対する意見を述べよ!」などとわけのわからないことを言ってきても、この本があれば鮮やかに対処できるというわけだ。
いざとなったら本の角で攻撃することもできる。
『タッチで味わう映画の見方』
石原 陽一郎
一言でいえば「物語だけが映画の醍醐味ではない」と訴えている一冊。
運動、風景、質感といった映画元素や、陰影、構図、編集といった映画文法のおもしろさを知ることで、映画を観ることがもっとハッピーになるですよ、ということがダラダラと書かれた本である。
要するに、何が撮られているかという「内容」ではなくて、どう撮られているかという「タッチ」にも目を向けてよバカ、ということである。
本書はわれわれにこのようなことを問いかける。
・物語やメッセージだけを追っていないか?
・風景が美しいと感じても、無意識のうちにそれを単なる物語の「背景」として捉えていないか?
・音が心地よいと感じても、サウンドが映像の単なる「付け足し」だと考えてしまってはいないか?
・俳優のしぐさが素敵だと感じても、それは感情を表現するための「手段」だと割りきってはいないか?
物語とかメッセージという抽象的なものではなくて、あくまで映画の物質的な地肌に目と耳を凝らしてほしい。そんな切実な願いが込められた良著である。
著者が半泣きでこの本を書きあげたのが目に浮かぶ。だって、大抵の人って映画を「観てない」からね。物語やメッセージのような目に見えないものばかり見ようとしていて、スクリーンに映し出された光と影の運動はことごとく見逃している。
「人がまず最初に見るものは二番目に来るもの(テクスト)であり、映像ではない。映像は最初にやって来てはいるが、いつも代弁されてしまい、目に見えないものとなったり、融けた原子のようなものになってしまう。人々は自分の目を、見ることではなく読むことに使っている。人々は今に見ることができなくなるだろう」
『映像の詩学』
蓮實 重彦
で、出たぁ~。映画評論の巨人・蓮實重彦!
人は彼をハスミンと呼ぶ。
東大の元総長としても知られているが、ハスミンが話すことは東大生が聞いてもまったくのチンプンカンプンで、もはやIQという尺度ではこの人の頭脳は計れない。頭が良すぎて一般人とはまったく話が通じない。まったく別の次元から世界を見ている。そういうタイプの鬼才である。
そんなハスミンが、フォード、ホークス、ゴダール、ペキンパーなどを語り尽くした濃厚&難解すぎる評論が571ページ、ほとんど改行なしでびっしりと敷き詰められた地獄みたいな本が『映像の詩学』である。1979年の本なので、ハスミン文体に最も脂が乗っていた頃だ。
ごく控えめに言って、かなり上級者向けの本です。
かくいう私も読了に2ヶ月かかったし、全体の30パーセントぐらいしか理解できなかった。
たとえば、ジョン・フォード論に始まる第一章の書き出しは以下の通りである。
「フォードは美しい。ジョン・フォードとは、不幸にも“美しさ”のみで映画たりえてしまった例外的な作家が、なお映画を生き続けんとして身にまとった世をしのぶ仮の名前にほかならない。誰もがその名前を気軽に口にするとき、その音の連なりが奇妙な翳りと湿りけを帯びてしまうのはそうした理由による。たとえばハワード・ホークスであれば、彼は“聡明さ”のみで映画たりえた唯一の人間であるし、ジャン・ルノワールもまた“卑猥さ”のみで映画たりえた唯一の人間であるが、フォードの場合は、“美しさ”のみで映画と戯れその核心で不意に目醒め、また同時にそこで姿を消す術を心得てしまっていたので、比類なき不幸を背負いつつ映画を生きねばならなかったわけだ」
「~ならなかったわけだ」と言われても…どんなわけだ?
とりあえず分かったのは「フォードは美しい」ということだけ。だがこんなものは序の口である。
「睾丸的世界」とか「自己破壊の倒錯的熱学」とか「神話のみが持ちうる雄渾な闊達さとでもするか、熱量のこの上なく有効な消費を実現しえたものの経済的裸形性とも呼びうる充実した簡潔さに達しているというほかはない」など、一事が万事このような難文パワーワードが敷き詰められていて、次第にこのハスミン的言語感覚がシリアスな笑いとして妙な諧謔性が帯びてくるあたり、なかなか中毒性は高いです。
1ページ読むだけで10分かかるような相当手ごわい本だが、慣れてくると「睾丸的世界」とか「性器としての都市」で大笑いできます。
なんやねん、睾丸的世界て。
『映画時評2009-2011』
蓮實 重彦
またしてもハスミンである。そろそろイヤになってきたでしょう?
2009年から2011年まで『群像』で連載していた3年分の批評コラムをまとめた本で、『映像の詩学』の頃に比べると歳を取ったこともあってか、かなり平易な文章になっている(それでも難文だが)。
今回もハスミン的パワーワードの宝庫。
「身震いするほどの甘美な錯覚」
「目頭を熱くしての祝福」
「傑作とよぶことをためらうほどの途方もなさ」
なんだろう、この…美文なんだけどちょっと笑っちゃう感じ。
特に「目頭を熱くしての祝福」は私のお気に入りワードで、勝手にアレンジしてよく使わせてもらってます。「トマト煮込みを作りながらの祝福」とか「マーマレードを顔面に塗りたくりながらの祝福」など。
取り上げている作品が2010年代前後のものばかりなので、手に取りやすい。
『アバター』(09年)でジェームズ・キャメロンの律儀な演出を褒め、『ダークナイト ライジング』(12年)でクリストファー・ノーランを「着想だけの人」といって叩き斬る。
いずれにせよ、ハスミンの評論を読むと「自分がいままで“映画”だと思ってきたものはほんの氷山の一角に過ぎない」ということに気付かされる。映画に対する認識を根底から覆されてしまうのだ。
「クロード・シャブロルの作品には、観客の存在が不可欠である。映画なら誰の作品であろうと観客の存在は不可欠だなどといってはなるまい。画面を見ながら泣いたり、笑ったり、驚いたり、脅えたり、憤ったりしているかぎり、観客は存在しないも同然だからである。実際、誰もが自分の見ている画面と過不足なく同調しているなら、そこには作品しか存在しないといわざるをえない」
『ファイト批評 映画・喧嘩・上等』
アイカワ タケシ 釣崎 清隆
イラストレーターのアイカワ タケシと、死体写真家の釣崎清隆の共著。ブックオフだかファックオフだかでたまたま手に取ってパッと中を見た瞬間、全身に稲妻が走った。
嘘や綺麗事がどこにもなかったのだ。正直であろうとするほどに言葉は過激になり、鋭さを増す。プロの映画ライターではないからこそ、プロの映画ライターが絶対に書けないことを書いている。この二人は戦闘的文筆家だ。
一見ムチャクチャなことを書いているように見えるが、言葉の裏側には意外な意味が織り込まれている。でも表面的にはただの暴論。そんなアクの強いに文章に魅せられて、私。
たとえば『ベイブ 都会に行く』(98年)に対する二人の評がこちら。
「死ね、このブタが!(採点不能)」
釣崎 清隆
「『ベイブ 都会に行く』は悪夢を思わせる映画だ。はたして子供たちは喜んでいるのだろうか。もちろん大人たちは喜んでいない。誰も喜ばないように作られている。でもみんな喜んでいた。なぜか? 知らねえよそんなの。100点!」
アイカワ タケシ
笑ってもいいが、笑ってる場合じゃないぞ。これはすごい。この映画を「死ね、このブタが!」の一言で片づけられるまでには、一体どれほど言葉の可能性を探求してレトリックと向き合わねばならないことやら。
究極の評論とは「一言コメント」だ。たった一言で本質を穿つ。これができないから、私を含めて多くの物書きはダラダラと何千字も費やしてしまうのだ。
そしてアイカワ タケシの「なぜか? 知らねえよそんなの。」も心が震える一文だよな。
「知らねえよそんなの。」というのは、回答の「放棄」ではなく「問いかけ」だ。本書は「自分の頭で考えろ。他者の考えに影響を受けるな」というメッセージを何度も繰り返している。だから一番肝心なことは言わず、「テメェで考えろ」と。
だがこの本には言葉遣いが過激すぎるという問題点があるので、誰にでも勧められるわけではない。『グリーンマイル』(99年)評なんて実に可愛いものだ。
「トム・ハンクスを理想の結婚相手とするようなバカ女を一人ずつぶっ殺して回らなきゃならない」
これ以外にも、ちょっとここでは引用できないような相当ヤバい文章もぼんぼこ出てくるので、ドギツい言葉に耐性のない人は読まない方がいい。
最後に、『マルコヴィッチの穴』(99年)評から一部抜粋。
「全米公開時に『難解だ』という意見があったそうだが、そんなことを言うような客のレベルに合わせて映画は作らなくてよろしい。本質的にこの作品はバカにわかる作品なのであって、それ以下の人の面倒をみる必要はないと思う」