シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ポルト

ただ「沁みる」大人のしっぽり映画。されど「攻めた」不良映画。

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2016年。ゲイブ・クリンガー監督。アントン・イェルチン、ルシー・ルカース。

 

ポルトガル北部にある港湾都市ポルト。家族に見放されてしまった26歳のアメリカ人ジェイクと、恋人と一緒にこの地にやってきた32歳のフランス人留学生マティは、考古学調査の現場でお互いの存在を意識する。カフェでマティを見つけたジェイクは彼女に声を掛け、その後一夜を共にする。(Yahoo!映画より)

 

ヘイ、ヘイ、ブラザー、おはちゅっちゅ。

昨日はアクセス数がアホみたいに爆上がりしました。『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(18年)の評を載せたからです。さすがアベンジャーズ効果。隅に置けない。

でもそんなことで僕が喜ぶと思ったら大間違いなんだからぁぁ!

アクセス数が伸びたのは僕の文章がグレートだったからではなくアベンジャーズのおかげ。悲しいかな。悔しいかな!

普通のブロガーなら、ここでレディ・プレイヤー1(18年)あたりの話題作を立て続けにアップすることで相乗効果的にアクセス数を稼ぎ、このろくでもないブログを軌道に乗せるのだろうけど、あえて私は誰も興味ないようなポルトについて誰も興味ないような文章をしめやかに書いて参ります。

潮よ、引け!!

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◆『ポルト』でイメージ刷新キャンペーン◆

しっぽりとした大人の映画である。

かなりしっぽりとした大人の映画である。

おそらく私は読者諸兄から大変なバカと思われているが、実はこういう紳士淑女向けのしっぽり映画も好むのである!

信じませんか。なんで信じてくれないんですか。

これを言っちゃあ身も蓋もないけど、「バカに好まれやすい映画」を取り上げて「バカと思われるような書き方」をした方がブログ初心者としては色々都合がいいっていうか、まぁキャッチーだからそうしてるだけであって、実際の私と会ってごらんなさい、まぁ実際バカな人間ですけど、ふざけたことなんてほとんど言わないですよ。

長年mixiで書いてたレビューだって、最初の三行を読んだだけであったまクラクラするような激ウザ難文で「ショットが云々」みたいなことを字数制限ギリギリまで書くような、いわゆる激烈に面倒臭い自称映画通なのですよ。

どんどん嫌ってくださいね!

そして激烈に面倒臭い映画通ほど、しっぽりとした大人の映画を好むのである。

なぜなら自称映画通とは口だけ達者で精神的には未熟そのものの「大人になりきれない半可通」だからである。

自分で言ってて自分で傷ついてきた。これぞ叙情のリストカット

まぁそんなわけで、イメージ刷新キャンペーン第一弾としてポルトをまじめに評論しますね。ふざけずに。

できるかなぁ。

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◆一体化ロマンスの不可能性◆

男と女が深夜のカフェで出会い、ほとんど言葉を交わすことなく女のアパートに行って激しく交わる。

翌日、眠る男を残してアパートを出た女が正午に婚約者を連れて家に戻ってくると、男は女の帰りを待っていて三人が鉢合わせしてしまう。結局、女は婚約者を選んで男を捨てた。

二人が別れて数年が経ち、すでに結婚生活が破綻した女と、相変わらずポルトでその日暮らしの生活を送る男。全く別の人生を歩む男と女だったが、ふたりの記憶は必ずあの夜へ辿りつく。運命と呼ぶにはいささか大袈裟だが、それでも愛の瞬間を信じられたあの夜に…。

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ポルトは2016年に27歳の若さでこの世を去ったアントン・イェルチンの主演作であり、ジム・ジャームッシュが製作総指揮を務めたポルトガル映画である。

男の視点から情事へと至る過程を描いた第一章と、女の視点から語り直した第二章。そして男と女の第三章に至ってようやく映画は客体性を獲得するが、だからといって第一章と第二章では描かれなかった驚くべき事実が第三章で明かされるわけでも、いわんや劇的なメロドラマへと着地するわけでもない。

むしろこの「章仕立て」という構成それ自体が「驚くべき事実」であり「劇的なメロドラマ」なのである。

男の視点で描かれた第一章と女の視点で描かれた第二章で「同じ出来事」が反復されるわけだが、とても反復とは思えないほどセリフも構図取りもまったく違う。

そもそも本作は、視点や時間軸によって、35ミリ、16ミリ、スーパー8の3種類のカメラを使い分けて撮影しているのだ。涼宮ハルヒの憂鬱』における「エンドレスエイトよりも遥かに分かりやすく、また観やすい反復である。

男女別の視点で一夜の情事を二度に渡って繰り返した理由は、双方にとっての印象的な言葉や景色がそれぞれに異なることを表現するためだろう。

 

私がラブストーリーを嫌う理由は、そこにが溢れているからだ。

「二人は同じ気持ち」なんつって、ある情感の中に男女を同調させることこそがロマンスだが、それぞれに違う感覚を持った別々の人間が寸分の差異もなく全く同じ情感を共有することなどほとんど不可能だ。

極論、愛し合ったあとのピロートークで、一見して同じ温もりを同じように感じている二人だが、じつは女の方は「トイレ行きてえな」と思っていて、男は男で「買ったばかりのプレイステーション4で遊びてえな」と思っているかもしれない。

あるいは、くそみたいなデートスポットで同じ夜景を打ち眺めながら「綺麗だね」なんて言いつつも、女は高層ビルの光に心を奪われ、男の方は自動車のヘッドライトが象る光の川に心を奪われているかもしれないのだ。

このような「それぞれに違う感性や着眼点」を、ポルトは視点変更の章仕立てによって浮き彫りにする。

ナイス ポルト

(こういうことを書くからバカと思われるのか)

そして俯瞰視点から改めて語り直された第三章に至って、「男女の差異」は破局にも直結しうる致命的な問題であることが露呈し、結局、男と女は別々の道を歩むことになる。

 

だが、俗世間に溢れるロマンスの大部分は「同調」とか「一体化」の類を無前提的に称揚する。綺麗な話だが、綺麗事だと思う。

すぐれたロマンスとは愛し合う者同士が一体化することではなく、違いを認め合って向き合うことではないのか?

たとえ認め合うことや向き合うことができずに決裂したとしても、それもまたロマンスだ。丸ごと受け入れて前進しろ。

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◆誰かが死んだ日は別の誰かのバースデー◆

視点変更とか章仕立ての話をしたから、もしかするとあなたは「けっこう骨太なロマンスなのかな。そうなのかな。どうなのかな」と思っているかもしれないが、本作はわずか76分の作品である。

男と女が出会って一夜限り関係を持って翌日解散する。ただそれだけの映画だし、いわゆる通俗映画のような分かりやすい三幕構成もなく、男女のやり取りもたまに思い出したように詩的なセリフがボソボソと囁かれるだけ。

なんてったってジャームッシュが一枚噛んでいるのだ。

映画の価値をはかる物差しに「おもしろい」か「つまらない」かの単純な二元論しか持たない幼稚な観客を爪弾きするかのように、永遠にも近いほど引き延ばされた76分の夜が優雅に流れる。

ポルト』はおもしろくもつまらなくもない。

ただ沁みるのだ。

エドワード・ホッパーの絵画「ナイトホークス」を借景したであろうカフェ外観のショット。そこに流れるジョン・リー・フッカーのブルース「Shake it Baby」

これ以上の贅沢はあるまい。

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画像上:本作におけるカフェの外観。

画像下:エドワード・ホッパー「ナイトホークス」(1942年)

 

だからといってこの映画が徹底的にしっぽりとした大人の映画なのかと言えば、実はノン。意外とノン。
35ミリ、16ミリ、スーパー8を使い分けるという劇的かつ実験的な身振りでわれわれをアジテートしてくるのだから、これはもうほとんど不良に近い。

ポルト』は実に気品があって大人びた佇まいだが、実は真夜中の校舎でガラスを割って回るような不良映画なのである。

そもそもジャームッシュ自身がそういう人だからね。

 

監督のゲイブ・クリンガーというなかなか強そうな名前の男は、イリノイ大学で教鞭を執りながらドキュメンタリー映画を手掛ける若き有望株。本作が初の長編劇映画だが、主演のアントン・イェルチンにとっては遺作になった映画でもあり、なんというか…、始まり終わりが同時に訪れたような複雑な心持ちになった。

そして、この映画に出てくる男女もまた、始まりと終わりの予感の中で刹那の愛を取り交わしたのである。

誰かが死んだ日は、べつの誰かのバースデー。ひとつの感情だけで生きていけるわけがない。

さようなら、アントン・イェルチン。きみより長く生きてしまったよ。

ブルース界の巨人ジョン・リー・フッカー「Shake it Baby」