トラブルから生まれた半々型ルーニー映画。
2016年。ジム・シェリダン監督。ルーニー・マーラ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、エリック・バナ。
アイルランド西部。精神科医のスティーヴン・グリーンは、取り壊されることになった聖マラキ病院の患者たちが転院するのに伴い、彼らの再診を行う。そこで自分が生んだ赤ん坊を殺したとして、約40年収容されているローズ・F・クリアを診ることになる。自身の姓はマクナルティだと訴え、殺害を否認し続ける彼女にほかの精神障害とは異質のものを感じたグリーンは、彼女が聖書の中に日記を書いていたことを知り…。(Yahoo!映画より)
はーい、おはよー。
ミーはこないだ久しぶりにレコード店に行って、ナイト・レンジャーの5thアルバム『マン・イン・モーション』と、ホワイトスネイクの10thアルバム『グッド・トゥ・ビー・バッド』を購買したので、最近はそればっかり聴いてます。どちらもハードロックバンドです。
ナイト・レンジャーとホワイトスネイクは元々好きなのだけど、今回私が買い求めたのは全盛期を過ぎたあとのアルバムなので長らく食指が動かなかったのです。
そういう経験ってない?
特定のミュージシャンを気に入ったとき、1stアルバムから順番に聴いていくという方法と有名なアルバムから順番に聴いていくという二通りのやり方があって、それが一番ベターだと思うのね。少なくとも私は最新アルバムから過去に遡って聴いていくという時間逆行者みたいな振舞いはあまりしません。特に歴史の長いバンドほど…最新アルバムって出涸らしですからね。
特にハードロックの場合は耐用年数(バンドの寿命)が非常に短いので、初期の作品に名盤が集中しがち。キャリア後期…つまり最新作になるにつれて技術は衰えアイデアも枯渇し、往年の名曲をマイナーチェンジしただけのセルフ二番煎じみたいなアルバムが多くなってしまうのです。
だからナイト・レンジャーやホワイトスネイクのような大好きなバンドでも、過去のアルバムばかり繰り返し聴いて、最近のアルバムにはあまり興味が湧かない…というこの心理。わかりますか。
ミーは書いてて楽しいけど多分読者はシラけてるような前置きになっていることを自覚しつつあるのでこの辺でやめておきましょう。
本日はプチルーニー祭りの第二回、いわば最終回ということで『ローズの秘密の頁』を取り上げたいと思っていルーニー。
◆トラブルの産物◆
当初主演に選ばれたのはジェシカ・チャステイン。ほかにも、とりあえず出しておけば画面が格調高くなることでお馴染みのジェレミー・アイアンズや、『ベルベット・ゴールドマイン』(98年)でなんちゃってデヴィッド・ボウイを演じたジョナサン・リース=マイヤーズの出演が決定していたが、なんと俳優陣だけでなく監督まで降板するというトラブルが発生。もはやストライキである。
どうにか代役を立てることには成功したが、製作が約一年も遅れたというトラブルの産物、それが『ローズの秘密の頁』である。
私はルーニー・マーラの応援団長である。10年代前半は『ドラゴン・タトゥーの女』(11年)、『サイド・エフェクト』(13年)、『キャロル』(15年)といった傑作群で好調にキャリアを築いていたが、下げチン俳優のホアキン・フェニックスと交際してからというもの、いい感じのオファーがとんと来なくなって自己満低予算映画に活躍の場を移す。
さっさと別れろ!
ヴァネッサ・レッドグレイヴは、私がよくマギー・スミスと混同してしまうベテラン女優である。
歳を取ってからもさまざまな映画に脇役として出演しているが、やはり70年代の『肉体の悪魔』(71年)、『オリエント急行殺人事件』(74年)、『ジュリア』(77年)などを代表作に挙げたい。あと、こないだTSUTAYA発掘良品で『裸足のイサドラ』(68年)が復刻したので観なければならない。
本作は、我が子を殺した疑いで精神病院に40年以上も収容されているヴァネッサが昔を回想しながら子殺しの真相を語りだす…という大筋である。ヴァネッサの若かりし頃を演じているのがルーニーというわけだ。
ヴァネッサの昔話を聞く精神科医役にはエリック・バナが起用されている。
エリック・バナ…、もはや懐かしい響きである。大大大失敗作の『ハルク』(03年)や、スピルバーグの『ミュンヘン』(05年)などでゼロ年代にそこそこ活躍していたが、10年代の夜明けとともに消えていった朝露のような男だ。
◆半々嫌いにはキツい映画◆
まずはじめに好みの話をさせてもらうなら、二つの時代を行ったり来たりする映画があまり好きではない。現在シーケンスと過去シーケンスをちょうど半々ずつ描いたような作品のことだ(近作だと『僕だけがいない街』など)。時間と空間が散逸してしまうし、主演の出番も分散してしまうので、なんとなく作品世界としての統一感を欠くような気持ち悪さを覚えてしまうのだ。
そうした映画は「デュエット曲」を私に思わせる。たとえば先日、エレカシの宮本浩次と椎名林檎がコラボした「獣ゆく細道」というデュエット曲が公開された。むちゃむちゃ格好いい曲なのだが、ことに私はエレカシのビッグファンなので、もしも宮本一人で歌った「獣ゆく細道」があるとすれば私はそっちを聴くだろう。
何事によらず半々というものが好きになれないのだ。
ピザにしてもそうでハーフ&ハーフはイヤだし、マンガやアニメに出てくる二人で一人みたいな一心同体キャラもイヤだ(『北斗の拳』のライガ&フウガとか)。
双子のタレントも嫌いだ。
まぁ、我儘を言ってもしょうがない。
だがそんな私の好みを差し引いても、なお本作には不満が残る。
まずもって、ヴァネッサ・レッドグレイヴとルーニー・マーラが同一人物とは思えない。「顔が似てない」といった表面的な話ではなく、いわば女優としての世界観がまるっきり異なるのだ。ヴァネッサとルーニーでは、色も匂いもまるで違う。したがって「このお婆ちゃんも若かりし頃はこんなに美しかったのかー」なんて二人の女優を地続きで捉えることができない。
通常、そういう場合は所作や言葉遣いを同調させることで同一人物感を出すというのが演出の定石。たとえば髪を触る癖があるとか、お気に入りの言い回しがあるとか、まばたきや歩き方に特徴があるとか。
なんもねえ。
だから同一人物とは思えず、過去から現在に至る40年越しの想いがまるで繋がっていないのである。おそらくヴァネッサとルーニーとの間で役の擦り合わせが出来ていなかったのだろう(たぶん製作の遅れが原因)。
夜なべしてルーニーのスペシャルフォトを作りました。堪能すルーニー。
◆戦闘機流のア・イ・シ・テ・ル◆
過去のシーケンスでは、第二次大戦でアイルランドの保守的な田舎町に疎開してきたルーニーが町の男たちに色情症扱いされて精神病院にぶち込まれるまでの不幸続きを描いているのだが、各描写がいちいち呑み込みづらい。
美女ゆえにモテまくりのルーニーは、テオ・ジェームズ演じる牧師や、ジャック・レイナー演じる酒場の男、さらにはIRA(アイルランド共和軍)の一員に言い寄られて、山本リンダの「こまっちゃうナ」を歌わずにはいられないほど困惑してしまう。
そんな折、酒場のジャックが「パイロットになるんだ!」といってイギリス空軍に入隊。戦闘機でルーニーの頭上スレスレを飛び抜けて(危ねぇだろバカ!)、大空できりもみ回転して「これが戦闘機流のア・イ・シ・テ・ルのサインじゃあー」などと昭和まるだしのアプローチをしたが、それを見たルーニーは「へー」なんつってドライな反応(ルーニー・マーラって無表情だしね)。
戦闘機でルーニーの頭上すれすれを飛ぶジャック。1メートルずれてたらルーニーの首が飛んでいたギリギリのラブゲーム。
ところが、あんなにイキって「ア・イ・シ・テ・ル」とかやってたジャックが一瞬で撃墜される。
ジャック(笑)
しかもその戦闘機はルーニーの家の真ん前に墜落し、すぐ近くの木にジャックが引っかかって生死の境を彷徨っていた。あんなにイキって「ア・イ・シ・テ・ル」とかやってたジャックが。
ルーニー「あ、ジャックが木にぶら下がってる!」
もう意味がわからなすぎて。
まずもってジャックは誰に撃墜されたのか。ドイツ爆撃機がアイルランドに誤爆したことはあっても、その上空で撃墜されるほどドイツ軍が侵攻していたなんて話は聞いたことねえぞ。
そしてルーニーの家の前に墜落するという奇跡。
話が出来すぎなんだよ!
ジャックを家に連れて介抱したルーニーは「私もア・イ・シ・テ・ル!」と言ってジャックと結ばれ、子を授かる。ルーニーはいつジャックのことが好きになったのだろう?
ジャックがイキって「ア・イ・シ・テ・ル」ってやってたときも、おまえ、「へー」つってドライな反応してたやないか!
もう何が何だかさっぱりわかりません。
いつの間にか結ばれてア・イ・シ・テ・ルのキス。はいはい美談美談。やっとけやっとけ。
◆せっかくの美味しい設定を…◆
一方の現在シーケンスでは、年老いたルーニー、つまりヴァネッサが精神科医のエリックに40年前の過去をベラベラ喋りまくる。
戦闘機流のアイシテルをされて死にかけたこと、ジャックと愛し合って身ごもったこと、ジャックがIRAの連中に殺されて生まれたばかりの子供まで取り上げられたこと、その黒幕がジャックを選んだことに嫉妬した牧師だったこと。そして牧師の陰謀で精神病院に入れられて現在に至ること…。
この40年間、ヴァネッサは精神病院で拷問を受け続けたことで、幻覚と幻聴、それに記憶障害まで起こすほど精神が壊れてしまっている。邪悪な院長は「あの婆さんの言うことを真に受けてはいけないよ。妄想症だから」とエリックに言う。
であるならば、ヴァネッサの昔話が嘘かもしれないというミスリードで話を盛り上げるのが定石でしょうにィィィィィィィィィィィィィィィィ。
せっかく「言ってることが嘘か本当か分からないようなキャラクター」という美味しい設定にも関わらず、劇中で語られるヴァネッサの昔話はすべて真実なのだ。
真実しか語らないなら「言ってることが嘘か本当か分からないようなキャラクター」という設定自体がいらないわけで、ひいてはヴァネッサを記憶障害や妄想症へと至らしめた「精神病院での拷問」というプロットまで不要になってしまう。つまり本作の存在理由の半分近くが失われてしまうのだ。
また、ヴァネッサの生き別れた息子は誰なのか? という超どうでもいいドンデン返しが用意されているが、たぶんこれを読んでいる人なら大体察しがつくよね(わざと察しがつくように書いてますから。消去法で男性キャラを絞っていけばいいだけです!)。
映像や演出面でも別段気の利いたことをしているわけではないので、映画が進むに従って徐々にボーっと見るようになってしまう。最初の1分で「この娘の限界はこの程度か」と見限ったものの一応最後までオーディションに付き合うアイドルプロデューサーのように。
ヴァネッサ婆さんの話を聞き続けるお医者先生エリック。
◆とはいえ話◆
とはいえ、ルーニー・マーラである。
はっきり言って本作でのルーニーの演技プランは間違っている。ヴァネッサの若かりし頃を演じるのであればもっとヴァネッサ・レッドグレイヴという女優を研究して彼女が演じる「現在のヒロイン」に合わせるべきだろう。
ダメだぞ、ルーニー。
いけないぞ、ルーニー!
とぉはぁいぃえぇぇぇぇ!!!
ルーニー・マーラをルーニー・マーラとして絶対視した場合に限り、本作におけるルーニー・マーラは非常にマーラマーラしている。わかりますか、このリロン。
相対的に見るとまるでダメだが、絶対的に見るとまるっきりルーニー! まるっきり最高!ということである。リロンわかる?
ルーニーのパッキパキに見開いた眼は怖さと紙一重の美しさを体現しているし、なんといっても現代より前時代を舞台にした作品でこそよく映える女優だ(『キャロル』は50年代、『セインツ 約束の果て』は70年代)。また、シーンによって細やかに変化するヘアスタイルも髪型評論家としては見逃せまい。
そんなわけで、「とはいえルーニー・マーラは最高」という非常に歯切れの悪い結論に軟着陸して候。
きりもみ回転していたのはジャックの戦闘機ではなく私のルーニー愛でした。
いま、大空に描くよ。ア・イ・シ・テ・ルのサイン!
あーあ、評論として墜落してるな、こりゃ…。
木にぶら下がってきます。