シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

聖なる鹿殺し

一世一代の人力おやじルーレット。

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2017年。ヨルゴス・ランティモス監督。コリン・ファレルニコール・キッドマンバリー・コーガン

 

郊外の豪邸で暮らす心臓外科医スティーブンは、美しい妻や可愛い子どもたちに囲まれ順風満帆な人生を歩んでいるように見えた。しかし謎の少年マーティンを自宅に招き入れたことをきっかけに、子どもたちが突然歩けなくなったり目から血を流したりと、奇妙な出来事が続発する。やがてスティーブンは、容赦ない選択を迫られ…。(映画.comより)

 

ハロー、エブリぽん。

最近、あたりめを一口ずつライターで炙りながら食べる行為にハマってます。

一口食べるたびにシュゴォォー…バチバチバチ!ってライターで炙るんです。ロックンロールでしょ?

そんなわけで、この3日間でライターを3個使い切りました。ライターの点けすぎ&軽い火傷で左手の親指が痛いです。しかも若干ヘコんで内出血してます(ライターの点火って意外と力使うからね)。これぞ勲章。

まぁ、ジッポの方が指に優しいんだろうけど、あたりめごときにジッポを使いたくないので百均のライターで指を痛めてると、こうなるわけです。

もちろんソースはしょうゆマヨ。私は普段マヨネーズを摂取することがないので家にマヨネーズがないんです。しかしこの度、あたりめを食べるためだけにマヨネーズを買い求めました。ロックンロールでしょ?

スーパーのマヨネーズコーナーに行ったらセクシーなマダムがすでにそこを陣取って「やっぱりキューピーかしら?」なんてウダウダしていたので、その人が邪魔でなかなかマヨネームが選べなかったです。「どけ」という思い半分、「セクシーだなぁ」という思い半分。こういう心理状態をなんていうか知ってますか? アンビバレンスっていうんですよ。

そんなわけで本日は『聖なる鹿殺し』です。まぁ、私がやってることは聖なるイカ殺しなんですけどね。ウケるといいなぁ、このギャグ。だめだろうな。

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◆神話知らなくても問題ないよ◆

ギリシャが生んだ新鋭ヨルゴス・ランティモスは、リンチ、ハネケ、トリアーの系譜に名を連ねる畸形の映画作家としてマニアの心をグチャッと掴んだ。

何を隠そう、私も籠の中の乙女(09年)に心をグチャッと掴まれたクチだが、続く『ロブスター』(15年)は海外進出作としてずいぶん殺菌されており、あざとさが少し鼻につく。

ちなみに籠の中の乙女という映画は、外界から遮断された屋敷のなかで両親からおかしな教育を受ける3人の子供たちに密着した奇天烈ホームドラマだ。ギリシャ『痛快!ビッグダディみたいな映画である。

そして『ロブスター』の方は、謎のホテルに集められた独身男女が強制的に恋人を作らされ、45日以内に誰かとカップルにならなければ動物に改造されてしまうという恋愛バラエティだ。『あいのり』テラスハウス『バチェラー・ジャパン』、そして『ロブスター』ということである。

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そして本作。

かつて酒気帯びオペで患者を死なせてしまった心臓外科医のコリン・ファレル(以下ダディ・ファレル)がやけにのっぺりとした青年バリー・コーガンと懇意にしていると、なぜかダディ・ファレルの子供たちが足が不自由になるという奇病でバタバタ倒れていく。

バリーの正体は、かつてダディ・ファレルが死なせてしまった患者の息子だった。


「この作品はギリシャ神話が基になっているので『アウリスのイピゲネイア』を知っていれば理解が深まるでー」という決まり文句が蔓延っているが、嘘をつくなと言いたい。

たとえば『哭声/コクソン』(16年)マザー!(17年)は聖書になぞらえた作品なのでキリスト教にまつわる予備知識がないと最初から最後まで理解できないが、本作はべつに『アウリスのイピゲネイア』になぞらえた作品ではなく、あくまでもひとつの物語類型として引用しているだけだ。

とはいえ難解映画ということになっているらしいが、画面を観ていればわかることばかりである。


たとえば、バリーは「あなたに家族を一人殺されたからそっちの家族も一人殺す。誰を死なせるか選んで。でも心配しないで、あなたは助かる」とダディ・ファレルに言う。

バリーの説明によると、どうやらダディ・ファレルの2人の子供たちは、まずはじめに足が不自由になり、次に食欲を失い、そして目から出血し、最後に死が訪れるらしい。恐ろしい話である。

実際、息子のサニー・スリッチくんは足の感覚を失った数週間後に目からドバドバ血を出すが、バリーが怪しい薬を使ったりして物理的に奇病を発生させた可能性を示唆するショットはひとつも出てこない。この時点で本作が常識的なリアリティラインを持ったサスペンスやスリラーの類ではないことを誰もが直感する。

つまりこの奇病は「呪い」であり、バリーの真の正体が「人ならざるもの」であることがわかる。それを神と呼んでもいいし悪魔と呼ぶのも自由だが、バリー自身が「僕はメタファーだ」と明言した通り、この物語のいっさいは比喩によって語られているのだ。要するに村上春樹なのである。

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◆「1つの家族」ではなく「4人の人間」◆

おもしろいのはダディ・ファレルの家族関係。

眼科医の妻ニコール・キッドマン(以下キッドママ)は幼いサニー坊をめいっぱい可愛がる一方で、長女のラフィー・キャシディには異様に厳しい。

それとは反対に、ダディ・ファレルはラフィー嬢に愛情を注ぐ反面、「父ちゃんのような心臓外科医じゃなくて母ちゃんみたいな眼科医になりたーい」と言ったサニー坊には冷たくあたる。

親子間のエディプスコンプレックスが複雑に交差する。父と娘、母と息子の疑似恋愛。そして息子は父を憎み、娘は母を憎むのだ。


ここからはヨルゴス・ランティモスの悪意が花開く。並みの100人の映画作家が誰も思いつかないような方向に舵を取り、美しくも不快な最終楽章へと辿り着くのだ。

バリーの予言通りに症状が進行する子供たちを見たダディ・ファレルとキッドママは、家族の中で誰かが死ねば呪いが解けるという話をようやく信じて夫婦会議を始める。

ダディ・ファレルがバリーに「あなたは助かる」と言われたことを考えると、ダディ・ファレルが犠牲になるのは許されないのだろう。この事態を招いた張本人であるダディ・ファレル自身が責任を取って自死してしまっては復讐にならないからだ。

だとすれば子供の命を守るためにキッドママが自ら進んで犠牲になることが母親のあるべき姿だろうに、あろうことかこの母は「死ぬのは子供よ。私はまた産めるもの。何事によらず母体って大事じゃん?」というロジックを振りかざして夫を説得するのだ。

どこの世界に「死ぬのは子供よ」なんてパワーワードを発する母親がいるというのか。

ところがダディ・ファレルはバカなので「それもそうか」と納得して(納得するんじゃない)、2人が通う学校に赴いて「うちの子供たち、どちらが優秀ですか?」などと教師に尋ねる。最低すぎて逆に最高だ。

どこの世界に我が子の生き死にが懸かった問題について教師にセカンドオピニオンを求める父親がいるというのかぁぁぁぁ。


思い返してみると、本作には「父と娘」や「母と息子」といった個人間の愛情こそ示されているものの、家族間の微笑ましい光景はただの一度も映されてはいない。四人で食卓を囲うシーンでは、母は娘に「背筋を伸ばしなさい、この猫背娘」と注意し、父は息子に「髪を切れ。このもっさり頭」と説教するのである。

そして親が子を生贄にすることに良心の呵責すら感じない。バリーに安全を保障された父親以外の全員が「自分さえ助かればいい」と保身に走る。この家に住んでいるのは「1つの家族」ではなく「4人の人間」であり、彼らの間には家族愛も信頼関係もなにひとつ存在しない。だからバリーが仕掛けたささやかなゲームで斯くもぶざまに家庭内は崩壊していくのである。

『聖なる鹿殺し』は山田洋次是枝裕和が観たらブチ切れてきそうな反家族の物語なのだ。

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子供を生贄にする気満々の夫婦。


生き残りを賭けた媚売り合戦

ランティモスの作品には間違った秩序ほど正しく機能する社会集団の病理が繰り返し描かれる。

籠の中の乙女ではシステムの囲いの中で子供たちを支配する秩序(家庭内ルール)と、そんな環境からエスケープを試みる子供の姿が描かれる。「犬歯が生えてきたら外の世界に出られるよ」という父親のデタラメを信じこんだ長女は自分の歯をレンチで叩き折り、血だらけになりながら父親の車のトランクに潜りこんで外界への脱出を企てるのだ。ここで描かれているのはTHX-1138(71年)カッコーの巣の上で(75年)にも通じる管理社会からの脱出だ。

『ロブスター』もまた政府によって結婚・出産が義務づけられた管理社会を扱った作品だが、恋愛や性行為を強要する婚活ホテルから脱走して森に逃げ込んだ主人公(こちらもコリン・ファレル主演)を待ち受けていたのは、レジスタンスの女リーダーによって恋愛や性行為がタブーとされた禁欲者だらけの異常な世界だった。異常な世界の外側にはさらに異常な世界が広がっていた…というディストピア


本作がおもしろいのは、ランティモスの過去作と同じく家族やコミュニティといった社会集団を主題にしながらも、脱走によってシステムの囲いから飛び出すという救済がついに無効化されてしまったことだ。

ダディ・ファレルとキッドママは親という立場上、脱走(もしくはすべてを投げ出すこと)自体が禁じられ、子供たちは脱走しようにも足の自由が奪われているために物理的に家から出られないし、たとえ逃げおおせたところでバリーの呪いはどこまでもついてくる。一ヶ所だけ、長女が地面を這って脱走を企てるシーンがあるものの、いとも簡単に両親に捕まって家に連れ戻されてしまう。

彼らは「家族のうちの誰かが死ななければならない」というシステムに完全に囲われてしまったのだ。どこにも逃げられない。

もっと最悪なのは彼らの間に家族愛など微塵もないことである。

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歩けなくなった子供たち。


だから当然、生き残りを賭けた媚売り合戦が始まるわけだ!


年端もいかないラフィー嬢とサニー坊は、自分が生贄に選ばれないようにするために土壇場でのポイント稼ぎに精を出す。

サニー坊は、ダディ・ファレルに「ママと同じ眼科医になりたいと言ったけど、あれはママを喜ばせるための嘘なんだ。本当は父ちゃんみたいな外科医になりたいのさ」と言って父に可愛がられようとする。

ラフィー嬢は「私が死ぬことでみんなが助かるというのなら喜んで地獄の業火に焼かれましょう」と献身的な姿勢を見せることで美しき心をアピール。

そしてキッドママは、激昂したダディ・ファレルに痛めつけられたバリーに傷の手当てを施し、まるで「私はあなたの忠実なるしもべです」と言うかのように深々とこうべを垂れてバリーの足にキスをする。

以前からバリーに恋心を寄せていたラフィー嬢もまた、「私と一緒に逃げましょう。だからまずは足の呪いを解いて」といって遠回しに命乞いをする。

こうべを垂れるキッドママと床を這うラフィー嬢を椅子に座って見下ろすバリーは、さながら王だ。

だが、一人だけ王に逆らう者がいた。サニー坊である。初対面のときからサニー坊ただ一人がバリーを訝しがり、キッドママとラフィー嬢がこうべを垂れているときも彼だけがバリーと同じ目の高さで憎悪の眼差しを向け続ける。

さすがサニー坊、ロックンロールである!(ヘビメタ好きだし)


どうしても生贄を選べないダディ・ファレルは、公平性を重んじた究極の方法を思いつく。

その方法とは、頭からずた袋をかぶせた家族三人を等間隔になるように部屋の三方向に座らせて、ダディ・ファレルがその中央で目隠しをしてライフルを構え、その場で時計回りにクルクル回り出してピタッと止まったところで銃をぶっ放す!

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「回るー回るーよー時代は回るー」と歌いながらその場でクルクル回り始めるダディ・ファレル。

 

人力おやじルーレットかよ。

申し訳ないが大笑いした。

もちろん三人のうちの誰かに銃弾が当たる確率は低く(当たったとしても致死ダメージに至る確率は低い)、弾は部屋の壁を貫いた。目隠しを取ってホッとしたダディ・ファレルだが、誰かに当たるまで続けねばならないので…

またクルクル回り始めた!

しかも今度は反時計回りに!

反時計回りにしたからといって命中率が上がるわけでもないだろうに(目が回るのを防ぐため?)。

申し訳ないがまた笑ってしまった。

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で、まぁ、結局は誰かに当たって家族のうちの一人を殺してしまい、暗澹たる雰囲気の中で映画は終わっていくのだが、ダディ・ファレルの人力おやじルーレットがおもしろ過ぎて笑いっぱなしのクライマックスでした。

※監督自身も「この映画はコメディだ」と明言している。


◆「らしさ」と「らしくなさ」◆

さて、この映画はランティモス「らしさ」と「らしくなさ」が同居した作品である。

まず「らしさ」で言えば、先述した社会集団の病理に加えて奇妙なユーモアである。

足の自由を奪われた子供たちが地面を這って移動するという異形のイメージは籠の中の乙女で犬の鳴き声を練習させられる子供たちが四つん這いでワンワン吠えるシーンを思わせるし、ダディ・ファレルの人力おやじルーレットは『ロブスター』でしょっちゅう鼻血を出す女にアプローチするべく彼女がよそ見している隙にわざと床や壁に鼻を打ちつけて「僕もよく鼻血が出るんだよ」なんて鼻血工作をおこなって女をモノにする…という、ギャグなのか何なのかよくわからないシリアスな笑いに符号する。


一方の「らしくなさ」はカメラワークだ。

普段は撮影技法になどまるで無頓着でテーマやストーリーの観点から映画を語るレビュアーでさえ、この映画に対してだけはカメラワークに言及するほど誰が観てもやり過ぎだろうと思うようなズームアップ/バックが執拗に繰り返される。これまでのランティモス作品ではフィックス(固定撮影)主体だったが、本作では落ち着きがないキッズのように常にカメラが動き回っているのだ。

通常、ズームアップとは被写体を強調することでその様子に注意を向けさせるという効果があり、反対にズームバックは被写体の様子を客観的に捉え直すことで観客を没入状態から醒めさせるという効果があるわけだが、そうした映像文法を無視してズームアップ/バックを執拗に繰り返す狙いはバリー=神≒悪魔の視点を取り入れるためである。

要するに観る者の感情移入を拒否するために、あえて違和感まるだしのカメラワークを採用しているわけだ。われわれが理解すべきことはダディ・ファレル一家の不憫さではなくバリーが仕掛けたゲームそのものなのだから。

ちなみに本作の根底にはミヒャエル・ハネケファニーゲーム(97年)が息づいているが、こちらも観る者に感情移入させないためにメタ構造や対位法といったわざと違和感を強いるような映像技法が使われている。


とはいえ、このズームアップ/バックが果たして正しかったのか? という疑問は残る。

たとえばイーストウッドのような奇形的天才は違和感なく違和感を覚えさせるが、この映画は違和感のある違和感を演出とみなしているので、説話として効果的ではあるが映画として正しいとは言いがたい(個人的にはぬるぬる動くカメラが鬱陶しくてしょうがなかったです)。何より「何故このカメラワークなのか?」という意図がミエミエで、なんというか…若干ダサいのである。

心臓外科医のダディ・ファレルが今まさにオペに取り掛かろうとしている患者の切り開かれた胸部から剥きだしになった心臓のファーストショットを褒めるレビューが目立つが、あからさま過ぎてやや気恥ずかしいし、下着姿のニコール・キッドマンがベッドに横臥するアーティスティックなイメージを二度も繰り返す手つきも「あー、はいはい」という感じで鼻白んでしまった。

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アイズ ワイド シャット』(99年)をやりたかったのね。

 

…と言いつつ、なんだかんだでお気に入りの作品である。

前作『ロブスター』ほどケレン味過剰ではないし、難解映画に見えて実は至ってシンプルな骨子を持った力強い作品だと思う。籠の中の乙女はいい意味で虚弱体質だったし、『ロブスター』もまた貧血みたいな映画だったが、今回の最新作はやけに骨密度が高い。

口髭がジャングルみたいになってて表情がほとんど読み取れないコリン・ファレルをはじめ、計算高い母親をひたひたとした存在感で演じたニコール・キッドマン、それに若手のバリー・コーガンが演じた観念的なキャラクターなど、レベルの高いキャスト陣が映画のカルシウムとなっております。

ランティモス作品をひとつも観たことのない人にほど勧めたい劇薬映画だ(でも本当に勧めたいのは籠の中の乙女!)

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バリーの絶妙な不快感がすばらしい。