金の亡者はおまえかよ!
2017年。リドリー・スコット監督。ミシェル・ウィリアムズ、クリストファー・プラマー、マーク・ウォールバーグ。
73年、石油王として巨大な富を手に入れた実業家ジャン・ポール・ゲティの17歳の孫ポールが、イタリアのローマで誘拐され、母親ゲイルのもとに、1700万ドルという巨額の身代金を要求する電話がかかってくる。しかし、希代の富豪であると同時に守銭奴としても知られたゲティは、身代金の支払いを拒否。ゲイルは息子を救うため、世界一の大富豪であるゲティとも対立しながら、誘拐犯と対峙することになる。(映画.comより)
みんな、こんにちは。
ついにパソコンのルーターがばくはつしました。
数ヶ月前から「そろそろ来るんちゃうん?」という予感を湛えていたけど、とうとうばくはつしましたね。
というわけで現在はLANケーブルをチョクでぶっ挿してパソコン遊びをしているわけですが、いかんせんLANポートがガバガバなので事あるごとに接続が切れます。まるで授業中に居眠りと覚醒を繰り返すアホの子みたいに。
ちなみにスマホは持っておらず、買って12年目になるガラケーも最近アホになってきて何も押してないのに画面が一人でに動くという操作不能の状態。
いやー参った参った。進退窮まった。
つきましては、きわめて不安定なインターネット環境の中で怪しい綱渡りをしている身なので、復旧のメドが立つまで無期限活動休止するかもしれません。
まぁ、ルーターを買い換えたら済む話だと思うので早急に手を打ちたいと思ってるけど、代々わたしの家は機械運がないことでお馴染みの機械に見放された家系なので、どうせ多分クソややこしい問題がいちいち起きると思います。機械関連のトラブルでスッと解決したためしがないからね。
そんなわけで『シネ刀』崩壊前夜にお送りしますのは『ゲティ家の身代金』!
孫が誘拐されたというのに祖父が身代金をケチって、意地でも払わない、テコでも払わないという意味内容の節約映画です。
◆孫の身代金をビタイチ払わなかった大富豪◆
本作は1973年に実際に起きたイカつい話である。
当初ジャン・ポール・ゲティ役に選ばれて撮影も終えていたケヴィン・スペイシーが公開2ヶ月前に強制わいせつ行為が発覚して降板となり、急遽クリストファー・プラマーを抜擢してわずか9日間で撮り直しされた本作は、お蔵入りとなったスペイシー版を見るまでもなく結果オーライのキャスティングだったと確信する。
世界一の大富豪にも関わらず誘拐された孫(チャーリー・プラマー)の身代金をビタイチ払わず、ありあまる金を美術品の収集に使うジャン・ポール・ゲティ(プラマー)は資本主義の怪物だ。もっとも、彼がチャーリーに無関心というのならまだ納得もできるが「私は孫を愛している」という言葉が繰り返されるのである。
「だが、いちど身代金を払えばまた誘拐されるし、そもそも生きて帰ってくる保障もない。金の無駄だ!」
そう言って誘拐事件になど目もくれず石油事業に精を出して金を生み続け、時間があればクレーン射撃や美術品鑑賞を楽しむのだ。不気味なほど矛盾している。
「身代金を払えばまた誘拐される」というのはタテマエで、実のところゲティという男は1ドルたりとも身銭を切りたくないハイパー吝嗇家なのである。
「変わらぬ美しさを保持し続ける美術品だけは自分を裏切らない」という強固な価値観を持つからこそ、ただの紙切れに過ぎない金を本物(美術品)に換えることで究極の富を築き上げる。そのためには身代金を払ったところで生きて帰ってくる保障などないチャーリーを愛しながら見捨てるしかない。
この、一見するとまるで理解できないバケモノをクリストファー・プラマーが豊かに体現しており、共感はできないが理解はできるというところまで引き上げている。
『サウンド・オブ・ミュージック』(65年)のトラップ大佐でお馴染みの大御所クリストファー・プラマー。
したがって母親のミシェル・ウィリアムズが元CIAのマーク・ウォールバーグ(通称マー公)の協力を得て息子奪回に奔走するわけだが、彼女が戦う相手は誘拐犯でもメディアでもなく義父のプラマーである。
リドリー・スコットの諸作品に見られる神と平民の対立構図を挙げるまでもなく、またしても創造神話的な世界観がベースになった本作では、チャーリーとプラマーをイエスに洗礼を授けたヨハネの関係性に落とし込んでいる。ミシェルはチャーリーに対しては聖母マリアとして、そしてプラマーに対してはヨハネの首を望んだサロメとして描かれるのだ。
それにしても、この母親は踏んだり蹴ったりだ。息子を誘拐され、義父に身代金の支払いを拒否され、メディアから追いかけ回されて、憔悴しながら独力で金を工面する…。なまじそれを演じているのが公私に渡る薄幸女優のミシェル・ウィリアムズなのでなおさら不憫である。
ちなみにミシェルが本作の再撮影料に800ドルのギャラしか受け取っていないことが発覚したことでTime's Up運動*1が加速した。
また、ミシェルがゲットした800ドルと、ギャラを吊り上げて150万ドルをゲットしたマー公との収入差は実に1000倍以上。批判を浴びてバツが悪くなったマー公は全額寄付したが、それでも批判を浴び続けた。マー公は頭にきて自宅の壁を殴った。
ミシェル(左)とマー公(右)。
◆真の金の亡者は誰なのか?◆
さて。天下万民から巨匠と呼ばれているリドリー・スコットの最新作は「またか」という感じだ。
時制があちこちに飛んだり、おかしなモノクロ映像が時おり顔を覗かせるファーストシーンから早くもげんなりしつつ、それでもクリストファー・プラマーの貌がとてもよかったのでほとんどその一点のみを心の支えに前半部分はどうにか乗りきった。
ファーストシーンで披瀝される『甘い生活』(60年)への目配せや、プラマーの人物造形に『市民ケーン』(41年)を借景するといったシネフィルへのもてなしには余念がないのでコアな映画好きほど本作を高く評価するだろう。
たとえミシェルがプラマー邸に送りつけた1000部の新聞が風に飛ばされるショットが『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』(17年)と比べるまでもなくダイナミズムを欠いていても、チャーリーの捜索とプラマーの邸内徘徊をカットバックするクライマックスがモンタージュとして致命的に失敗していたとしても、あの「格調高い映像」が持続する限りにおいてリドスコは評価され続けるのである。
もちろん「格調高い映像」というのは括弧つきの表現なのだが。
また、ゲティ家を中心とした一連の誘拐事件の中に明らかに異物として放り込まれたマー公ただ一人が部外者という特権的なキャラクターにも関わらず、彼の視点を通してゲティ家の異常性が描かれてゆくといった正統な手順はリドスコ的怠慢と呼ぶほかない身振りでスキップされてしまう。
したがってこの映画のマー公は居ても居なくてもいい無用の長物として、あの不安げなゴリラ顔を終始スクリーンの端に振りまくことになる。
私はマーク・ウォールバーグの軽いファンなのでこの明らかな瑕疵すら楽しんでしまえるのだが、まさか『パトリオット・デイ』(16年)に続いてまたしてもマー公が持て余されることになるとは。本当に居ても居なくてもいいようなキャラだから…。
それなのに再撮影時には高額ギャラを吹っかけて150万ドルもむしり取ってゆくという怪しい手つき!
金の亡者はジャン・ポール・ゲティではなくマー公だったというオチさ。
もっとも、マー公の人間性が腐りきっていることなど周知の事実なのだから、べつに目くじらを立てて非難することもあるまいに。「金の亡者はおまえかよ!」といって全米総ツッコミをすればきっと素晴らしいコントになったはずだ。
デビュー前は人のアゴを砕いたり木の棒で殴りつけるなどして何度も逮捕された札付きの暴力魔人。『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(01年)の主演に抜擢されたがなぜか人間役。どう考えても猿役だろ!
◆味のしないオートミール◆
疲れてきたので少し早いが締めに向かう。
リドスコの評はいつも筆が進まないのだが、今回は特にそうだ。
この巨匠さんに毎度悪口を言い続けながらも『マッチスティック・メン』(03年)はリドスコの最高傑作に挙げたいほど好きな映画だし、近作だと『悪の法則』(13年)もなかなかクレイジーでよかった。『ブラック・レイン』(89年)や『テルマ&ルイーズ』(91年)は見事なまでの凡作だがなんとなく好きになってしまう映画である。
だが今回の『ゲティ家の身代金』は後半で完全に飽きちゃったわ。これ以上観続けてもたぶん何もないだろうな…と思いながら観続けて、やっぱり何もなかったので「やっぱり何もないんかい」と思った。最後まで手品をしないマジシャンみたいな。
あ、いま分かったかも。私がこの作品にえらく冷めてるのも、今回の評がやけに短文で元気がないのも、多分こういうことだと思う。
この作品には色々なものが「無い」のだ。
本作は非常に少ない要素だけが無機的に配置されており、映画の情感や生命力と呼ぶべきものがない。テクニックもなければサービス精神もない。
「足りない」のではなく「もともと無い」のである。
フィルムから伝わってくるのはリドスコの無感動とポヤポヤとした午睡感覚だけで、まるで味のしないオートミールを黙々と咀嚼しているような、きわめて事務的な133分がダラっと過ぎていく。
それはケヴィン・スペイシーの降板劇を受けて突貫工事で撮り直したことが原因なのだろうか。違うのではないだろうか。これがリドスコの素質であり、その素質が図らずも蛇口全開で出てしまったのが『ゲティ家の身代金』なのではないだろうか。
もしイーストウッドが撮っていたら相当大化けした題材ではないだろうかっ。
金にがめつい男二人。
*1:Time's Up運動…ハリウッドにおけるハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題や男女間の賃金格差に異を唱えるという騒ぎ。