シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ

ロリコンおばさんが初めて「女」を撮ったけど…。

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2017年。ソフィア・コッポラ監督。コリン・ファレルニコール・キッドマンキルスティン・ダンストエル・ファニング

 

南北戦争下のアメリカ南部。世間から隔絶された女子寄宿学園で生活している園長や生徒ら女性7人は、怪我を負った北軍の兵士と遭遇する。敵方ではあるが、彼女たちは彼を屋敷に運んで介抱する。次第に園長をはじめ学園の女性たちは容姿端麗で紳士的な彼の虜になってしまう。

 

おはようございます。元気100パーセント坊ちゃんです。

昨日の『オーメン』評の中でふかづめさんを刺殺してしまったので、これからは私がふかづめさんになり代わってこのブログを運営していく所存でありますれば、何卒ご理解ご協力のほどお願い申し上げます。

私はふかづめさんの脳内で生み出された、いわば分身みたいなものですので、映画の見方や文章のクセなどはほぼ完璧に熟知しております。「ふかづめさんならきっとこう書くだろうな」ということを想像しながらレビューを書いていくので、これまでとまったく変わらない文章をお送りしていけると思います。

なお私のことは「ふかづめ」 と呼んでくださいね。中身は元気100パーセント坊ちゃんですけど、ふかづめさんになりきっているという体なので。

というわけで本日はThe Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめを元気100パーセントで斬っていきますよ!

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◆ガーリーカルチャーの旗手 ソフィッポラ◆

ずいぶん前だが、とんぬらさんから「ソフィア・コッポラについて論じるぬら」というリクエストを頂いていたような気がするので、序論という形にはなるけどお応えしようと思うぬら。


ゴッドファーザー(72年)地獄の黙示録(79年)でお馴染みのフランシス・フォード・コッポラを父に持つ二世女流監督、ソフィア・コッポラ。面倒くさいからソフィッポラと呼ばせて頂く。

もともとは女優だったが、パパッポラのコネで出演したゴッドファーザー PARTⅢ』(90年)ゴールデンラズベリー賞(最低助演女優賞)と最低新人賞をW受賞してしまい女優業からは早期撤退。のちに監督業に転向してヴァージン・スーサイズ(99年)ロスト・イン・トランスレーション(03年)で一躍おしゃれ映画の旗手となる。


ソフィッポラといえば、傷つきやすい十代女子の心の揺らぎ(笑)をポエムのように綴ることにかけては他の追随をあまり許さない幼女趣味のおばさん。

とりわけ喪失感やコミュニケーション不全を主題とする、リリカルかつエンプティー自己陶酔型の雰囲気系オシャレ映画のトレンドリーダーとして、たとえば一眼レフぶら下げて猫とか空とか無意味に撮ってる大学生や、伊達メガネをかけてSuchmosとか聴いてるボブヘアの女、すなわちサブカル系と呼ばれる人種から熱狂的な支持を集めている。

テレンス・マリックハーモニー・コリン岩井俊二新海誠このラインの人です。

良くいえば夢想家、悪くいえば甘ったれと言える。

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ソフィッポラ(左)と、彼女が手掛けた作品たち(右)。

 

そんなわけで長らく大嫌いな監督で『SOMEWHERE』(10年)などクソミソに貶したのだが、本作のひとつ前に撮った『ブリングリング』(13年)でコロッと評価が覆ったのでありました。

バカ女どもがセレブの豪邸に侵入して服や宝石をかっぱらった事件を映画化した『ブリングリング』には、私がソフィッポラを嫌う最たる理由の少女たちを庇護・承認するカメラの眼差しがなく、むしろバカ女どもを軽蔑の眼差しで意地悪くルポルタージュしている。

ソフィッポラが女優に向ける眼差しはいつもアコースティックギターのように温かいが、『ブリングリング』だけはエレキギターのように冷たくて鋭い。ガーリーカルチャーの旗手であり、少女とあらば無条件で甘やかせてきたソフィッポラが、はじめてガーリーを突き放して悪意たっぷりに描いたパンク精神溢れる快作だ。

たとえば西野カナとかback numberが急に社会風刺の曲を出せば、われわれは「おっ」と思うわけだ。「恋愛以外のことも歌えたんだ」という妙な感心である。

それです。

ソフィッポラの『ブリングリング』はまさにそれ。さんざん甘やかせてきた少女を思いきり突き放すというハシゴの外しっぷりが実に痛快なのだ。映像的にも真逆の手法を採っていて「こんな引き出しもあったのね」と。これはきちんと再評価せねばなるまい、つって首を絞めたい監督リストからソフィッポラの名を削除した次第。今さら大きな声では言えないけどロスト・イン・トランスレーションはわりと好きだしね。

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繊細なタッチで少女を撮ってきたソフィッポラが品性下劣なバカ女にカメラを向けた『ブリングリング』エマ・ワトソン(左)がハーマイオニーのイメージから脱却するためにDQN女を好演。


◆女性視点から語り直したリメイク◆

さて、ようやく本題。

『ブリングリング』以来4年ぶりとなるソフィッポラの新作The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめを論じるにあたって、まず己に制約を設けようと思う。

本作はドン・シーゲルの後期傑作『白い肌の異常な夜』(71年)のリメイクに当たるわけだが、それと比べるのはいくらなんでも気の毒なので比較論は封印します。

ダーティハリー(71年)は無論、『殺人者たち』(64年)『突破口!』(73年)を観ている人なら察して頂けるだろうけど、ドン・シーゲルとソフィッポラではまるで勝負にならないから比較する必要すらないのである。決してソフィッポラを悪く言っているわけではない。ドン・シーゲルが段違いに凄すぎるのだ。むしろ「よくリメイクしようなんて思ったな」といってソフィッポラの豪胆ぶりを讃えたいぐらいだ。

だから当然、それぞれの映画で主役を演じたコリン・ファレルクリント・イーストウッドを比べることもしない。

だいたい、八の字眉毛と真一文字眉毛を比べることに何の意味があるというのか。

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ちなみに『白い肌の異常な夜』は私の生涯ベスト映画の29位。つまり相当好きな映画です。

 

『白い肌の異常な夜』ではイーストウッド演じる瀕死の北軍兵士が女学院に匿われ、この男をめぐって愛憎劇を演じる女たちの恐ろしさが男性視点から描かれる。

対して『ビガイルド』では、やはり瀕死の北軍兵士に扮したコリン・ファレルが女学院に匿われることになるのだが、彼に惚れた女たちの牽制、抜け駆け、足の引っ張り合いといった「女同士のバトル」が女性視点から描かれている。

…あ、ちょっと待って。やってもうた!

「比較論は封印します」と言った端から堂々と比較してしまっている。

信頼をうしなった。

フゥ~~!

ともあれ、本作には『白い肌の異常な夜』真逆の視点から語り直すという試みがあって、それができるのはガールズムービーの旗手たるソフィッポラだけ。そういう意味では面目躍如というか、ソフィッポラが手掛けることの必然性に裏打ちされております。


◆「少女」から「女」へ◆

バージニア州の人里離れた森の奥でキノコ拾いの少女がぽてぽてと歩いている。

このファーストシーンを構成する3つのショットがめっぽう素晴らしい。靄がかかった幽玄な森には、まるでわれわれをお伽噺の世界にいざなうかのような妖しい気配がみなぎっている(『エコール』をパクった可能性はかなり高いが)。

実際、『白い肌の異常な夜』の主題を担っていた黒人奴隷の存在が『ビガイルド』では排除されていることから分かるように、この作品はお伽噺=ファンタジーなのだ。

南北戦争のさなかに南部の女学院に担ぎ込まれた北軍伍長(死にかけ)が、女たちの警戒心を解いて一人ひとりと蜜月を過ごし、すっかりその気にさせられた女たちが彼をめぐって水面下の恋愛戦争をおこなう。

はっきり言って、やってることが合コンにおける女同士の駆け引きと同じ次元なので、これは端的にファンタジーだろう。ファンタジーとは実社会で起きていることを別のなにかに例えるという置換装置なので。

だから当然、『白い肌の異常な夜』における人種差別やミソジニーといったサブテキストは驚くべき呆気のなさで廃棄されることになる。ソフィッポラは相も変わらず女だらけの学園で女性視点から女を撮りまくっているのだ。潔い。


先ほどから私が「女」という言葉を使い始めていることにお気づきでしょうか。

最初の章では「少女」という言葉を連発していたように、ソフィッポラという監督は十代女子に(涎を垂らしながら)カメラを向ける幼女趣味のおばさんなのだが、『ブリングリング』では非行に走る少女たちを手厳しく指弾し、ついに本作では「少女」ではなく「女」を撮りはじめた。ここが本作のポイントになってきます。

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女学院の校長 ニコール・キッドマン(画像上)

教師 キルスティン・ダンスト(左下)

生徒の一人 エル・ファニング(右下)


女の園で暮らしていた三世代の女性が、ある日突然現れたファレ坊によって「女」に変わる。いみじくも「欲望のめざめ」という副題が表しているように、彼女たちは性に目覚め始めるのだ。それによって調和を保っていた女性コミュニティは互いに対立し、女の園は崩壊の危機を迎える…。

「女同士の友情なんて男が絡んだ途端にあっさり壊れるのよ」と誰かが言っていたが、まさにそれをやっているのが本作で。だけど最終的には女対男という図式が出来あがり、再び結託した女たちが「キノコ」を使ってファレ坊を排除しようとする。ここがおもしろい。

今回のソフィッポラは少女から女へと覚醒するものの、やはり処女性からは脱却できないようだ。ファレ坊に夜這いをかけられたエルたんは一線を超える寸前にキルスティン・ダンストに見つかって修羅場を迎えているし、『ブリングリング』でも男の影は認められない。そもそもソフィッポラがセックスを撮ったことは一度もない。というか撮れない。

ソフィッポラ的女性群はクリーンに殺菌された世界で純粋培養されることでしかソフィッポラ的女性たり得ないのだ。

要するに本作は処女性が脅かされる瞬間というか、もっと平易な表現を用いれば初恋のドキドキ感をこそ切り取った、きわめてソフィッポラらしいウブな主題にブッ貫かれた作品である。男女の機微とかセックスといったいささか世俗的な主題は静かに黙殺されているので、小さなお子さんの鑑賞にも堪えうる作品となっております。

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女性陣の輪の中にちゃっかり参加してるファレ坊。

 

◆ソフィッポラとは思えないほど女優の撮り方がひどい◆

とはいえ、手放しで称賛するわけにはいきません。

序論で「雰囲気系」だの「オシャレ映画」だのと言ったように、ソフィッポラはサスペンスやストーリーテリングでぐいぐい見せるタイプではないのでサスペンスやストーリーテリングでぐいぐい見せねばならないこの題材とはすこぶる噛み合わせが悪い。

特に本作の場合はお世辞にも広いとは言えない学園(というより屋敷)内を主舞台とした密室劇で、これは「雰囲気」でごまかせるものではなく。むしろ監督の地の力が最もつまびらかになる舞台を選んでいて、そこで派手に玉砕してしまっている。

 

画的な退屈さ、構図=逆構図の単調さ、静的に過ぎる人物(ファレ坊は基本的にベッドに寝たきり)。窓から射した自然光は女優陣の貌を彩ることなく、扉の開閉がサスペンスに活かされることもない。

そもそも全体的にローキーすぎて観づれぇ。

画面 暗ぇ。

女たちの心理的なドラマも、ファレ坊の極端な人物造形も、あまりに図式的かつ無配慮。本来なら94分というタイトな上映時間は褒めるべきなのだろうが、ここまで踏み込み不足だと話は別。もっと時間を取って丹念に描き込むべきだったのでは。

何より、この作品の最重要モチーフにしてラストシーンを飾る門に結ばれた青い布。これがまったく撮れてない。たぶん観た人全員が「なに、このきったねえ布」と思ったはずだ。くすんでるしね、色も。


女優をお人形さんのように美しく撮ることに定評のあるソフィッポラにしては女優陣の見せ方も大幅に後退している。かなり大幅に後退している。

アップショットを忌避するあまり顔が見えない。見えたとしてもローキー&影が多い室内シーンばかりなのでロクに表情が見えない。見えたとしてもキルスティン・ダンストのオバハン化がすごい。

K・ダンストはヴァージン・スーサイズという処女作を成功に導いたのでソフィッポラにとっては恩人というか盟友みたいな存在なのだが、近年のソフィッポラは(この映画で唯一かわいく撮れている)エルたんに絶賛ゾッコン中なのでK・ダンストへの無関心ぶりが露骨に出てしまっている。

はっきり言って里芋にしか見えないわけだ。

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これはひどいいくらなんでもこんな撮り方はないでしょう。

 

ただしコリン・ファレルはめちゃめちゃ綺麗に撮れているので、ウチの妹とGさんだけが得をすることだろう(どちらもコリン・ファンレル)。

このように、ソフィッポラが誰を贔屓してるかが一目で分かるという趣味丸出し映画でした。キッドマンの貌もなかなかひどい。

とにかくK・ダンストとキッドマンが不当な扱いを受けているので『現代女優十選』でキッドマンを3位に選んだ私は大いに憤慨した。やっぱりソフィッポラってオバサンには興味ないのね。

また評価が覆って嫌いになりそう…。

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 コリン星のファレ坊。