シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

霧の波止場

悪党がいっぱいビンタされてよく泣く映画。

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1938年。マルセル・カルネ監督。ジャン・ギャバンミシェル・モルガンミシェル・シモン

 

人生に嫌気がさし自暴自棄になっていた脱走兵のジャンは、夜道を歩いて港町ル・アーブルを目指していた。途中、トラックの運転手と仲良くなり、そのトラックに乗せてもらう。ル・アーブルの酒場に辿り着いたジャンはそこでミシェルと呼ばれる画家に出会う。人生の不平不満を打ち明けたジャンはさらにそこでネリーという美しい女性と出会い、少し生きる希望のようなものを抱き始める。しかし、ジャンの目の前でミシェルは所持品を残し、入水自殺してしまう。ミシェルの所持品を貰い受けたジャンは画家となりミシェルのパスポートでベネズエラ行きの手はずを整える。全ての人生をやり直すべく旅立とうとするジャンであったが…。(Amazonより)

 

おはようございます。おはようございますとしか言いようがないほど、朝です。

さて12月です。12月としか言いようがないほど12月が始まったわけですが、今月は観たい映画を観て 語りたいように語るというわがままを貫く所存なので、これまで取り上げなかった古典映画もチラホラと取り上げていきたいと思っています。よろしくお願いします。「白黒映画は苦手」とかいう甘ったれは滝に行って打たれてこい。カラーにしがみつくな。

それはそうと、皆さんが睡眠中に見ている夢はカラーですか、モノクロですか?

 この質問はたまに人から訊かれる極めてどうでもいい質問ランキング第8位で、私もごく稀に人から訊かれるのだけど、自分でもよくわからないんですよね。カラーの気もするし、モノクロのような気もする。というか見た夢をほぼ覚えていない。

私は映画を観ることで夢を補っているので、睡眠中にまで夢を見る必要がないのです。

あっ、素敵!

今の発言、かなり素敵じゃなかった? そうでもなかった?

そうでもなかったか。

こなくそ――っ!

最近「こなくそー」って言葉にハマってるんです。隙あらば使っていきたい。

というわけで本日は『霧の波止場』。「こなくそー」は出るのでしょうか。

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◆詩的リアリズムの代表作◆

いまから80年前の映画を取り上げた時点でいつもなら読んでくれている読者が一定数まで自然淘汰されるだろうし、先月におこなった「戦後日本映画特集」のように古めかしい映画をどうにか知ってもらおうとしていささかのサービス精神を発露した文章を書くつもりも今回は特にないので、皆さんにおかれましては「ああ、今日はハズレだな」と思ってひそやかに画面を閉じていただけたらと思います。私は、皆さんがスーッと離れていっただだっ広い映画の僻地から独り言のようにこの映画に想いを馳せておりますので。


さて。マルセル・カルネと聞いて人が思い出すのはフランス映画史上に残る名作といわれる天井桟敷の人々』(45年)だが、これはよそ行きの作品というか表向きの代表作であって、カルネの真の傑作こそがこの『霧の波止場』だと勝手に確信している。

1930年代のフランス映画は詩的リアリズムと呼ばれていて、パリを舞台にしたニヒリスティックで暗い映画という性格を持っている。

カルネは詩的リアリズムの旗手で、本作以外にも『北ホテル』(38年)『陽は昇る』(39年)といった作品がこれにあたり、またジャン・ルノワールゲームの規則(39年)とかジャック・フェデーの『女だけの都』(35年)も詩的リアリズムの代表作である。

…と、ここまで書いて、早くも文章に漂うお勉強感に皆さまの顔面が引き攣ってきたことがひしひしと伝わるが、顧みることはしない。

とはいえ本作は甘美なロマンス映画なので、たとえばカップルや夫婦でご覧頂いてもそれなりにいい雰囲気を作ってくれるほどには役に立つ映画であるから、まぁそう警戒はするな(ただしレイチェル・マクアダムスの映画を見て心拍数を上げるような乙女たちの目にはただ退屈な映画にしか映らないだろうが)


主演はジャン・ギャバン

「映画男優TOP50」みたいなランキングではしょっちゅう1位に輝くほど世界中で絶大な人気を得たフランスの大スターで、一般的にはカルネの大いなる幻影(37年)ジャック・ベッケル現金に手を出すな(54年)で知られている。

昔の映画雑誌などを読むにつけ「ギャバンに憧れない男はオカマ野郎だ」という風潮があったように思うのだが、私はギャバンと聞いて心震えるタイプではなく、好みで言ってもハンフリー・ボガートみたいに喧嘩の弱そうなスターばかり好きになってしまうので、まぁ、私はオカマ野郎ということになるのだろう。くやしい。


そんな不肖オカマ野郎が心惹かれたのがヒロイン演じるミシェル・モルガン

寡聞にしてキャロル・リード『落ちた偶像』(48年)以外にすぐ思い出せないし、 2016年の年の瀬に96歳の若さで他界したことも知らなかったので、無論、本作でギャバンの相手役としてポロッと登場したときも「だれ?」などと思ってハナを垂らしていたわけだ。

このミシェル・モルガンが実に艶やかな女なのだが、なんと撮影当時18歳で、劇中では17歳という設定になっている。「そんなわけナイアガラ」と言って小さく震えるのみである。

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ジャン・ギャバンミシェル・モルガン(モルガンは当時17歳)。

 

◆犬と泣き虫ピエール◆

『霧の波止場』は、ギャングにいけずをされているモルガンと脱走兵のギャバンル・アーヴルの港町でめくるめくロマンスに溺れ、面倒なことが起こるまえにブラジルに高跳びしようとする愛の逃避行前夜を描いた内容だ。

だが、この映画のおもしろさは主演カップルのベトベトした愛の交感ではなく、むしろそれとは何の関係もないところでおおらかに描かれる周辺人物の魅力に尽きよう。


まず犬がいい。

ファーストシーンでギャバンヒッチハイクしたトラックが道に飛び出した犬を轢きそうになって、思わずギャバンが運転手のハンドルを奪って急カーブする。これによって犬は事なきを得るのだが、怒った運転手が「たかが犬のためにオレを殺す気か!」と言ってギャバンに抗議すると、ギャバンギャバンで血の気が多いので「決着をつけてやる」などとよくわからないことを言ってトラックの前で喧嘩をはじめてしまう。

なぜすぐに決着をつけようとするのか。

この一件以来、命を救われた犬はドラクエみたいにギャバンに追従し、愛らしく吠えてみせたり、たくましく尻尾を振ったりする。はじめこそ犬に向かって石を投げていたギャバンもやがて諦め、「あなたの犬なの?」とモルガンに問われて「そうだ」と答えるまでに信頼関係を築いていくのだ。

「本物の映画」に犬が出てくる以上はなんらかの演出装置としての役割を持っているわけで、この犬も例に漏れず「あるシーン」の効果を最大限に引き出すための切り札としてラストシーンに裨益することになるのだが、それを語ってしまうとネタバレに直結するので、ぜひ皆さんの目で確かめていただきたいと思います。

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やせっぽっちの犬。空腹だがギャバンがパンをくれるまでじっと待っている。実にいじらしい。


このほかにも、モルガンの父親がイカついぐらい利己的だったり、逃亡中のギャバンに自分の服とパスポートを与えてあっさり自殺してしまう画家だったりと魅力的な脇役がたくさん出てくるのだが、なんといってもギャングのピエール・ブラッスールである。

意中のモルガンがギャバンと結ばれたことに嫉妬してギャバンに突っかかるのだが、いともあっさり往復ビンタを喰らって泣き出してしまう。空前絶後の弱さ。泣くなよ。

ギャバンに「二度と姿を見せるな」と脅し文句を言われたピエールは、べつに腫れてもいない頬を押さえながら一目散に逃げていく。泣きながら。本当にギャングなのだろうか?

また、ピエールが遊園地でゴーゴー言いながらゴーカートを楽しんでいると、またしてもギャバンとモルガンのカップルに出くわしてしまい「二度と姿を見せるなと警告したはずだ!」と言ったギャバンからまたぞろ往復ビンタを喰らって泣く。

泣くなよ。

だが今回に関してはピエールは何も悪いことをしておらず、ただ少年の気分でゴーカートを楽しんでいただけなのに、この仕打ち。

ギャングにも関わらず遊園地で遊びほうけ、しかも無邪気にゴーカートを乗り回すあたり、どうも私の目にはピエールが悪い人間とは思えない。

だが、ビンタされて泣くようなオカマ野郎のピエールが、ついにギャバンに復讐を誓ったことから、物語は一気に悲劇めいた雰囲気を醸していく…。

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屈強なギャバンを前にビビるピエール。このあと往復ビンタされて泣く。


◆セットの意匠◆

さて。人がマルセル・カルネを観てどこに感動するのかといえば、これは当然パリのセットに感動するわけだ。

天井桟敷の人々』ではオープンセットでタンプル通りを再現し、『北ホテル』にしても贋物のサン・マルタン運河と陸橋を作っており、現地に行って実物を使ったのでは決して実現しないクレーン撮影を可能にした。

1930年代のフランス映画はいかにしてスタジオの中にパリを出現させるかという命題に取り組んでいたわけで、ことに美術監督アレクサンドル・トローネルがひとつの伝統的達成を示したことで詩的リアリズムは豊穣をきわめた。だからこそゴダール勝手にしやがれ(59年)で本物のシャンデリゼ通りを生々しく捉えたことが衝撃の事件として記憶されているのである。


スタジオ撮影とロケーション撮影とでは何から何まで違ってくるから、これはもうほとんど趣味の問題として各々の観客が好きに語ってしまっていいと思うのだが、スタジオ撮影の優位性は景色を誇張できるということだけ言い添えておく。

『北ホテル』では実際よりも勾配をつけた家並みが確認できるし、天井桟敷の人々』では街を4分の3逆光で撮るという、ちょっと普通では考えられないことをしている。

本作でも、たとえばギャバンとモルガンが窓辺に佇むショットでは、背の揃わないモルガンの顔がちゃんと見えるように向かって右側だけが一枚ガラスになっている。こういうところに美術監督の達意が息づいているわけだ。

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また、ル・アーブル全域を覆うしつこいほどの濃霧もスタジオ撮影ならではの雰囲気豊かな画調を作りあげているし、夜の艶めかしさを出すために路面に水をまくのは当たり前として、その水の反射を際立たせるためにわざわざ石畳まで敷きつめるという手の込みように「微に入り細を穿つ!」と絶叫しながらの祝福。

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スタジオ撮影とは思えないような艶めかしい美術と、豊かなショット。


セットの奥深さはまだまだこんなものでは済まないのだが、書いてる私が若干飽きてきたのでこの辺でよそうと思う。

とにかく『霧の波止場』という映画は、ほとんど偏執狂に近い映画人とすばらしい名優二人が集まった、決してユーモアを忘れない悲劇のロマンスなのだ。

すでにパブリックドメインの作品なので、これほどの傑作がわずか500円でゲットできます。映画的環境からいえば今の時代に生きるわれわれは不幸そのものだが、そんなわれわれに確保しうる優位性がひとつだけあるとすれば、古典映画の豊かな鉱脈をワンコインで掘り起こせることにほかならねえ。

だけど、こないだ『フランス映画 名作コレクション』という10枚組1800円のDVD-BOXを観ていたらラスト5分前で映像が止まるという憂き目に遭った。

こなくそ――っ!

結論、安かろう悪かろう。安いものは信用しない方がいい。