策成らず、されどニコニコ。魔法少女モノはここから始まった!
1942年。ルネ・クレール監督。ヴェロニカ・レイク、フレドリック・マーチ、セシル・ケラウェイ。
その昔、17世紀のアメリカで火刑にされ死んだはずの魔法使いの父娘が、自分たちを捕らえた男の一族に呪いを掛ける…。そして現代のアメリカ、先祖代々ウォーリー家では魔女に祟られて来た。当主ウォレス・ウォーリーは州知事選挙に打って出ようとする新進政治家、新聞社長の娘エステルと婚約の間柄だったが、魔女ジェニファーは父ダニエルの命令で彼に魔法をかけるため、箒にまたがって彼に近づいた。ウォレスとエステルの結婚式当日、ジェニファーはウォレスに飲ませようとした「 惚れ薬」をふとしたことから逆に自分が飲む羽目に陥り、たちまち彼女は彼に恋してしまった…。(Amazonより)
おはようございます。
本日は皆さんが大好きなモノクロ映画でございますよ。『奥様は魔女』についてペロッと語っていきたいと思いますねや。
これは1942年の作品なので、ついこないだですね。昨日のことのようにありありと思い出されます。
ちなみにこの当時に生まれた人がいま何歳なのかというと、76歳なわけです。76歳といえばまだまだ尻の青いガキ。右も左も判らぬ半可通。それどころか未だ孵化せぬウズラの卵。人生これからといったところでしょう。締まっていこう!
◆魔法少女モノの走り◆
『巴里の屋根の下』(30年)で知られるルネ・クレールがしょんぼりしながらフランスから渡米してハリウッドで撮った作品が『奥様は魔女』だ。何故しょんぼりしながら渡米したのかといえば、ナチに故郷を焼き払われたからだ。そりゃ、しょんぼりするだろう。
ルネ・クレールといえば詩的リアリズムの巨匠だが、ここでは郷に入っては郷に従えということでコテコテのアメリカ映画を撮っている。
1964年から72年にかけて放送されたテレビドラマ『奥さまは魔女』の原点であり、2004年には米倉涼子の主演で日本版『奥さまは魔女』が放送された。また2005年にニコール・キッドマン主演で映画化もされているので馴染みのある人も多いのでは。
ドラマ化されたり映画化されたりと大忙しの『奥様は魔女』。
なぜこれほどドラマ化や映画化が繰り返されるのかといえば、本作がいわゆる魔法少女モノの走りだったからだろう。
直截的な影響下にある『魔法使いサリー』や『ひみつのアッコちゃん』で我が国にもアニメを中心に魔法少女文化が浸透し、そのあとも魔法は消えることなく『美少女戦士セーラームーン』や『赤ずきんチャチャ』へと受け継がれ、とりわけクールジャパンに賑わう10年代では『魔法少女まどか☆マギカ』が社会現象になったことで魔法少女アニメが爆発的に急増した。個人的には世代ど真ん中なので『おジャ魔女どれみ』に一票を投じるものである!
故郷をナチスに攻められてアメリカに渡ったルネ・クレールがそこで撮った一本の映画は、現在に至るまで世界のポップカルチャーに影響を与え続けている。
えらいことである。
◆ルネ・クレールの手腕がすげえ◆
本作は、17世紀にセイラム魔女裁判で焼き殺された魔法使いの父娘が200年後に目覚め、自分たちを告発した奴の子孫である男に筋違いの復讐を企てる。彼には婚約者がいたが、魔女の娘は二人の結婚をぐちゃぐちゃにするために媚薬を飲ませて男を惚れさせようとするのだがミスって自分が飲んでしまう…という、人を食った内容である。
ところがこれが滅法おもしろい。
洗練された演出と気の利いたジョークが心地よく跳ねていて、すべてはわずか77分のうちに終わってしまう。映画の魔法が解けるころには既にエンドクレジットを迎えているというわけだ。
名匠と呼びうる映画の達人が短い映画を撮るとどうなるか…というのは、ベルイマンの『野いちご』(57年)とかスピルバーグの『激突!』(71年)を観ていればわかるように、まぁエグいことになるわけである。
名匠というのは必要なシーンを必要と思わせないように撮ることのできる人たちのことであって、そういう人たちはさり気なく要点だけを押さえて引き締まった映画を撮ってらっしゃるでな。
たとえばこの映画の場合、200年の封印から解き放たれて復讐相手の男に近づいた父娘は、姿を隠すために煙になって酒瓶の中に入ってしまい、パーティー会場をうろつく男を尾行するために周囲の人間の心を操って酒瓶の置かれたトレイを男の近くまで運ばせる。煙と化した父娘が身を隠す酒瓶の近くで、男は自分が州知事選挙を控えていることや婚約者のわがままに振り回されているといった身の上話をはじめる。
この導部部は男と父娘のキャラクターを同時並行で示すだけでなく、やがて荒れ狂う父を酒瓶のなかに閉じ込めるラストシーンへの布石にもなっていて、おまけに画面の構図までそっくりそのまま反復するといった多機能を搭載しているわけだ。わかるか。
ひとつのシーンが二重三重に意味を持ち、他のシーンと有機的に結びつきながらグイグイと物語を引っ張っていく。
そうした経済的説話技法は20年代のハリウッドで確立されたが、それ以上の手腕をフランス人のルネ・クレールが発揮しているのだからぶったまげてしまうでな。
誰とは言わないが、バカな監督が110分も120分もかけてダラダラ撮った肥満体質のロマンティック・コメディとはえらい違いだ。
ちなみに2005年のリメイク版『奥さまは魔女』を手掛けたノーラ・エフロンは決してバカな監督ではないので、「ニコール・キッドマン萌え」という一点狙いのコンセプトで比較的タイトにまとめあげてはいるが、残念なことに内容はまったく以てつまらない。相手役にウィル・フェレルなどという百姓ゴリラを使ったことで擁護しがたいほどマヌケな映画になってしまったのだ。心をこめて合掌。
『奥さまは魔女』のニコール・キッドマン。鼻をヒクヒクさせるシーンを唯一の見所として映画史の藻屑と化した。
◆魔性のレイク◆
ちょっとカタい話になりかけているので、役者の話でもしながら反省しようと思います。
謂れのない復讐を受ける男をフレドリック・マーチが演じている。
このなかなかハンサムな男は『スタア誕生』(37年)とか『我等の生涯の最良の年』(46年)などでずいぶん活躍した名優なのだが、個人的にはマジでどうでもいいし、さっさと次に移りたいので早々に切り上げる。
画像左で怖い顔をしているのがフレドリック・マーチ。
さぁ、やって参りました。ヒロインを務めますはヴェロニカ・レイク。ヴェロニカ・レイクのご登場であります。
プラチナ・ブロンドの髪をここぞとばかりに靡かせてフレドリックを誘惑し、彼の結婚をぐちゃぐちゃにしようと企む悪女を演じているが、飲ませるはずの媚薬を自分が飲んでしまったことでそれはそれは一途な乙女に早変わり!
彼女はファム・ファタールの名女優として知られており、『L.A.コンフィデンシャル』(97年)ではキム・ベイシンガーが彼女にそっくりの娼婦を演じたことも話題になった。
『L.A.コンフィデンシャル』のベイシンガー。
ところが本作ではファム・ファタールというより甘え上手な小悪魔という役回りである。私にとって小悪魔は殺意の対象でしかないのだが、ヴェロニカにはどこか俗っ気を超えた邪悪な品があるのでイラつくことはなかった。
フレドリックの気を引こうとして彼の肩にコテッと頭を乗せてみたり、歩けないふりをして抱きかかえられたりと小悪魔的策略の限りを尽くしては「その手には乗らん」と冷たく突き放されてしまうが、べつだん悔しさを感じるでもなく「あら。これじゃダメかしら?」なんつってニコニコしている。
この、策成らず されどニコニコが抜群に愛らしいわけだ。「成ってないのに!?」という。
策が成ってないのにどうしてこの女はニコニコしているのか…ということに考えを巡らせてしまった者はすでに彼女の術中にはまっているといえます。
ちなみにこのヴェロニカ、撮影現場ではたいへんワガママな女優だったようで、共演者からはすこぶる評判が悪く、やがて仕事が減ってアルコール中毒による合併症で50歳で死んでしまうという、まさに小悪魔に相応しい転落人生を歩んでいる。
艶やかなりき、ヴェロニカ嬢。
主人公の婚約者役に『私は死にたくない』(58年)でアカデミー主演女優賞をゲットした嬉しさから「いつ死んでもいい」という名スピーチをしたスーザン・ヘイワードや、『三十四丁目の奇蹟』(47年)のサンタクロース役のオファーを蹴ってしまったことを除けば実に聡明な俳優だったセシル・ケラウェイがヴェロニカの父親を演じている点も追記しておく。誰かのために。
この父親のキャラクターがおもしろくて、はじめこそ娘のヴェロニカと一緒に悪さをしていたのに、彼女がフレドリックに惚れて復讐をやめた途端に娘と対立してフレドリックもろとも消し去ろうとする。最後は煙モードでモクモク漂っているところを酒瓶に閉じ込められてしまうが、瓶の中から不気味な笑い声を発するラストシーンには尾を引く気持ち悪さがあってぞくぞくしちゃう。
『奥様は魔女』はファンタジー要素満載のロマンティック・コメディなので日本のポップカルチャーともきわめて高い親和性を持っている。たいへん観やすい作品なのだ。
映画ファン必見などとやたらなことを言うつもりはないが、小悪魔と呼ばれる女たちは観ておいた方がよいと言えます。きっと何かの役には立つだろうから。