不老ロマンス? いいえ、親子丼サスペンスです。
2015年。リー・トランド・クリーガー監督。ブレイク・ライヴリー、ミキール・ハースマン、ハリソン・フォード。
奇跡的な出来事がきっかけで年を取らなくなってしまったアデライン・ボウマン。100歳を超えているのに29歳の姿のままの彼女の心の支えは愛犬と老いた一人娘フレミングだけ。
偽名を使い、住む場所を変え、友人も作らず孤独に時を過ごしている。そんなアデラインの前にカリスマ的な魅力を持つ青年エリスが現れる。エリスにどんどん惹かれていくアデラインだが、二人の間に秘密と過去の恋が立ちふさがり…。
はい、 おはようございました。
近ごろ歯茎がダメージを負っていて、シャキシャキしたものを食べるとすぐに出血するわけですけれど、まぁ映画評を書く上では特になんの支障もないので、その点だけは褒めてつかわす。歯茎を。
実際、虫歯なんかに罹りますと執筆もままならぬほどの苦しみが襲ってくるので、くれぐれも怪我や病気には気をつけたいところであるよなぁ。
特に手の怪我は死活問題。キーボード叩いてなんぼですからね、私なんて。ボードと名のつくものには片っ端からキーをはめ込んでいきたいとすら考えているよね。サーフボード、スケートボード、遂にはビルボードまで。
何の話をしているのかと言えば、特に何の話もしていないわけです。
本日取り上げるのは『アデライン、100年目の恋』。100年目の恋? うるせえって感じの映画ですけども。まぁ読んでみてください。話はそれからだ。
◆誤解なきよう。これはサスペンスです◆
この映画におもしろさを感じたのは、ヒロインが落雷事故によって歳を取らない身体になってしまい29歳のまま100年近くもの歳月を漂い続けるというストーリーラインではなく、これがロマンスの皮をかぶったサスペンスであるという騙し討ちにほかならない。
冗談で言っているわけではないので、「またまた。ふかちゃんったら!」とか思わないで。
本作は疑う余地なくサスペンス映画なのだが、なぜか世間的にはロマンス映画として迎えられており、セツナ族がせつないせつないと言っては胸をきゅんきゅんさせています。恐ろしい話である。
目の前にサバの炭火焼き定食が置かれたのに、それをスイーツと思い込んで甘い甘いと言いながらフォークで食べているのだから。
29歳のときに雷に打たれたアデラインは、その日を境に老化現象が止まってしまい、100歳を過ぎた現在でも当時の美貌をキープしている。若い女性観客にとってアデラインは憧れの的であり、中年主婦にとっては嫉みの対象。そして男性客にとっては恐怖の対象である(見た目美人でも中身100歳オーバーのクソババアなので)。
だが映画は「不老ってええことばかりやあらへんで」ということを描いている。
たとえば大事な人たちが歳をとって死んでいくのに自分だけが老いない孤独、愛した男とともに人生を重ねられない悲しみ、娘が自分の肉体年齢を追い越してどんどんババアになっていくことのシュールさ。そしてこのことが公になると政府にとっ捕まって研究対象にされるため、素性を隠して各地を転々としながら樋田淳也のような逃亡生活を送らねばならないという慌ただしさ。
彼女が不老ガールであることを知っているのは実の娘(当時84歳のエレン・バースティン)だけで、このことを秘密にしようと誓ったアデラインは無用な人付き合いを避けながら孤独に生きてきた。
アデラインをよく知る者たちは彼女があまりに変わらないので怪しむが、そのたびにさまざまな方法で切り抜けるというサスペンスが通奏低音として流れている。
そんな彼女の前にミキール・ハースマン演じるセクシーな髭面男がヒュッと現れ、そいつがヤバいぐらいセクシーだったので、アデラインは「恋しちゃだめよ、アデライン。いずれは秘密を守るために彼のもとから去らねばならないのだから。恋の共倒れになるのは必定なのだから。もう誰も傷つけたくないし傷つきたくもないのだからぁぁぁぁ」とかなんとかいって自制しようとするが、結局は山本リンダの「どうにもとまらない」を歌いながらベッドインすることになる。
理性のストッパー ガタガタか。
よくそんな尻の軽さで100年もやってこれたなと感心してしまう。
そしてミキールが「両親の結婚40周年のパーティーがあるから実家に来てくれへんけ」とアデラインを誘ったことで、いよいよサスペンスが本格始動する。
なんとミキールの父親は約50年前にアデラインと結婚秒読みまでいって破局した元カレだったのだ!
ヘイ、親子丼お待ちっ。
きっついわー。親子揃って一人の女性と関係持つとか…。
ちなみに父親を演じているのがハリソン・フォード。
止まり木にあのハリソン・フォード(PUFFYの「渚にまつわるエトセトラ」に出てくる歌詞です。いちいち言わすな)。
当然ハリフォは、アデラインを見て「昔の恋人に似すぎー!」といって驚愕し、次第に「まさか本人…?」と疑い始める。映画の中盤以降は、この実家でのバレるかバレないかサスペンスに終始するので、これは完全にサスペンス映画というわけだ。
アデライン100年史。
◆止まり木にあのハリソン・フォード◆
中盤以降の実家シーケンスでハリフォがアデラインを凝視し続けるというサスペンスが本作最大の見せ場であろう。
ハリフォはアデラインが50年前の恋人と瓜二つで、しかも手の傷跡まで一致していることから同一人物ではないかと疑ってアデラインを観察し続ける。失礼なぐらい見続けるのだ。
アデラインに熱視線を送るハリフォ。
それにしてもアデラインと50年前の恋人があまりに似すぎているため「いいや考えすぎだ。あり得ない…」といって同一人物説を否定し、一旦冷静になって理論的に考えようと努める。
で、念のためにもう一度アデラインを見る。
アデラインに熱視線を送るハリフォ。
しかし何度見てもやはり同一人物にしか見えない。他人の空似とかいうレベルをとうに超えている。確実に同一人物だ。
では、容姿が変わっていないことをどう説明するのか? まさか歳を取らなくなったわけではあるまい(実はコレ正解)。そんなバカなことはあり得ない。非科学的だ。
それならいま目の前にいる娘は誰なんだ? なんでこんなに似てるんだ?
わからない。
わからないからもう一度じっくり見てみよう。
アデラインに熱視線を送るハリフォ。
めっちゃ見るやん。
家族全員でゲームをしながらアデラインの方をちらりと見るハリソン・フォード。
コーヒーを淹れながらアデラインを見るハリソン・フォード。
物陰からハリソン・フォード。
台所からハリソン・フォード。
止まり木にあのハリソン・フォード。
そんなことばかりしているので、妻のキャシー・ベイカーは「アデラインが昔の恋人に似てるのね? だからそんなに見てるのね? でも今日は私たちの結婚記念日なのよ。よその女ばっかり見てんじゃないわよ! 腹の立つ!」と言ってぷりぷりしてしまう。まったくもってその通り。ご同情申し上げる。
ハリソン・フォードといえば眉間にシワを寄せて深刻ぶったような顔がトレードマークの俳優だ。
というか、基本的に彼はこの表情しか持っておらず、どの映画でも最初から最後までこの顔だけで押し通すことから省エネ演技の王様と位置づけている(ちなみにこの人は映画とか演技というものにまったく興味がない)。
そして本作…、中盤以降はハリフォの独壇場なので省エネ演技をたっぷり堪能できる作品になっています。
なお、ハリフォの省エネ演技の凄さについては『ウーナ 13歳の欲動』評の末文あたりを参照されたい。
◆悲劇のヒロイン気取り◆
さて。ようやくここから批評めいた言説を振りかざしていくのだが、まずは手裏剣一発。
ブレイク・ライヴリーはミスキャスト。
アデラインを演じたブレイク・ライヴリーは、ズベ公を中心に人気をさらった海外ドラマ『ゴシップガール』で一躍セレブの仲間入りを果たした女優だが、何者でもない貌なのでロマンス向きとは言い難い。そもそも大役を務めるような貌ではない。
彼女のような特になんの変哲もない貌というのはホラー映画でこそ活きるのであって、そういう意味ではサメに襲われる『ロスト・バケーション』(16年)は素晴らしい采配だったわけだが、悲しいかな『アデライン、100年目の恋』にはハリソン・フォード、エレン・バースティン、キャシー・ベイカーといった脇役だからといって到底無視できない貌が揃っている。その中にあってライヴリー嬢は完全に埋没してしまってるというか、はっきり言って主演女優を見るより脇役を眺めていた方が楽しいわけだ。
ナタリー・ポートマンがオファーを蹴ったことがこの映画の最大にして唯一の不幸だろう(ちなみにキャサリン・ハイグルも蹴っているが、これは蹴って正解)。
ついでなので欠点を一気にまくし立てていく。
アデラインの生い立ち、心情、現在の生活環境、果ては不老になった経緯まで、逐一ご丁寧に説明してくれるボイスオーバー(実体なき第三者によるナレーション)が激烈にうざい。
落雷事故で不老になった…というだけのことをやたらと小難しい言葉を並べてそれっぽく取り繕っているが、しょせんファンタジーなのだから素直に嘘をつけばいいのに、「6万アンペアもの落雷による電磁圧縮作用によってアデラインの老化現象が云々」みたいなエセ科学論を弄するナレーターに死を。
ラストシーンでようやくアデラインが不老の呪いから解かれたことを白髪を見つけるという所作によってはっきり示しているというのに、ましたしてもそこでボイスオーバーがしゃしゃり出てくる。
「彼女は自身の毛髪に一本の白髪を発見した。ついに不老の呪いから解かれたのだ!」
黙れカス。
言われなくても観りゃわかるから。
死を。ナレーターに死を。
ここまでハッキリ示してるのに。
本作はハリフォが絡んでくる中盤以降になってようやく話が動き始めるわけだが、いかんせん映画の舞台が実家とその半径10メートル以内に固まってしまうので画的な変化に乏しい。家そのものも取り立てて画面に映えるような設計ではないし、扉や階段をサスペンスに活用するといった気の利いた演出もない。
とはいえ、ハリフォ(74歳)が納屋の扉をタックルして破るという微笑ましい光景が謎の郷愁を誘うので、そう悪くはなかろう。
あと、これはどちらかといえば個人的な不満になるけれど、不老という深刻な問題が主に恋愛面でしか立ち上がってこないのが甚だ疑問である。
不老というのは人生のすべての局面において実害を及ぼすものだし、現にこの映画のファーストシーンでもいくつかの具体例を挙げながら「不老のデメリット」がさまざまな角度から説かれている(外見が変わらないことを周囲に怪しまれる、家族や恋人を作っても最終的には孤独になる、偽名を使って各地を転々としながら生きねばならないetc…)。
だが映画が進むにしたがって、もっぱらアデラインの悩みはミキールに秘密(不老)を打ち明けるべきか否かというものに単純化されてしまう。
ミキールはアデラインの秘密を知っても恐らく彼女を愛し抜くだろうと確信させるほどのナイスガイなので、この時点でアデラインの悩みはわれわれからすれば杞憂でしかないわけだ。
しかもアデラインから真実を告白されたハリフォは「やはりそうだったのか。うーん、不老ねぇ…」と驚きながらも「息子をよろしくな」といってアデラインの不老を受け入れてくれたにも関わらず、彼女はミキールがシャワーを浴びている間に「やっぱりアナタとは無理。理由は聞かないで」という置手紙を残して彼のもとから去ってしまうのだ。
なんで!
ミキールは不老ごときでドン引きするような男ではない…というふうに描かれているし、ハリフォはすべてを知って受け入れてくれた。この時点でアデラインの悩みはすでに解決している。なのに、なぜ彼女は「やっぱ無理ー」と言ってミキールに別れを突きつけたのか。なにが無理なのか。
まさしくこれは悲劇のヒロイン気取りというやつで、すでに問題はクリアしたのに未だに問題は解決してないと思い込んだヒロインが一人で勝手に懊悩するという、ある種の自己陶酔に陥った悲恋モノの映画に見られる傾向なのだ。
われわれ観客はその遥か手前から「いや、すでにハッピーエンドやん」と思っているし、真実を受け入れたハリフォもまた「これでハッピーエンドだ」と確信しているわけだが、アデラインだけがハッピーエンドに気づいておらず、「未だ問題はクリアされていないのぉー! 依然問題は横たわっているのぉー!」とばかりに一人で荒れ狂って悲劇のヒロインを演じるという身振り。これぞ一人相撲。
要するにアデラインの心情描写がめちゃくちゃに破綻しているわけ。つまりロマンスとしても破綻している。
というわけで本作の見所は止まり木にあのハリソン・フォードということにどうしてもなってしまう。
84歳にしてアデラインの娘を演じたエレン・バースティンは相変わらず可愛かった。
『エクソシスト』(73年)のお母さん役でお馴染みのエレン・バースティン。