オレの総てを『イヴの総て』にぶつけてやる!
1950年。ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督。ベティ・デイヴィス、アン・バクスター、ジョージ・サンダース、ゲイリー・メリル、セレステ・ホルム。
ある日、新進女優イヴ・ハリントンはアメリカ演劇界の栄えある賞に輝いた。だが、彼女がここまで上り詰めるには、一部の関係者たちしか知り得ない紆余曲折の経緯があった。8ヶ月前、田舎からニューヨークへ出てきたイヴは、ひょんなことから憧れの舞台女優マーゴの住み込み秘書となった。するとイヴはこれを皮切りに、劇作家や有名批評家に巧く取り入り、マーゴまでも踏み台にしてスター女優へのし上がっていく…。(Yahoo!映画より)
おはようございます。
昨日は旧友とお酒を飲みながら5時間ぐらい映画トークをしてました。
私は角ハイコークが飲みたかったのに何度も角ハイボールと間違えて注文してしまったので、最後は友人に注文してもらうことでようやく角ハイコークにありつけました。うれしかったです。
「最近何観た?」という話に始まり 「12月31日になってスーパーで年始の買い溜めをする奴はバカ」という結論に達しました。相変わらず、そんな私たちです。
それでは本日は普段以上のボルテージで『イヴの総て』を熱評。
◆ショービズの世界は足の引っ張り合い!◆
私の心の中には「映画好きなのに観てない映画TOP50」という恥ずべきランキングがあって、長らくその第5位に輝いていたのが本作。じつは過去に2回鑑賞に臨んだのだが2回とも開幕20分で熟睡を遂げている。
そんなわけで今回リベンジを試み、念願叶ってついに覚醒状態で最後まで観ることができたので気合いたっぷりに批評していこうと思う。
オレの総てを『イヴの総て』にぶつけてやる!
言わずと知れた名作なので、これまでちゃんと観たことのなかった私でもさすがに概要ぐらいは知っていた。
ハリウッド史上空前の大失敗作『クレオパトラ』(63年)でキャリアを潰して映画界から姿を消す前のジョセフ・L・マンキーウィッツが最も脂の乗っていた時期に撮った作品にして、大女優ベティ・デイヴィスの代表作なんでしょ。また、無名時代のマリリン・モンローが脇役で出演していることでも知られているんでしょ。その年のアカデミー賞では主要6部門を独占して大変な話題を集めた作品なんでしょ!
さて、本作は演劇界の内幕もので、イヴという新人女優が権威ある米演劇賞に輝く授賞式のシーンに始まるのだが、その会場には彼女の受賞を快く思わない業界人たちがいた。そこから物語は過去に遡って、文字通り「イヴの総て」がつまびらかにされていく…というのが大筋である。
この時点でおもしろポイントがいくつもあって、ひとつは『イヴの総て(原題:All About Eve)』という題を持ち、イヴを中心とした物語にも関わらず 主人公がイヴではないという裏切り。
そして 権威化した賞レースを辛辣に揶揄した本作がアカデミー賞6部門に輝いてしまったという皮肉。
イヴを演じたのはアン・バクスター(↑)という女優なので以降は役者名を取ってアンと呼ぶが、この映画の主人公はアンが尊敬している先輩女優のベティ・デイヴィスなのである。
本作は、田舎から出てきた女優志望のアンがベティの付き人になって周囲の業界人にうまく取り入り、ベティの役を奪ってブロードウェイでのし上がろうとする腹黒女だったことが少しずつ明かされていく。
モロに『ショーガール』(95年)の世界。
ところがこの映画は、周囲の人間を利用してのし上がっていくアンの視点ではなく、アンの奸計にはまって役を奪われるベティの視点から描いている。
ベティは中年の域に達したブロードウェイの大女優だが、自分を踏み台にして頭角を現し始めたアンが脅威となり、その思いはやがて嫉妬と憎悪に変わっていく。アンは腹黒女だが、ベティの方も老いという劣等感から前途有望なアンに対して醜い感情をむき出しにするのだ。
打算的な新人女優とプライドの高い中年女優の情念がぶつかる、女同士の熾烈な争い。
それが『イヴの総て』の総てである。
ベティ・デイヴィスという女優は生涯でアカデミー賞に11回ノミネートされるという当時の最多記録を持っており、この記録はキャサリン・ヘプバーンが1982年に破り、メリル・ストリープが2002年に塗り替えたが、とにかく賞レースでは圧倒的に強い女優。そんなベティが演劇界の大女優役という、ほとんど実物そのままの役を演じているあたりがおもしろい。
さらに言えば本作と同年に公開された古典映画の金字塔『サンセット大通り』(50年)のグロリア・スワンソンも「老いに焦りを感じる大女優」という、ベティとほとんど同じような役を演じている。
『サンセット大通り』といえば今となっては映画好きなら必ず観ている名作として『イヴの総て』より高い知名度を誇るものの、この年のアカデミー賞では『イヴの総て』が圧勝した。賞のためなら平気で人を利用するアンを描いた『イヴの総て』が賞レースで圧勝し、再び銀幕に返り咲こうと必死になるあまりキチガイになってしまう凋落スターの哀れを描いた『サンセット大通り』が完敗したのだから、実に皮肉な話であるよなぁぁぁぁぁぁぁぁ。
◆白い服が黒に染まるとき◆
『シネ刀』を初めたこの1年間は「古い映画を取り上げてもしょうがないだろう」という思いからクラシック映画禁止令を己に発令していたのだが、ブログ運営もようやく安定して書きたいことが書けるようになってきたので、最近は約1年ぶりにクラシック映画をチラホラと観だしているのだけど、ヘタすると『イヴの総て』は今年観た映画の中で一番よかった作品かもしれない。
過去に2回鑑賞したときになぜ熟睡したのかが分からないぐらい深い感動を覚えたので、以下はほとばしるパトスをひたすら叩きつけるだけの雑文となる。ご容赦。
まずはベティ・デイヴィスとアン・バクスターの衣装に注目せねばならない。
ベティに憧れて劇場の表で出待ちしているアンを、ベティの親友であるセレステ・ホルムが「彼女に会わせてあげる」と言って楽屋に連れて行くところから本編の回想シーンが始まる。楽屋にはセレステの夫である劇作家のヒュー・マーロウと、ベティの付き人のセルマ・リッターがおり、ベティはその二人とキツいジョークを言い合いながらメイクを落としていた。
ここにアンとセレステが加わって合計5人となるわけだが、観る者はここでベティが白い服を着ていて、アンもまた白いコートを羽織っており、それ以外の人物がみな黒っぽい恰好をしていることに気づく(マーロウがグレーのスーツを着ている理由は後述する)。
二人だけ白いですね。
この二人だけが特権的に白を身に付けているのはもちろん偶然ではない。
白は純粋の象徴なのだ。
この時点でのアンは心からベティを尊敬して付き人になりたいと願っており、ベティもまたアンの人柄のよさに惹かれて彼女を付き人として雇う。両者の純粋な好意が心地よく溶け合う、最も和やかなシーンである。したがって彼女たちが身に付ける色は白以外にあり得ないのだ。
さらに言えば、彼女たちが同色を身に付けるということはこの二人が運命共同体、もしくは似た者同士であることも示唆している。
ところが、アンがよからぬ野心を抱き、ベティも中年の危機に立たされて精神不安定に陥る中盤以降は、この「純粋な女たち」が黒い衣装を身に付け始め、やがて憎悪と欲望が渦巻くドス黒い人間模様が「白」を侵食し始める。
ベティの理解者であるセレステまでもがアンの邪悪な計画に与して背徳の十字架を背負うことになるので、もちろん楽屋では黒い服を着ている(↑画像右)。劇作家のマーロウだけが辛うじてグレーのスーツを着ることを許されたのは彼だけが打算で動かない人物だからだ(↑画像左)。
また、マリリン・モンロー演じるバカな新人女優だけが最後まで白いドレスを着続けたキャラクターであることも見逃せない。彼女は周囲の醜い駆け引きに加わることすらできないほど頭の悪い女、すなわち徹底して無垢な女として特権的に白を身にまとうことが許された唯一のキャラクターなのだ。
ベティの誕生日パーティーが大喧嘩によって台無しになった夜、一同が階段に座りこんでグチグチと言い争っているときでさえ、マリリンだけが場違いな笑顔を湛えてその白さを誇示している。
純粋とはバカのこと。
だがバカは平和をもたらす。
つまりマリリン・モンローは最高である。
映画中盤。もはや純粋さ(白さ)を保持しているのはマリリンだけ。
◆怪物女優と丸顔悪女◆
50年代以前の古典映画はスタジオ撮影が主で、必然的に建物の中を舞台にした作品が多いため、本作のように衣装や美術を使うことでキャラクターの心理とか物語の状況を表象するといった演出が多かった。
映画にハマりはじめた若者が『市民ケーン』(41年)を学習的に鑑賞して「市民のオレには何が凄いのか理解でケーン」と言ってヘソを曲げてしまう瞬間に何度か立ち会ってきたが、先に『イヴの総て』を観ていれば「当時の映画がいかに限定された方法論の中で画期的な演出を模索していたか」という事と「そんな環境にあって『市民ケーン』がいかに画期的な演出を実現しえたか」ということがお分かり頂けたかもしれない。とんだお節介だが。
それはそうと、たしかに本作は『サンセット大通り』に比べればいささか地味だし、同じベティ・デイヴィスの作品でも『何がジェーンに起ったか?』(62年)の方がより分かりやすく殺傷力の高い傑作なので、アカデミー賞を独占したとはいえ、今となってはあまり観る人がいない作品だとは思う。実際、私も今頃になってようやく観たわけだしな!
そういうわけで人をこの映画に向かわせるキラーワードは、もっぱら「無名時代のマリリン・モンローが出てるぞ。めちゃめちゃ可愛いから観ておけ」ということになるのだが、やはりベティ・デイヴィスの「怪演」という言葉すら不適当なひとり交奏曲のごとき絶技の前ではマリリンなど赤子同然。
ベティ・デイヴィスのすごさを表現する際に「メリル・ストリープのような~」という比喩を使うことはある程度まで有効だが、手数の多さで芝居の余白を細かく埋めていくメリル・ストリープとは違って、ベティ・デイヴィスの芝居には「余白を埋める」という概念がない。いわば「休符すらも演奏の一部である」とするジョン・ケージの現代音楽のごとき前衛性が切っ先のよい刃物のように絶えずスクリーンを脅かすのだ。
したがって、ベティ・デイヴィスが「芝居をしている時」と「していない時」の区別がまったくつかないまま、人は彼女が芝居をしていない時でさえ「怪演だ!」という思い違いをしてしまうのである。
はっきり言ってバケモノだ。
怪物女優、ベティ・デイヴィス(右)。
また、準主役のアン・バクスターも推していきたい。
若い頃のシャーリー・マクレーンに似ていて、今の言葉でいえば「ロリっぽい女優」ということになるのだろうが、本作のアン・バクスターを語る上でいちばん重要なのは丸顔の悪女ということである。
キャラクター造形はフォルム(輪郭や体型)によって決定される…というのは映画以外でもマンガ(たとえば手塚治虫)にも顕著なように、悪党は痩せていて、権力者は小太りで、親切な人間は肥満体型といった型があらかじめ決まっている。
そして映画における丸顔女優が「やさしい女の象徴」であることはリリアン・ギッシュやクローデット・コルベールといった丸顔の歴史が証明している通りで、悪女というのはエヴァ・ガードナーとかバーバラ・スタンウィックのようなシャープな顔立ちの美人が演じるものと相場が決まっているのだが、アン・バクスターはこれを覆したわけだ。6頭身ぐらいしかない幼い顔立ちの彼女が貫禄たっぷりのベティ・デイヴィスを利用するという意外性たるや。
うーん…バクスター!
また、米演劇賞を受賞したアンのもとに女優志望の女の子がひょっこり現れて、かつてのアンがベティに言ったように「付き人になりたいんです!」といって擦り寄ってくる超ブラックなラストシーンにもゾクゾクしてしまう。このようにして女同士の泥沼劇は世代を越えて繰り返される…。なんと完璧な円環構造。
また、アン・バクスターといえばオーソン・ウェルズが『市民ケーン』の翌年に撮った『偉大なるアンバーソン家の人々』(42年)や、ヒッチコックの『私は告白する』(53年)で知られる女優だが、セシル・B・デミルの『十戒』(56年)をピークとして墜落機のように凋落していった。本作で悪女のイメージがつきすぎて、それが枷になってしまったのだろう。合掌。
左から順にベティ・デイヴィス、アン・バクスター、マリリン・モンロー。
その他、『紳士協定』(47年)のセレステ・ホルムや『頭上の敵機』(49年)のヒュー・マーロウにも触れたいが、早くも5000字に達したのでやめる。
『イヴの総て』は、生き馬の目を抜く現代社会で悲喜こもごもの結束や裏切りに身をやつしているわれわれを映す鏡のような作品だ。モノクロ映画だからといって遠慮する必要はない。ここには「映画の総て」があるのだから。
上手いこと言うた!
上手いこと言うたぁぁぁぁ。