シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

愛人/ラマン

官能映画全否定。ラマンの限界だ!

f:id:hukadume7272:20181206100055j:plain

 

1992年。ジャン=ジャック・アノー監督。ジェーン・マーチ、レオン・カーフェイ。

 

1920年代。フランス領下のインドシナに暮らす貧しいフランス人の少女。だが、富豪の中国系青年と情事を交わすようになってからは、彼女の家庭には大金が転がり込んでくるようになった…。(Yahoo!映画より)

 

おはようございます。朝っす。

今回はワインをがぶがぶ飲みながら『愛人/ラマン』を酷評しております。

と言っても、酔っぱらってぎゃあぎゃあ騒いでいるのかといえば、ノン!

お酒を飲みながら書いた文章というのは、意外とハイではなくローなテンションなのですよ。

私の場合、酒に酩酊すればするほど頭が冴えるというか、脳みそが柔軟になって色んな言葉がスラスラ出てくるので、酔えば酔うほどカチッとした文章になるわけです(そのぶん誤字も増えるわけです)

逆に、シラフのときほど冷静なので「こんな文章でいいのかな…?」と不安になったり自信をなくしたりして、つい目先の笑いに走ってバカなことを言う、みたいな道化精神が発露してしまうのです。

つまり私がふざけた評を書いたとき→シラフ。ちょっと良い評を書いたとき→酩酊状態、と思って頂ければいいのとちゃいますか。

酔いどれ作家のチャールズ・ブコウスキーは泥酔しながら小説を書きました。ならば私の酔いどれブログ運営も正当化されて然るべきだ。

ブコウスキーばっかりずるい。

f:id:hukadume7272:20181206100329j:plain


◆映画的性教育のお話をします◆

仏領インドシナのフランス人女学校に通う未成年の少女が華僑の男とひたすらセックスに明け暮れるという充実の中身を誇る。

女流作家マルグリット・デュラスの自伝小説を映画化したもので、公開当時は大胆な性愛描写が話題になったという。

『イヴの総て』(50年)と同じく「映画好きなのに観ていない映画TOP50」に君臨し続けた作品だ(47位)。

まぁ、「映画好きなのに観ていない」とは言いつつ、これは別に観なくていい映画だろうとは薄々思っていたのだが、ようやく本作を観たことでその思いが確信に変わったので、まずはその話から。


映画を観ていく上でセックスという主題は避けがたく横たわっていて、それは必ずしも卑猥さや俗気めいた意味合いだけを含むものではなく、いわば生の本能の原動力としてのエロスは映画にとって欠くべからざる元素なのである。なぜなら基本的に映画とは人間の営みを描くメディアだからだ(映画が免除された人間の営みは睡眠だけである)。

したがってエロスを直接描かない映画であっても、映画は映画である限りにおいてエロスはごく当然のように遍在する。たとえば史上最大の作戦(62年)でもプライベート・ライアン(98年)でも何でもいいのだが、そのような戦争映画にしても、故郷に残してきた恋人に再会するために何が何でも生き延びてやるぞという男たちの執念を通して、自己保存本能=生=エロスがフィルムの表層に顕在化するわけだ。

べつに戦争映画でなくとも、どんな内容、主題、ジャンルであってもエロスは存在する。もし存在しなければ、それを撮った監督は中学生以下の頭脳しか持たないと考えていい。

たとえば、煙草に火をつける仕草、風になびく髪、袖のボタンに触れる所作。そうした挙措の細部にこそエロスは宿る。

第一こんな説明をするまでもなく、ポルノビデオが普及する70年代以前は、人はその性的欲求の発散をもっぱら映画に仮託していたではないか。


この話の要点をまとめると、スケベな人にはごめんなさい…ということになってしまうのだが、ディープ・スロート(72年)とか『エマニエル夫人』(74年)といった官能映画は原理的には存在する必要がないということである。もちろん本作もだ。

官能映画というのは端的に語の矛盾であって、もともと映画とは官能性を前提としたメディアにほかならないので、たとえ激しい性交とかモロ出しの陰部を映してみたところで、ハンフリー・ボガートが煙草に火をつける仕草とか風になびくジョアンナ・シムカスの髪の方がより本質的にエロティックなのだ。実際、120年の映画史を見渡してみても、傑作とされる官能映画の数はほぼゼロと言っていい。

「官能映画である」という既成事実それ自体が「自己矛盾を孕んだ反映画の身振りにほかならない」という既成事実を従えてしまっているのだ。

つまりエロスを映す映画は、それを映す端から映画であることを放棄してしまうというパラドックスによって自壊の運命を辿ることになる。

f:id:hukadume7272:20181206100953j:plain

ディープ・スロート『エマニエル夫人』。ポルノ映画の歴史はここから始まった!


さて、本作を全否定する準備は整いました。

それではこの映画がいかに「映画でないか」について述べていきたいと思う。 


◆映画は叙事のメディアです◆

当たり前だが、官能映画は説話的におもしろくない。

ひとまずここで言う「官能映画」という語を性描写を目的化した映画だと広義に解釈するなら、当然セックスシーンが上映時間の多くを占め、それが見せ場でもあるわけだから、物語の進行とか広がりといったものは蔑ろにされるわけである。

たとえば本作でも、倍近くも歳が離れているジェーン・マーチ(少女)とレオン・カーフェイ(中国人)が中華街の騒がしい通りにある薄暗い部屋のなかで火照った身体を重ね合わせるさまが執拗に繰り返される。

『ナインハーフ』(86年)では性愛描写のシチュエーションに色々と変化をつけていたので飽きることはなかったが、こちらは同じ部屋、同じ時間帯、同じ体位で画一的なセックスが何度も何度もおこなわれるため、観る者は思わず「ループ地獄に閉じ込められたのかな?」という不安感に駆られてDVDの異常を疑うことになる。

だが異常なのはDVDではなく、これを撮ったジャン=ジャック・アノーの頭なのだ。

f:id:hukadume7272:20181206101201j:plain


映画終盤では、すでに婚約者のいる中国人が少女を本気で愛してしまったことのジレンマに苦しみ、少女は中国人に対する想いが定まらないまま貧しい家族のために金を無心する…という悲恋が描かれる。

とはいえ、そんな二人の複雑な状況をわれわれが知るのは本人の口から発せられた説明台詞によるものであって、欲望のままに互いの肉体を貪り合っていたシーケンスを通して描き出されたものではない。

つまりセックスシーンによってさんざん蔑ろにした物語を、終盤になって慌てるように説明台詞でフォローする…というのが本作のクライマックスなのである。

今さら物語のエンジンかかったんかい!

遅いわ!

まるで夏休みの最終日に半ベソかいて宿題を終わらせる児童のごとき今さら感。英語で言ったらtoo late。それで「二人は運命によって引き裂かれたのです。悲しいですねぇ」みたいな幕引きをされても、ねぇ…。こちらの記憶には部屋でセックスしてたイメージしか残ってないわけで。

 

何が言いたいかというと、セックスシーンは説話機能たりえないということだ。

もっぱら愛し合う二人の「感情」もしくは画面の「情感」を保証しうるものであって、ヤッてばかりいても物語は進展しない、埒が明かない、ということザッツオールなのである。

もちろん原作小説は文字媒体なので「抒情文」によって性愛描写と物語進行が同時におこなえるわけだが、映画は 抒情(何を思ったか)ではなく叙事(何が起こったか)のメディアなので、性愛描写と物語進行は両立しえない。

そんなことすら理解していないジャン=ジャック・アノーの頭には、やはり異常がみとめられます。

f:id:hukadume7272:20181206101612j:plain

少女が「ふっ」と言って男が「つー」と言います。こんなシーンがひたすら続くわけです。


◆官能映画はショットの持続に耐えられない◆

とはいえ、エロいか否かという小学生のごとき二者択一を迫られたとすれば、まぁエロいわけである。

認める。エロい。

『愛人/ラマン』はしっかりエロい。さすがラマン。

役の設定の上では15~17歳のジェーン・マーチ(撮影当時の実年齢は18歳)の一糸まとわぬ姿は今の時代なら即アウトなほどスクリーンの性感帯を妖しく撫で回しているし、絶倫中国人を演じたレオン・カーフェイの引き締まった肉体の丘陵とその丘を行進する汗のエロさといったらない。

ただ、やはり譲歩できぬのは「性交する男女」という被写体が、部分的なシーンだけならまだしも、ほぼ映画全編を支配して余りあるほどショットの持続に耐えうるものではない という事実だ。


「ストーリーはわけわからんけど、画面を眺めてるだけでなんとなく楽しい!」といった映画体験を持つ人は多いはずだ。内容的にはまったくの意味不明なのに、なぜ我々は飽きることなく画面を観続け、そこに楽しさや居心地のよさを覚えるのか。

それはショットが優れているからであって、ショットというのは被写体があってこそ成立するものであり、映画における被写体というのは人物と風景から成っており、さらにその被写体を構成するものは色、形、音、角度、質感…と色々あるわけだが、要するにそれらの組み合わせが美しさ(映像快楽)たり得ているからこそ、我々はその画面を飽きずに観ていられるわけである。たとえストーリーが意味不明だろうと。

翻って本作の大部分を支配するセックスシーンが自堕落なまでに退屈なのは「ひとつの組み合わせ」だけが何の変化もなくラストシーンまで繰り返されるからにほかならない。

中華街の騒がしい通りにある薄暗い部屋のなかで、玉肌の少女とマッスル丘陵を誇示する中国人が前回と寸分たがわぬセックスをひたすら反復する…という代わり映えのなさ。つまりショットの持続に耐えきれていない。

マンガがおもしろいのは、各ページ、各コマにまったく異なる絵が描かれているからだ。

音楽が楽しいのは、楽節によって音域の異なる演奏・歌唱が響き渡るからだ。

どのページをめくっても同じ絵がひたすらコピペされてるだけのマンガとか、最初から最後までまったく同じ音程で「明日に羽ばたこうよー」と連呼してるだけの曲など退屈の極み。否、もはや退屈というよりキチガイ沙汰である。

そんなキチガイ沙汰の映像版が本作ということだ。

ラマンの限界だぁぁぁぁ!

f:id:hukadume7272:20181206101817j:plain

ただしジェーン・マーチの輝きは特筆に値します。