『時計じかけのオレンジ』の源流にして尾崎イムズにも溢れたアシッドムービー。
1968年。リンゼイ・アンダーソン監督。マルコム・マクダウェル、リチャード・ワーウィック、デヴィッド・ウッド。
カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した異色の青春映画。イギリスの名門パブリック・スクール。厳しい校則や威張り散らす上級生たちに嫌気がさした主人公ミックは、仲間のジョニーとウォレス、さらに下級生の美少年やコーヒーショップで働く少女とともにある計画を企てる…。(映画.comより)
おはようございます。
私が冬を嫌う理由のひとつにマフラーの巻き方がわからないからというのがあるわけだ。
とにかくマフラーの巻き方を知らず、おまけにヘタクソ。まるで首いわしてコルセットしてるみたいな単細胞ぐるぐる巻きスタイルしか知らないのである。まぁ、カッコよく言えばYOSHIKI風ということになるのだろうが。
紅に染まったこのオレを 慰める奴はもういない…
だもんで、道行く人民のそれと見比べては劣等感を覚えてしょげてしまうのである。ようそないオシャレに巻くなぁ…。私なんかマフラーを巻いてる人というよりマフラーで首締まってる人みたいな様相を呈しているというのに。
私がこんなことを言うと「ネックウォーマーすりゃいいじゃん」などと言ってくる輩がいるが、ネックウォーマーはデザインが嫌なので嫌です。あれこそコルセットだし、なんというか土管から出てきた奴みたいな鈍臭い感じがしてしまうのである。
土管やん。マリオに出てくるあの花やん。せっかくモデルはカッコいいのに。
そんなわけで、本日お届けするのは『If もしも....』です。
もしもマフラーがカッコよく巻けたなら!
◆尾崎イズムに溢れた不良映画◆
『時計じかけのオレンジ』(71年)によって現代映画のアイコンとなったマルコム・マクダウェルのデビュー作なので、キューブリック好きならぜひとも興味を持って頂きたいと思います。
マルコムが『時計じかけのオレンジ』で演じたアレックスというキャラクターはレイプとバイオレンスとベートーヴェンに明け暮れて管理社会への抵抗を試みた悪のカリスマ。
そんなマルコムがアレックスを演じる3年前に出演したのが本作だ。アレックスを予期させるキャラクターがすでにここで仕上がっているというわけ。
というより、本作を観たキューブリックが「俺も使いてぇ」と一目惚れしてマルコムを起用したので、いわば本作がなければアレックスも生まれ得なかったのである。
皆さんお馴染み『時計じかけのオレンジ』のアレックス。
本作は伝統と忠誠心を重んじる全寮制パブリックスクールを舞台に繰り広げられる戦々恐々とした学園ドラマだ。
堂々と権威主義を掲げた支配階級の養成所で、軍隊のような規律と指導とは名ばかりの体罰が横行する、いかにもイギリスらしい階級制度が生徒たちを抑圧する。
下級生たちは教師や上級生に食事を運んだり便座を温めるといった奉仕を強いられ、いつも半泣きでスクールライフを送っているのだ。就寝時には「寝ろコラァァッ!」という教師の怒声に従って大慌てでベッドに飛びこみ、素行の悪い生徒には鞭打ちや冷水の罰が与えられる。
もはや軍隊。
もはや『フルメタル・ジャケット』(87年)。
不良仲間とつるむ反逆児のマルコムは髪を伸ばしたりエロ本を読むといった反抗を試みるが、次第に尾崎的反抗へとエスカレートしていく。
自由への扉を目指して学校を抜け出したマルコムらは、路上のルールに従って行き先もわからぬまま盗んだバイクで走り出し、ドーナツ・ショップのシェリーをナンパして軋むベッドの上でやさしさを持ち寄る。
「OH MY LITTLE GIRL」といって温めたりもする。
そして寮に帰ってきたマルコムらは「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」という結論に達し、古い倉庫から銃を見つけて無差別乱射!
学園は瞬く間に戦場と化した。
この支配からの卒業。
真ん中がマルコム・マクダウェルです。
◆カラーとモノクロの混血的珍作◆
事程左様に尾崎ワードをテキトーに並べてるだけでも十分説明できてしまえる内容なのだが、これは単なる不良映画ではございません。
『If もしも....』というタイトルにご注目。原題も『If....』です。
「If....」といっても君の姿にシンクしたり君のすべてにスウィングする方の「if...」ではないので、間違ってもDA PUMPを連想なさらぬよう。USAゲームをする奴は大体バカ。
このタイトルが暗示する通り、マルコムの過激な反逆行為は空想かもしれない…という曖昧な撮り方がなされていて。
もしも 学校を抜け出せたら…。
もしも 素敵な女の子と恋ができたら…。
もしも 大嫌いな教師をぶっ殺せたら…。
どこまでが現実でどこからが妄想なのか、あるいはすべて現実なのか。
虚実入り混じる混濁した映像のうねりの中で、われわれを更に困惑させるのはカラー/モノクロの往還。
各シーン毎にカラーになったりモノクロになったりを幾度となく繰り返すのである。
たまったもんじゃねぇ。
ほとんど5~10分おきに色がついたり消えたりするのである。まさにカラーとモノクロの混血的珍作。
とはいえ私は根が真面目なので、カラーシーンとモノクロシーンのパターン化を試みて「うーん、マルコムの潜在的願望(空想シーン)がモノクロとして映し出されているのだろうか?」などと分析してみるのだが、どうも筋が通らない。おそらく混乱を狙った演出としてアトランダムに色の有無が決定されているのでしょう。
また、随所に見られる半狂乱みたいなシーンも印象的である。
ドーナツ・ショップのシェリーは初対面のマルコムにいきなり唇を奪われてビンタをお見舞いした。ところが次の瞬間にはマルコムの肩にしなだれかかって自らキスをせがむ。かと思えば急に「私はトラよ! ガルルルル!」と叫んでマルコムの顔を引っ掻いたりもする空前絶後の困ったちゃん。
負けじと応戦するマルコムも「俺のほうがトラだ!」と言って両者トラのポーズで威嚇し合い、くんずほつれつの大喧嘩。すると次のカットでは、なぜか二人ともすっぽんぽんになっていてセックスのイメージへと繋がる。
そしてやさしさを持ち寄る。
自称トラの少女と威嚇し合っています。
半狂乱のごときわけのわからなさ。
まぁ、マルコムの空想シーンと取るべきなのだろうが、それにしてもなんでこんな空想するんだよ。もっとええ空想あったやろ。
とにかくこんなサイケデリックなシーンが随所にぶっ込まれているのである。
◆暴力としての革命◆
本作は1968年に作られたイギリス映画でございます。
50年代のイギリスでは労働者階級の若者たちの声を代弁したフリーシネマと呼ばれる映画運動が隆盛を極め、それに続くように60年代の映画情勢は革命一色に染まった。ビートルズが「Revolution」をリリースしたのも68年である。
アメリカではニューシネマ、フランスではヌーヴェルヴァーグ、ドイツではニュー・ジャーマン・シネマ。あるいはブラジルのシネマ・ヌーヴォや、ポーランドはそのものずばりのポーランド派といった映画革命をあっちゃこっちゃで巻き起こし、世界中の映画人たちが文化的一揆に乗り出した。
ベトナム反戦運動、権威主義の否定、労働者階級の実態、父親世代との訣別、女性解放運動、物質的繁栄を是とする価値観への疑問など、映画を使った社会への異議申し立てが全世界的におこなわれたのだ。
そして本作を撮ったリンゼイ・アンダーソンは、自身がブルジョア階級でありながら反ブルジョア思想の映画作家であり、『If もしも....』のラストシーンでは階級社会のメタファーである学園を乱射事件いう暴力によって粉砕してみせた。これは『俺たちに明日はない』(67年)や『明日に向って撃て!』(69年)といったニューシネマの結末とそっくりで、きわめてアメリカ的な暴力の在り方である。
そしてその実行犯を演じたマルコム・マクダウェルは、3年後の『時計じかけのオレンジ』で映画史に残る悪を体現し、今なおアンチヒーローとして多くの人に愛されるキャラクターになった。
革命は彼らの勝利に終わったのだ。
だが一方で、マルコムがおこなったスクールシューティングは今や現実世界でも起こりうる暴力として人々の日常に影を落としている。しょせん革命など「殺戮」を美しく飾った言葉に過ぎなかった。
コロンバイン高校銃乱射事件の犯人 エリック・ハリスとディラン・クレボルドは、嘘や見栄で自分を大きく見せようとする人間を嫌ったという。その意味ではこの映画のマルコムと非常によく似ている。教育という名のもとに抑圧や暴力を正当化し、階級というプライドにしがみついてエリート面をする教師や上級生たちを学園ごと消し去ろうとしたのだから。