知られざる戦争「バトル・オブ・アイブロー」を描いた眉毛ドキュメンタリー。
2000年。ジョエル・シュマッカー監督。コリン・ファレル、マシュー・デイビス、クリフトン・コリンズ・Jr。
1971年、ルイジアナ州ポーク基地。ベトナム戦争が泥沼化していく中、新兵たちはここで訓練を積み、最後に「タイガーランド」と呼ばれる地で一週間におよぶ実戦さながらの訓練を経てベトナムへと送られる。そんな中、ここに上官に向かって反戦を公然と口にする新兵ボズがいた。彼は軍規の抜け道を利用して苦しんでいる仲間たちを除隊へと導いたりもしていた。やがてボズは新小隊長に任命されるが、隊員のひとりウィルソンはそんなボズの考え方に反感を抱いており…。
おはようございます。一昨日CDを4枚買って、それを聴きながら一晩中『ひとりアカデミー賞』を執筆してました。買ったCDはブラック・サバスとハーレム・スキャーレムとロイヤル・ハントというバンドです。あとひとつは言わない。プライバシーを侵害するな。
さて。かねてよりGさんから「コリン・ファレルの映画をやれ」と雑なリクエストを頂いております。一度は無視したんだけど、その後もしつこくファレファレ言ってくるので、ついにリクエストにお答えするはめに。押し負け!
まぁ、これで当分は静かになるでしょう。
そんなわけで本日はコリン・ファレルの映画にお付き合い頂きたいと思います。
先に言っておきますね。
ほぼ眉毛の話です。
◆眉毛論◆
コリン・ファレルを大真面目に語ろうとするとき、どうしても避けては通れないのが眉毛だ。わかるか。
「眉毛」と書いて「コリン・ファレル」と読む。そのぐらい眉毛が印象的な俳優である。
コリン・ファレルの顔から眉毛が生えているのではない。
眉毛からコリン・ファレルが生えているのだ。
そこを履き違えるな。わかるか。
本体は眉毛の方。
ファレ坊と言えば、どうしても八の字になっちゃう眉毛の持ち主として認知されているし、もはや人はファレ坊に「凛とした平行眉」とか「雄々しいV字眉」など期待してはいないのだ。
だが、彼が映画デビューを飾った『タイガーランド』では、この男なりに八の字眉毛を封じ込めようとする強い意思が感じ取れる。今でこそ「我は垂れてこそのコリンなり」とばかりに眉に垂らして憚らないが、どうもこの頃のファレ坊は八の字眉毛にコンプレックスを抱いていたように思う。
実際、ここでのファレ坊は上官に歯向かいながらも仲間を団結させるカリスマ新兵を演じているので、できればV字眉、それが叶わずとも平行眉を維持しようと努めているが、これは生まれつき八の字眉毛のファレ坊にとってはかなり過酷なチャレンジだったといえる。
『タイガーランド』という映画は、気を抜くとすぐ垂れてくる眉毛をキュッと上げ、また垂れてはキュッと上げる…という眉丘筋との戦いを記録した眉毛ドキュメンタリーである。
実際、本作は16mmフィルムの手持ちカメラで撮影されていて画質も荒く、わざとらしいほどドキュメンタリー効果を狙っている。監督がバカのジョエル・シュマッカーなので何を映してるのか分からないほどカメラをぶん回し、これ見よがしにファレ坊の眉毛にピントを合わせるといったふざけた身振りにも事欠かないため、眉毛ドキュメンタリーというのはあながち間違いではないというか、むしろ言い得て妙と褒めていただきたいぐらいだ。なんか文句あるか!
さて。芝居に集中するとすぐ眉毛が垂れて悲しい新兵みたいになってしまうので、ファレ坊の意識はもっぱら眉丘筋の操作へと向けられることになる。対外的な芝居をせずに、もっぱら内的な芝居…すなわち眉毛との戦いに終始しているのだ。
本作はベトナム戦争を扱ったものだが、真に描かれているのはベトナム戦争ではなく、いわば バトル・オブ・アイブロー(眉毛戦争)である。
実際、芝居そっちのけで眉毛の操作に取り組む…というファレ坊の演技プランはこの上なく正しい。これによって不干渉的な主人公が見事に表現されているからだ。
ファレ坊演じる主人公は戦争反対論を唱える軍事訓練の拒否者で、隙あらば訓練をサボタージュして一人で煙草を吸っているような不良分子。軍曹からバチバチに怒られても「僕のことは放っておいてください!(キリッ←眉毛を上げる)」と言い、寝食をともにする仲間の兵士に対しても無関心で「死んだときが悲しい」との理由から友達不要論を唱えている。
独自の世界観…つまり彼はコリンランドの中だけで生き、不自由な軍隊から自分を切り離している自由な男なのである。
したがって、眉毛のことしか考えないという内的な芝居はこの上なく正しいわけだ。
芝居とは「ほかの役者との関係性のなかで構築される相対的な身体表現」だが、この映画のファレ坊は誰とも関係せず、何にも相対化されないのだ。ただ孤独に眉毛の操作に取り組んでいるのだから。
普段のファレ坊(右)に比べて『タイガーランド』のファレ坊(左)は眉毛が垂れていませんね。自然と垂れてしまう眉毛を強い意志で引き上げているのです。
自分自身との戦い。これがバトル・オブ・アイブロー。
◆シュマッカーにしては上等◆
紹介が遅れたが、本作はベトナム戦争を扱っていながら舞台がベトナムではない…というダマしみたいな戦争映画である。
というか、ルイジアナ州のポーク基地で戦争の準備をする兵士たちを描いた作品なので、戦争をしないという意味では戦争映画ですらないという裏切り。
ポーク基地で訓練を積んだ兵士たちは「タイガーランド」と呼ばれる最終訓練地で一週間の模擬訓練を受けたのちにベトナムに駆り出される。新兵たちがベトナムに出征するところで映画は終わるので実戦シーンはまったく描かれないのだ。
『フルメタル・ジャケット』(87年)の前半だけを薄ーく引き延ばしたような映画。
それに、もともとコリン・ファレルという役者は実戦を好まない。『S.W.A.T.』(03年)では特殊部隊の結成・訓練にウエートを置き、『ジャスティス』(02年)もまた戦闘なき戦争映画だった。
実戦よりも準備を好む奴なのである。
※実戦ではなく訓練風景です。
監督は(先ほどチラっと名前を出してバカと侮蔑したが)ジョエル・シュマッカー先生。
当ブログでは『セント・エルモス・ファイアー』(85年)と 『評決のとき』(96年)で二度こき下ろしているが、数々の作品でポンコツぶりを発揮してきたハリウッド切っての大馬鹿垂れである。
だがファーストシーンのカメラぶん回しを除けば『タイガーランド』は比較的まともな作品だ。最初の20分は「えらいもんに手ぇ出してもうたな…」と暗澹たる気分だったが、観終えるころには「あれ? わりと面白かったな…。なんで?」と。
「シュマッカーなのに?」と。
さすがに舐めすぎか。
訓練を拒否する主人公の態度を通してベトナム戦争終盤の気だるい空気が描き出されているし、反戦映画に付き物のメロドラマにも堕していない。
ファレ坊は心身ともに限界を迎えた仲間を次々に除隊させてやる「救済者」で、上官に隠れて軍の解体工作をおこなっていく愛と平和のインサイダー。
そんな彼の反戦思想が「思想」としてではなく「行動」として描かれるので、これは正しくドラマである。メロドラマではなくドラマ。
ちなみにシュマッカー先生がドラマを撮ったのは『タイガーランド』と『フォーリング・ダウン』(93年)だけ。
主なシュマッカー作品。『フォーン・ブース』(右上)もコリン・ファレルの主演作だし『ヴェロニカ・ゲリン』(右下)でも脇役で登場。
◆なぜドグマ95…◆
本作はドグマ95のスタイルで作られている。
ドグマ95とは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00年)で知られるラース・フォン・トリアーを中心として1995年に始まったデンマークの映画運動のこと。
撮影はすべてロケでおこなうこと、手持ちカメラしか使ってはならない、人工照明・音楽・回想シーンの使用を禁止する…など10項目に及ぶ「純潔の誓い」という制約を自分たちに課すことで資本主義的なメジャー映画に異を唱えようとした、まぁアート映画集団のプチ革命だと思ってもらえればいい。
ところが、その先導者であるラース・フォン・トリアーやトマス・ヴィンターベアは「純潔の誓い」をちょくちょく破っており、辛うじてスノッブな映画マニアたちから支持されていたドグマ95は2002年に活動停止。
結局のところドグマ95とはオナニー集団による集団オナニーだった。
芸術を愛する若き映画作家たちの瞬間湯沸かし器のような革命精神でヌーヴェルヴァーグのサムい真似事をしてみただけで、その成果は「インディーズ映画こそ真の芸術!」などと恥ずかしげもなく語るスノッブな連中をいたずらに増長させただけで、映画産業に一石を投じるような鋭利で有意義な問題提起など何ひとつなされず、もっぱらマイナー志向の映画作家とマイナー志向の映画オタクたちの自閉的な馴れ合いの架け橋としてその無味乾燥たる機能を果たし、たかだか7年でみんなが飽きて早々に終わった映画運動に過ぎない。おそろしく格好悪い。
そしてなぜか本作も「純潔の誓い」を守っていてドグマ95の撮影法を踏襲している。
なんで?
だってシュマッカー先生はドグマ95が敵視するメジャー側の人間なのに。コテコテのハリウッド体質の人間が なぜドグマ95などに接近したのか…。
「なんで?」という疑問が大きすぎて、考えれば考えるほど可笑しくなってしまう。
まぁ、シュマッカー先生は好奇心旺盛だしね。そのフィルモグラフィが節操のなさを物語っているように、『8mm』(99年)ではデ・パルマの真似っこをしたり『フォーン・ブース』(02年)ではヒッチコックの密室劇を突き詰めたりと、とにかく何でもやりたがる男なので、ドグマ95に手を出しても不思議ではないのだけど…。
それにしても、なんで。
16mmの自然光で撮られるファレ坊。眉毛はぎりぎり並行を保っております。