天才デザイナーが残したハードSFの秘境的傑作。
1973年。ソール・バス監督。ナイジェル・ダヴェンポート、リン・フレデリック、マイケル・マーフィ。
砂漠の研究所で、急激に増殖した蟻の調査をする生物学者たち。同じ頃、付近の一軒家を蟻の群れが襲い、人間の体内にまで侵食していく。科学者たちは蟻の掃討を図るが…。(Amazonより)
私は『スター・ウォーズ』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』…、日本でいえば『宇宙戦艦ヤマト』とか『機動戦士ガンダム』のような、いわゆるスペースオペラにはトコトン無頓着な人間で、どちらかといえばハードSFの方が興味が持てるのだけど、『ゼロ・グラビティ』、『インターステラー』、『オデッセイ』のように宇宙に行っちゃうハードSFにはあまり興味が持てない。
宇宙行っちゃうとダメみたい。
だけど、地球を舞台にしたハードSFはわりと好きで、古くでいえば『ミクロの決死圏』、最近のものだとドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』は映画としての完成度も非常に高く、お気に入りの一本である。
そして本作も、地球を舞台にしたハードSF映画の隠れた傑作。
映画評論家の町山智浩さんが復刻させた幻の作品。人間と蟻の戦いを科学的に描いたたいへん地味な作品だが、語るべきところは多いです。
まず、後にも先にも蟻に演技をさせた映画はこれだけでしょう。
哺乳類は賢いので演技はできる。犬とか猿とかシャチとかさ。
でも蟻って。
撮影中に5秒間じっとしていられないトカゲに苛立った大島渚が「どこの事務所だ!」とトカゲに怒ったエピソードを思いだすまでもなく、昆虫とか爬虫類に演技をさせるのはまず不可能。
しかし、本作の蟻はオスカーばりの演技をしている。俳優としての蟻を堪能できる作品なのだ。蟻マニアや自称昆虫博士の皆さんが観ない理由などひとつとして存在しないのである。ぜひ『アントマン』と合わせてどうぞ。
蟻男の活躍を描く『アントマン』。
「小さい」は強い!
さてそんな本作、『めまい』や『サイコ』のタイトルデザインで知られるグラフィックデザイナーのソール・バスが監督した最初で最後の長編映画である。
やはり骨の髄までアーティストなのだな。バカげた邦題とは裏腹に、そこには『猿の惑星』や『2001年宇宙の旅』の文脈を掬い取っていく鮮やかな手並みと、ミクロ撮影で映える細密な蟻の造形に腐心した職人技が見てとれる。
ソール・バスが手掛けたタイトルバック(ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』)。
原色を使った幾何学的な画面構成が特徴。彼の出現により、世界中の映画が「タイトルバックも大事だよね」といって見せ方に凝りだす。
言葉なき蟻の生態が淡々と映し出されるファーストシーンの10分超のコマ撮り。
ここでは蟻の足や頭が超クローズアップで偏執的に描かれる。微細なテクスチャーや身体の構造を粘っこく観察するカメラは、その後、蟻の研究/駆除にやってきたナイジェル・ダヴェンポートとマイケル・マーフィに対しても等しい冷淡さで向けられる。
もし別の「映画監督」が本作を撮っていたら、きっとここまで無機的な質感のカメラにはならなかったはずだ。グラフィックデザイナーのソール・バスならではの観察欲求が、ディテールに対するフェティッシュなまでの官能性を生起せしめている(何より、絵を描くことはモチーフの観察から始まります)。
高くそびえ立つ蟻塚と『2001年宇宙の旅』のモノリスの類似点こそが本作の裏側を絵解きするための近道。
だが本作は、突き詰めて考えると蟻ではなく人間についての映画である。
蟻とやり合う気満々のダヴェンポート博士はライフルで蟻塚を木端微塵にしてしまい、どう見ても人体に悪影響を及ぼしそうな黄色い殺虫剤を撒きまくると、それを浴びた農家の人たちが案の定死んでしまう。 ええー。
人を殺してしまったことを何とも思わず、狂ったように蟻の駆除に没頭していくダヴェンポート博士は、『白鯨』におけるエイハブ船長である。
ハーマン・メルヴィルのこの世界文学は、キリスト教の七つの大罪のひとつ「憤怒」に駆られたエイハブ船長の行動が、次第に「復讐」という名目にすり替わり、挙句には「大自然への挑戦」という誇らしい美談に肥大してゆくが、やろうとしていることは単なる鯨の殺害で、そこに人間の傲りがあり、最後は捕鯨船もろとも海の底へと引きずり込まれてしまうというメルヴィルの代表作だ。
鯨に取り憑かれたエイハブ船長と、蟻に魅せられたダヴェンポート博士の妄執的な狂気は、たとえば科学者の病的な好奇心や政治家の自己讃美といったエゴに演繹される。
ダヴェンポート博士に向けられた冷たいカメラは、まるで「人間はどこまで愚かになれるのか?」と問いかけているようだ。
口数の少ない美少女リン・フレデリックは『猿の惑星』のリンダ・ハリソン的なポジションで、おっさんとおばはんと蟻しか出てこないこの映画の中で唯一の清涼剤。
眠っているときに素肌の上を蟻が這い、それに気付いた彼女が泣きそうな顔で「あっちへ行って…」と呟いて畏怖するシーンを、映画評論家の町山氏はレイプのメタファーであると論じています。
そうそう、劇中の「生物として全く無駄がない完璧な生き物だ」という台詞は『エイリアン』でも使われているが、『エイリアン』もまたレイプのメタファーに満ちたSF映画である(これが単なる偶然ではないことは、本作のスタッフが『エイリアン』へと引き継がれ、ソール・バスが『エイリアン』のタイトルデザインを担当していることが傍証しています)。
リン・フレデリック…惑星爆破級の圧倒的美少女だが、C級映画にちょろっと出演しただけで映画界から姿を消した謎多き女優。アルコール依存により1994年没。
そして、蟻に犯され洗脳されたリン・フレデリックが、顔と手だけ出して地下の流砂に埋もれている幻想的なラストシーン。
虚空を見つめる瞳と半開きの口は、ミレーの絵画『オフィーリア』に符号する(どうでもいいけど『崖の上のポニョ』のグランマンマーレや、『魔法少女まどか☆マギカ』の美樹さやかを見るにつけ、オフィーリア・コンプレックスを扱ったアニメって割と多いみたいです)。
ミレー作『オフィーリア』(1851年)
シェイクスピアの『ハムレット』に登場するキャラクター、オフィーリアの死に様を描いた絵画。芸術の分野だけでなく、映画や音楽などポップカルチャーでもしばしば引用される。
また、『2001年宇宙の旅』の血を継いだ本作が後世のSF映画に残した遺伝子は『エイリアン』だけではない。
本作の蟻のように、その神秘的な生命に魅せられた人間が次第に狂っていくさまは『未知との遭遇』に連なる。あのマザーシップが巨大な乳房としてデザインされたように、本作の巨大な蟻の巣も胎内を表象しているのだ。
どうして女王蟻の居場所や蟻の言語が解析できたのか、といったロジックを大いに欠き、魔法の言葉「わかったぞ!」の一言であっさり謎を打開してしまう強引な展開は御愛嬌(どうしてわかったのかは説明してくれない)。
『惑星ソラリス』の系譜と言ってもいい、この哲学的なソール・バスの物静かなハードSF映画は、まるで「筋を楽しみたい奴は『スター・ウォーズ』でも観てな」と啖呵を切るように、映画監督ではなくアーティストとしての矜持に貫かれている(ちなみに本作の2年前に、ジョージ・ルーカスは『THX 1138』という物静かなハードSFを撮っているのだけど)。
宇宙で大冒険のSFもいいけど、おっさんが蟻塚をぶっ壊しまくるSFもたまには良いものでございますよ!
最近、蟻を見てないなぁ。元気にやっとんのかな。