ゆで卵が愛を結ぶ板東映画の極北!
2017年。ギレルモ・デル・トロ監督。サリー・ホーキンス、マイケル・シャノン、リチャード・ジェンキンス。
1962年、米ソ冷戦時代のアメリカで、政府の極秘研究所の清掃員として働く孤独なイライザは、同僚のゼルダと共に秘密の実験を目撃する。アマゾンで崇められていたという半魚人の特異な姿に心惹かれた彼女は、こっそり彼に会いにいくようになる。ところが彼は、もうすぐ実験の犠牲になることが決まっており…。(Yahoo!映画より)
待ちに待ったギレルモ・デル・トロの最新作。初日に観てきました。感無量っすわ。
3月5日に控えたアカデミー賞の本命作品だけど、笑ってしまうぐらいの性描写と、なかなかの暴力描写があるので受賞は難しいかもしれない(べつに受賞する必要なんて微塵もないのだが)。
Q.ギレルモ・デル・トロって何トロ?
A.上トロです。
ギレルモ・デル・トロ…日本の漫画や特撮映画に影響を受けた怪獣&ロボット大好きのガチオタ監督。メキシコ出身、百貫デブ。
代表作に『ミミック』(97年)、『ヘルボーイ』(04年)、『パンズ・ラビリンス』(06年)、『パシフィック・リム』(13年)など。
とにかく奇怪なクリーチャーデザインに定評がある。
グロかっこいいデザイン造形にかけては他の追随を許さない!
そんなデル・トロが、ゴシックホラーの麗しき傑作『クリムゾン・ピーク』(15年)に続いて撮った新作が『シェイプ・オブ・ウォーター』。
純愛映画としては『キャロル』(15年)ぶりの傑作だ。
女性同士の恋愛を描いた『キャロル』と同じく、やはりの格の違う映画は美男美女のおキレイな恋愛ごっこに関心など示しません。
そう、ここで描かれるのは発話障害の中年女性清掃員と半魚人のロマンスなのだから!
ちなみに本作は、幼少期に『大アマゾンの半魚人』(54年)を観たデル・トロ少年が「もしジュリー・アダムスと半魚人が結ばれていたらステキだろうなぁ!」というもしも話を40年越しに映画化したもの。まさにオタクの夢、爆叶いである。
さてさて、おキレイなものだけで煌びやかに装飾されたハリウッド・ロマンスをこれでもかと逆張りする本作には、筋金入りのオタクであるデル・トロ少年の情動が狂おしいほどに横溢しています。
ヒロインのサリー・ホーキンスは、発話障害を抱える夜勤清掃のおばさん。
毎晩、ゆで卵を作り、風呂に入りながら割と激しくマスターベーションをするという素敵なルーティンをこなして、夜通し政府の研究施設でモップ掛けや便所掃除をしている。
ゆで卵を並べて半魚人の召喚を試みるS・ホーキンス。
同居人のリチャード・ジェンキンスは売れない老画家。
ダイナーで不味いパイを振舞ってくれる男性店員に片想いしているゲイの老人で、S・ホーキンスと一緒にダイナーに行ってはクソ不味いパイを食いながらパイ男に熱視線を送るという素敵なルーティンをこなしている。
「頭触ってくれーい」とおねだりする半魚人の頭を触ってあげた翌日、R・ジェンキンスのハゲた頭部に毛が生えた!
そして半魚人。
南米でとっ捕まって、ヒロインが働く政府の極秘研究所に拉致られてきた不思議ないきもの。
S・ホーキンスがマスターベーションの片手間に作ったゆで卵を板東英二なみに好む。以下、板東と呼びます。
パチクリ、パチクリする瞬きがベリーキュートなのですよ!
頭を触ると喜ぶ。
そしてこのメイン三人は差別を受ける社会的弱者である。
聾唖のS・ホーキンス、ゲイのR・ジェンキンス。そして半魚人の板東。
ちなみに、ヒロインの職場仲間が黒人女性のオクタヴィア・スペンサー。デジャブ~。ついこないだ観た『ドリーム』でも研究施設でコロコロしてたぞ、この人(しかも時代背景までまったく同じ東西冷戦下)。
オクタヴィア・スペンサーを研究施設でコロコロさせるっていうのが昨今のトレンドなのだろうか?
オクタヴィア・スペンサーのコロコロした感じ、ほんと可愛いな。
ここでおもしろいのは、本作が下敷きにした『マイ・フェア・レディ』(64年)との関連性。
『マイ・フェア・レディ』は、言語学者のレックス・ハリソンが、口が悪く訛りの強いオードリー・ヘップバーンを訓練して品格あるレディに仕立てあげるミュージカル・ロマンスだ。
実際、S・ホーキンスは撮影中に「オードリーのように演じてくれ」とデル・トロから指示されており、彼女が扮するイライザというキャラクターは『マイ・フェア・レディ』でのオードリーと同じ役名。
だが、言語教育を通して男女が惹かれ合っていく『マイ・フェア・レディ』に対して、本作のS・ホーキンスと板東は、ゆで卵や手話を使ってコミュニケーションを図り、愛を育んでいく。言葉が話せないS・ホーキンスと板東は、非言語的な手段で意思疎通するのである。
悪く言えば『マイ・フェア・レディ』は「女は女らしくあれ」といったジェンダー的固定観念に囚われた作品で、そこに対してデル・トロは「やかましいわ!」と意趣返ししているのです。
言葉や文化、果ては種が違っても恋愛はできるんだよ、と。
分かり合えるんだよ、と。
名匠ジョージ・キューカーの作品で、やたら名作扱いされてる割にはそれほど良い映画とは思えない『マイ・フェア・レディ』。
また、テレビで東西冷戦や黒人弾圧を報じるニュースを見て「チャンネルを変えてくれ!」と言ったR・ジェンキンスが、S・ホーキンスと一緒にソファでミュージカル映画を楽しみながらタップを踏むシーンに顕著なように、ミュージカル映画に対する理性的な批判が加えられているあたりも面白い(世界恐慌から冷戦時代まで、ミュージカルは現実逃避のための映画として作られていました)。
そして、無垢な板東を執拗にいたぶるのがマイケル・シャノン演じる鬼軍人(『狂気の行方』でフラミンゴを人質に取って「太陽が東から昇るのが許せない」という名言を吐き捨てた男である)。
板東に食いちぎられた指二本をどうにか縫合するも、その指は日増しに腐って黒ずんでいく(この男の邪悪な心をうまく表現してます)。
しかし、ただ残忍な悪役として描かれているわけではない。彼にも家庭はあるし、「新車が欲しいなぁ~」と言って車も買いに行くし、息子が学校に行ったあとに妻とセックスだってしまくるわけですよ。
しまいには冷血漢の将軍に「2日以内に逃げた半魚人を捕まえなかったらおまえを消すぞ」とバッチバチに怒られて半泣きになりながら探し回りもする。
ちなみに、手を使わずに用を足すことができるという上級小便テクの持ち主でもある。
ここからは映画論めいた話になっていきます。
まずは青緑を基調とした色彩設計。非常に美しいですね。心が安らぎますね。
主舞台となるアパートと研究所だけでなく、衣装や車など、すべての被写体が青緑で塗り固められている。
新しい自動車を買いにきたマイケル・シャノンにディーラーは言う。
「これからは緑の時代ですよ!」
なぜデルトロは緑・青緑を基調色に選んだのか。作品のイメージカラー、あるいは赤(愛と暴力のメタファー)が映えるように…など色彩論的な根拠もあるが、なにより緑系統が自由を象徴する色だからだろう(反対に赤は共産主義の色)。
とにかく画面全域が青緑!
お次はバスタブ論。
おばさんヒロインのS・ホーキンスが毎晩マスターベーションをしていた自宅のバスタブは、研究所から脱出させた板東を匿う場となり、遂に二人が結ばれる愛のベッドとして結実する。
それまでS・ホーキンスに、横臥(寝る、横たわる)のイメージがバスタブでのマスターベーションしか用意されてなかったのは独り身の彼女の孤独を表現するためでしょう(だから通勤時に帽子を枕がわりにしてバスの窓に頭を凭れ掛けさせるのです。彼女の恋愛願望をさり気なく表現した良いシーン!)。
だけど孤独のバスタブに板東を迎え入れてひとつになったことで、自らを慰めるバスタブは愛のベッドへと変わり、挙句の果てには海そのものになってゆく。
バスタブというモチーフひとつで板東とのロマンスを描ききった巧い演出。ベリグー。
浴室で結ばれる二人。
また、デル・トロの超個人的な「みんな、奇怪なクリーチャーを気持ち悪がるけど、基本的には人間の方が醜いよね」という人間嫌悪イズムがドロッと出ているあたりもデルトロファン必見。
ごめん間違えた。厳密には人間嫌悪ではなく人間の身体とか生理現象に対するデル・トロの嫌悪感ですね。
マスターベーション、セックス、小便…。そんな(説話的にはほとんど必然性のない)描写の数々…。
あるいは、指がちぎれるとか頬に風穴が空くといった、「人体欠損」というよりも人体のデザインを歪める悪趣味な描写も相変わらずで(『パンズ・ラビリンス』でもまったく同じゴア表現がありましたね)。
あ、あと猫も死にます。かなりむごい死に方なので猫マニアは要注意。
だけど、やっぱり美しい映画だったなぁ。
あのラストシーンがリアルかファンタジーかについては野暮なので語りません。野暮なので語りませんが、事前に『パンズ・ラビリンス』を観ていれば分かります。
デル・トロはファンタジーというものを深いところで理解していると思う。現実逃避のための絵空事がファンタジーなのではなく、むしろ苛烈な現実と向き合うための現状認識こそがファンタジーであることを。
だから『デビルズ・バックボーン』然り『パンズ・ラビリンス』然り、デルトロの幻想譚は必ず戦時中(スペイン内戦)が舞台なのです。