シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

最低で最高のサリー

俺たちは常に死にかけだ。

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2011年。ギャビン・ウィーゼン監督。フレディ・ハイモアエマ・ロバーツ、マイケル・アンガラーノ。

 

将来の希望が見えず進む道に悩む学生のジョージはある時、学校の屋上でクラスメイトの美少女サリーと親しくなる。ジョージは初めて自らの心の内を明かすことができた明るいサリーに恋心を抱くが、サリーは彼の気持ちに気づきつつも、恋人にはなれないと告げる。(Yahoo!映画より)


人はいつか死ぬ。だから何をやっても意味がない。友達が大勢いても、恋人がいても、動詞の活用の宿題を頑張ってやっても、直角三角形の斜辺の平方根を求めても、死から逃れられることはできない。勉強なんかしてる場合じゃない

 

主人公、フレディ・ハイモア君のヴォイス・オーバーに始まる本作。
何たるオープニングだよ。

14歳の頃の自分を見ているようで猛烈に恥ずかしくなったよ。

14歳。人の一生の中でいちばんヤバい歳である。

このときの私は、一年のうちのほとんどを死への沈思黙考に費やしていた。といっても別に自殺願望を持っていたわけではなく、ただ単に「死ってNANI?」という哲学的な思索を365日繰り返していた…というだけの話だ。

映画も観ず、音楽も聴かず、友達ともあまり遊ばず、休日に野鳥を見に行くこともなく、家でも学校でも耳を塞いで死だけを想っていた。したがって当時の想い出は何もない。Blackout。これが一度目。


二度目は19歳のときに訪れた。

歩いてるときも、メシ食ってるときも、風呂に浸かってるときでさえ、一心不乱に太宰治を読み続けた一年間だ。

ここらへんで私の死生観は固まり、とどめは某ロック歌手の「敗北と死に至る道が生活ならば…」というフレーズ。人生とは緩やかに死に向かうこと。明日死ぬかもしれない。明日と言わず、後で死ぬかもしれない。俺たちは常に死にかけだ。
そして何かを諦めた人間はすでに死んでいる。ならば生のエネルギーとはなんだろう、と自問した。

怒りだろうな。

怒りが足りない、と結論した。

怒りといっても、べつにヤカラみたいに何にでもすぐにキレることではない。やんごとない事態に直面したとき、てめぇのシステムで対処することだ。

たいていの場合、怒りの正体とは疑問である。わけがわからないから人は怒る。ならばその疑問を論理的に解消していくことで、私はいい感じになれるはずだ。

そんなわけで、私は太宰治から逆説的に光明を得た。ひとり文明開化の音がした。

これからは常に怒っていこうと心に決めた、19の夜。

ただしあくまで理性的に怒る
まぁ、なんだ。とりあえず怒りのボルテージをキープしていれば何度ぶっ殺されても立ち上がれるんじゃないかなと思う。人は。

…み・た・い・な、私の面倒臭い思惟をまるごと映画にしてくれたのが本作だ。どうもありがとうねぇ。お礼を言いながらお辞儀します。

ただ少し違ったのは、この主人公は生のエネルギーを怒りではなくとした。
勉強をしなさすぎて卒業が危ぶまれる主人公に、美術の堅物教師が「この課題をクリアすれば単位をやろう」といってうまい話を持ちかける。その課題とは、なんでもいいから自分の激情を絵にぶつけること。上手いも下手もない。ただ激情のままにカンバスの上を舞え、と。

そこで主人公が描いたのが最愛のヒロインだった。「それはいちばん描いちゃいけないモチーフなのでは」と思った。「結局愛かよ!」とも思った。

うーん…、いつも最後は愛が勝つんだよなぁ。KANじゃないんだから。

 

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チャーリーとチョコレート工場(05年)の主演坊主フレディ・ハイモアは、立派に成長したと思う。

寄る辺ない佇まいが、何ひとつ確信が持てない思春期の少年の情けなさを瑞々しく表現していて、「もしかしてフレディ・ハイモアは12%ぐらいの確率でいい俳優になるかもしれない」と思った。

 

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そしてヒロインのエマ・ロバーツ。ロバ顔女優ジュリア・ロバーツの姪である。

個人的には、この娘の三白眼がとても好き。

その思わせぶりな態度と、やたらに親友以上/恋人未満のしゃらくせえ距離感を大事にしたがる、ズルくてメンドーな感じがいい。


(というより人付き合い全般)に奥手な主人公と、遊び慣れているヒロイン。恋愛ゲームにおいてどちらが主導権を握っているかなんて一目瞭然なのに、カメラは互いの顔を同じサイズで切り返して同じ地平に立たせる。主人公に肩入れしている私からすれば、これほど残酷な仕打ちもない。

この主人公は「ヒトはいつか死ぬから頑張っても意味がない」というニヒリスティックな持論を言い訳に、無気力になって勉強をしない。

これに対して、母親はスクールカウンセラーに相談してみたら?」と提案するが、この提案はおよそ考えうる限り史上最低の提案である。

スクールカウンセラーに相談してみたら?」

バカみたいだ。

この母親は何も分かっていない。

もしそこで「ロックを聴きなさい!」と言っていれば、無気力なんて一発で解決していたと思うぞ。

とどのつまり、この主人公の不運は、最もロックを聴くに相応しい状況なのにロック・ミュージックとの出会いを果たせなかったことだ。

成人男性10人分のパワーを込めて「ドンマイ」と言わせて頂きます。

 

この世にはロックが必要な人間というのがいる。

「自分は何者なのか?」なんて実存主義的な葛藤を抱えて日々を悶々と過ごしていたり、「常識とされてることは本当に正しいのか?」なんて世界の秩序己の感覚との齟齬に懊悩を繰り返したり、愛と労働の狭間で生活の何たるかを考えたり、何かを表現することで何者かになろうとしているような人民である。

裏を返せば、世界や自分に対してなにひとつ疑問を持つことなく、人生において特になにも問題を抱えていないような健康な人間はロックンロールなど聴く必要がないのだ。

だがこの主人公は違う。

ロックと出会うことで、目下ぶち当たっているクソみたいな問題の突破口を見出せるかもしれないし、冷めたツラに情念の炎が宿るかもしれない。今よりもタフな思想を持つことができるかもしれない。

 

こんなどん底のクズ状態で、もしもボブ・ディランと出会えていたら?

もしもピンク・フロイドと出会えていたら?

映画でもいい。もしも狼たちの午後(75年)を観ていたら?

もうアニメでも何でもいいよ。『らき すた』とか観ていたら?(余計ダメになるか)
つまり私がこの主人公に言いたいのは、「音楽でも映画でもいい。行き詰ったら何でもいいから何かを漁れ。いつなんどき赤レンガで頭をぶっ叩かれるような衝撃を喰らって人生が変わるかわからんぞ」ということ、ザッツオールである。

以上。

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映画としてはよく出来てるけど個人的にあまり好きになれない『(500)日のサマー』(09年)のスタジオが作っている…ということでかなり警戒していたが、杞憂、勘繰り、取り越し苦労。

ヒロインと結ばれた翌朝に突然踊り出したりもしないし、ビートルズではリンゴ・スターが一番好き」とか言い出さない。

確かに不思議ちゃんキャラでイニシアチブ取りまくりのヒロインという面では『(500)日のサマー』と似ているが、砂糖菓子のようなポップ感は希薄で、むしろ黒を基調とした寒色によって青春の負の側面を描き出している。何よりフレディ坊やの哲学が前面に出されていて、キャラクターに血が通っている。

 

ヒロイン像としても、私の場合はズーイー・デシャネルより断然エマ・ロバーツだ。
エマ・ロバーツロックな顔立ちが、「人生は無意味」とか考えている主人公の内奥を鋭くエグる。おまけに白い顔に黒のアイシャドウ。

あぁ、すでに主人公はロックとの出会いを果たしていたんだね。エマ・ロバーツという生意気なロック娘に。