シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ブルーベルベット

我々は夢もなく眠り続ける

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1986年。デヴィッド・リンチ監督。カイル・マクラクランイザベラ・ロッセリーニデニス・ホッパー

 

ノース・キャロライナ州ののどかな田舎町。急病で倒れた父を見舞うために帰郷した青年ジェフリーは、病院からの帰り道、切り落とされた人間の片耳が野原に落ちているのを発見する。警察に通報した彼は、ドロシーという女性が事件にかかわっていることを知り、好奇心から彼女に接近するが…。(映画.com より)

 

このブログでは以前『狂気の行方』(09年)軽くつつくみたいに言及しただけのデヴィッド・リンチ

私は生まれながらのリンチフリークで、「そろそろこのブログでもリンチの話をしていきたいな」というリンチ言及欲求が頭をもたげ始めたので、手始めにブルーベルベットを評論します。

すでに観た人向け、あるいは映画好きに対して書いた文章なので、普段よりもマジメ路線です。マジメ路線のオレも受け入れてくれよ!

 

以前、軽くつつくみたいに言及した記事はこちら

 

 

蜘蛛の糸

デヴィッド・リンチが映画を撮らなくなってから10年が経つ。

ここ近年は、デュランデュランのライブDVDの制作、海外ドラマツイン・ピークス(90年)の続編制作、あるいはコーヒー豆の有機栽培をはじめ、トランペットの演奏や立体造形の制作などに取り組んでいる。自身のホームページで天気予報も始めた。

そんなことしてる場合か!

「明日は晴れだッ!」と言われても、おまえの髪型を見ると台風の予感しかしないよ!

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いつ見ても台風みたいな髪型をしているデヴィッド・リンチ


業を煮やした私は、いま一度リンチ作品を観返すことでどうにか留飲を下げようと試みた。
思えば、映画人生に片足を突っ込みかけた頃、私はリンチに傾倒した。あれから十年以上が経ち、それなりにいろいろな映画を通過してきた今、改めてリンチを観返すと、その締まりのないショットに愕然とすることがある。 リンチ映画とは、映画にハマり始めた人間が易々と絡み取られる蜘蛛の糸なのだ。

だが現実への猜疑心や実存主義の狭間で揺れる人間にとって、リンチ映画は大いなる救済でもある。思春期の頃から、世界と自分との繋がりに確信が持てずに西洋哲学なんかをハンパにかじった私のような人間にとっては、特に。

 

シュルレアリスム

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ブルーベルベットといえば、赤いバラが咲き誇る庭のオープニングシーンが有名だ。

町では緑のおばさんがスマイル満点で子供たちを誘導し、消防車に乗った消防隊員がカメラに向かって微笑みながら手を振る。幸福で平和な50年代アメリカの田舎風景がコマーシャル映像のようなわざとらしさで映し出されるのだ。
しかしそのあと、庭で水撒きをしていたおっさんが発作を起こして卒倒する。おっさんが倒れた芝にカメラがズームすると、その奥深くの土の中では得体の知れない蟲がワラワラとうごめいていた。

見せかけの幸福の裏では暴力と不条理が渦巻いている50年代アメリカの暗示。

さぁ、リンチワールドの始まりです。


カイル・マクラクラン演じるジェフリーは、のどかで平和な町と理想的な家族に囲まれ、この世の暴力や不条理とは無縁の世界で育った健やかなるボーイ。

だが廃屋の茂みで人間の耳を拾ったことから、好奇心に駆られて謎を追ううちに邪悪な世界へと足を踏み入れてしまう。
ジェフリーが拾ったものがなぜ耳なのかという疑問について、「意味なんてない。それがリンチの映画だ」と思考放棄した野卑な評が散見されるように、とかくリンチは「シュール」の一言で片づけられて「雰囲気を楽しめばいい」とハナから考察を拒否されがちだが、シュルレアリスム雰囲気とかなんとなくでごまかせるようないい加減な芸術思想ではない。意味は存在する。
ジェフリーが拾ったものが耳であらねばならない理由は、耳とは意識の底部へと続く迷宮の象徴だからだ(耳と意識の関係性はモレッリ式鑑定法に詳しい)

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ジェフリー坊やは廃屋の茂みで人間の耳をゲットする。

ジェフリー「なんだこりゃ」

「なんだこりゃ」じゃねえ、どう見ても人間の耳だろ。よく触れるな、おまえ

 

③ママー! ママー!

ジェフリーがイザベラ・ロッセリーニ*1演じる謎の女との肉欲に溺れ、彼女を性的奴隷にしている狂デニス・ホッパー*2にその関係が露見したことで「楽しいドライブ」に連れられる中盤以降には、赤い部屋口パク歪んだ顔奇妙なダンスなどリンチ的記号が網羅されている。

やはり特筆すべきはD・ホッパー演じるクレイジーなギャング亜硝酸アミルのガスを吸うことで性的興奮を高め、「ママー! ママー!」と絶叫しながらI・ロッセリーニを犯すのだ。しかもボコボコ殴る!

この役があまりに強烈すぎて、以降D・ホッパーは「マジでイカれた俳優なんじゃないか…?」と思われ、人々からドン引き&敬遠され続けた。

だが私生活のD・ホッパーは芸術を愛する知的な文化人で、彼が2発の銃弾を撃ち込んで穴をあけた毛沢東肖像画を自らオーディションに出品するというよくわからない活動などをしている。

さぞリンチとは気が合っただろう。

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ガスを吸いながら女を殴りまくるホッパー先生。キチガイ沙汰のド変態である。

 

④工業地域と幸福の青い鳥

リンチフリークとして論考の俎上に載せておきたいのは、彼の出身地フィラデルフィア=工業地域へのトラウマが反映されている点。

デニス・ホッパーが人気のない真夜中の工場地帯に連れていってジェフリーを痛めつけるシーンにも顕著だし、ライトアップされたアパルトマンの壁にシルエットとして映る形も工場の機械である。

また、処女作イレイザーヘッド(77年)では工場から発せられるノイズが通奏低音のようにずーっと鳴り響いてるし、ツイン・ピークスでも製材工場は悪の巣窟として描かれていた。

なんぼほど工業地域を嫌っているのか。

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リンチは廃工場をテーマにした写真展を開くほど「工業地域」というものに取り憑かれている。


あえて50年代アメリカの裏側を陰鬱に捉えた本作は、60年代から激化したベトナム戦争や倒錯した文化といった暗澹たる歴史が決してその時だけの問題ではないことを説く。

いつの時代だって、一見平和に見えてもその水面下ではむごたらしい暴力や不条理が渦巻いているのだ。

特に50年代のアメリカ映画は、括弧つきで言わせてもらうが…「クリーンで健康的」だ。ヘイズコード(検閲制度)によって性描写や暴力表現がバリバリに規制されていたので、この時代の映画は異常なまでにお行儀がいい

女優は下着姿にはならないし、手術や殺人シーンも見せない。同性愛も異人種間混交もダメ。汚い言葉遣いもダメ。おまけに「キスシーンは3秒まで」というクソみたいな禁止事項まであったのだ!(馬鹿馬鹿しすぎて涙が出る)

だからこそリンチは、そんな上っ面だけお綺麗な50年代をあえて時代背景として選び、「アホか。いつの時代だってセックスはするしキチガイはいるだろ」と言ってエロ・グロ・バイオレンスの暗黒世界(まさに現実)を突きつけたのだ。


残酷だが蠱惑的でもある悪夢からようやく抜け出したジェフリーのもとに、ようやく平穏が訪れるラストシーン。窓際に幸福の青い鳥がとまって虫を食べている。だがその鳥は明らかに木で出来た作り物だ
作り物の幸福の中で、われわれは眠り続ける。夢もなく眠り続けるのだ。

 

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頭に銃弾を喰らって立ったまま死んだ男(左)が印象的。おまえは弁慶か。

*1:イザベラ・ロッセリーニ…イタリアの巨匠監督ロベルト・ロッセリーニと大女優イングリッド・バーグマンの娘。よくおっぱいを丸出しにする女優。

*2:デニス・ホッパー…監督・脚本・主演を務めたイージー・ライダー(69年)はアメリカン・ニューシネマの草分けであり、世界中の映画がこぞって本作のスタイルを模倣し始めた。俳優としての代表作は地獄の黙示録(79年)トゥルー・ロマンス(93年)『スピード』(94年)など多数。殺し屋みたいな顔をしているので悪役が多いが、趣味でやっている絵画は画家並みに上手く、芸術全般に造詣が深いインテリ。2010年没。