ポストジブリに対する厳しめの応援歌。
2017年。米林宏昌監督。アニメーション作品。
田舎町の赤い館村に引っ越してきた11歳の少女メアリは、7年に1度しか咲かない不思議な花「夜間飛行」を森の中で発見する。それは、かつて魔女の国から盗み出された禁断の花だった。一夜限りの不思議な力を手に入れたメアリは、魔法世界の最高学府・エンドア大学への入学を許されるが、メアリがついたある嘘が大きな事件を引き起こしてしまう。(映画.com より)
けっこうボロカスに批判しているのでジブリ信者の気分を害してしまうかもしれませんがそんなところまで配慮していたら批評なんてできなくなってしまうので遠慮というリミッターを外させて頂きたい私なんかが今日を闊達に生きています。アリス。
①この船、大丈夫か?
元スタジオジブリのプロデューサー西村義明が、米林宏昌を輝かせるために設立した制作会社スタジオポノックの長編第1作目となる本作。
要するにジブリという沈みかけの船から新たな船に乗り換えた二人の門出なのだが、「作ったばかりでピカピカの船だけど、こっちもすぐ沈みそうだな…」という不吉な予感がして仕方がない。
宮崎駿、高畑勲、鈴木敏夫の三頭政治が終わり、あとに残ったのはボーっとしたプロデューサーの西村義明と、批評的には『借りぐらしのアリエッティ』(10年)、興行的には『思い出のマーニー』(14年)で派手にやらかした米林宏昌。
うーん、心許ない。
劉備も趙雲も諸葛亮も死んだあとの蜀みたいな頼りなさ。
がんばれ米林! 映画はアレだけど、おまえの顔けっこう好きだぞ!
見た目がお米みたいで可愛らしい米林宏昌。
②人がいねえ問題
そして記念すべき長編第1作目となる『メアリと魔女の花』だけど、表面的にジブリ的記号をまぶしたエピゴーネンで、ちょっと残念な出来でした。
エピゴーネン…先人のスタイルをそのまま流用・模倣した亜流。
『借りぐらしのアリエッティ』や『思い出のマーニー』のような普通の田舎風景から始まって魔女の国に迷い込む…という異界入りは楽しいのだけど、『千と千尋の神隠し』(01年)と比べるのが酷に思えるほど凡庸。
魔女の国というか、ほとんど舞台は魔法大学だけで、とてつもなく世界観が狭い。
『ゲド戦記』(06年)以降のジブリのファンタジー路線にも顕著だけど、ものすごく狭い世界の中だけでちょこちょこやっているような窮屈感がある。
あとやっぱり、『猫の恩返し』(02年)以降のジブリに見受けられる人がいねえ問題。
「この世界には20人ぐらいしか人間いないのか?」と思うほど、思いきり過疎ってるんですね、画面が。もうなんか、寂寥感たっぷり。
本作もやはりそうで、ただでさえ登場人物が少ないのに、終盤に至っては魔法大学が舞台にも関わらず学生の姿がぜんぜん見当たらないから寂しい気持ちになる。
ちなみに、ジブリ最新作(最終作?)の『レッドタートル ある島の物語』(16年)では、ついに人間が一人しか出てこないという究極のミニマリズムに挑戦している(近年のジブリにしては良い作品でしたが)。
なんだろう。近年のジブリって群衆が嫌いなのかな?
③嗚呼、米林イズム。
キャラクター造形や背景美術に統一感がないあたりは、細田守の『バケモノの子』(15年)なんかを思いだした。「このキャラとこのキャラが同じ世界に同居してるのは違和感あるよ!」っていう。とにかくキャラと背景がガチャガチャしている。
ピーターもドクター・デイもフラナガンも、過去のジブリキャラをちょっとアレンジしましたという感じで既視感バキバキの上、「デザイン的にどうなの?」と思うほど、なんか妙にダサいんですよ。
唯一よかったのはマダム・マンブルチュークだ。ジブリお得意の「太ったおばはんキャラ」の系譜だけど、でっぷりしていて存在感があった。デザインもいい。
マダム・マンブルチュークがメアリを連れて魔法大学を案内するシーンは、観ていて一番キツかったよ。
観客をガイドして本作の世界観に没入させなきゃいけない大事なシーンだけど、まぁ発想力が貧困というか、「全盛期の宮崎駿だったらさぞ胸が躍るシーンに仕上げてくれただろうな」なんてあらぬ想像をしてしまうわけです。
作画もデザインも宮崎駿のノウハウをフルに使っているのだけど、模倣に終始しちゃってるので必然的にパチモン感が浮き出てしまう。
加えて米林宏昌の本職はアニメーターなので、絵は描けても生きたキャラが描けない。
ピーターはひたすら薄いし、マダム・マンブルチュークとドクター・デイの悪役ぶりは記号的に過ぎる(昔は良い人だったらしいが、それをわざわざ回想シーンで語ってしまうという手際の悪さ)。シャーロット叔母さんに至っては全部セリフで済ませちゃうからね。
たとえば僕は、『もののけ姫』(97年)でエボシ様の腕を食いちぎったモロを「ダメでしょ、悪い子!」といってバチバチに折檻したいと思っているぐらいエボシ様というキャラクターが大好きで。記号的なヒールに終始せず、とても力強い思想や哲学を持っていて、「見ようによってはある意味正しいよな」と思わせるほど多面的なキャラクターだし、勝手にこっちがエボシ様のバックグラウンドを想像する余地があるじゃない。
そういう豊かなキャラクターが、本作では一人も出てこない。それが米林イズム。
メアリもピーターもマダム・マンブルチュークも、ただ物語を進行させるために決められた通りにセリフを言って決められた通りに行動して…っていう操り人形ですよ。
生きたキャラというのは物語に引っ張られるのではなく「物語を引っ張っていく」ものだ。
容姿だけならメアリはむちゃむちゃ可愛い。
④いや、見りゃ分かるから!
とはいえ、まぁ、魔法大学に舞台が移る中盤以降は、細かいところにバシバシ目をつむっていけば辛うじて楽しめる。
箒に乗って空飛ぶシーンとかマダムとの逃走劇で「元ジブリスタッフなのに重力が描けてない! ジブリといったら重力表現でしょうが!」とか言いたいことは山ほどあるけど、もういいよ、いいよ!
マダム・マンブルチュークの噴水ビジュアルとかドロドロかめはめ波とかはアイデア賞ものだし、高い所からポロポロ落ちていく動物たちは可愛かったしね。
中盤以降は楽しめるんだよ。細かいところにバッシバシ目をつむって、怒りや疑問という名のパンドラの箱にフタをすればな!
ただ、現在のアニメ業界を戒める意味でも、どうしても難詰しておかねばならないことがひとつだけある。
それは死ぬほど退屈な導入部に見られる説明台詞。
基本的に日本の映画やアニメは観客を子供扱いしているので、バカでも分かるように画面の中の出来事を懇切丁寧に逐一説明してくれる、異常なまでの親切設計だ(特に声優主義が極まった現在のアニメ業界では、声優の声を視聴者に聞かせるために意図的に台詞量を増している)。
たとえば本作でも、いちいち口に出して言わなくても画面を観ていれば分かることを、メアリ(杉咲花)はその都度セリフで説明してくれるんですね。ご丁寧にも。
黒猫の色が灰色に変わって「色が変わった!?」。
いや、見りゃ分かるから。
森を覆う深い霧を見て「すごい霧…」。
いや、見りゃ分かるから!
翌日、また森に入ったメアリが昨日とは違う場所に来て「昨日とは違う場所だ…」。
いや見りゃわらるらら!!!
こんなに同じことを突っ込み続けたら、そりゃ噛みもするよ。
「洗い物しながらチラチラ映画を見ている主婦層にも内容を理解してもらいたくてここまで過剰な説明台詞を詰め込んでいるのかな?」と邪推したくなるほど、起きた事をぜんぶセリフで説明してくれるのね。目隠しした状態でこの映画を観ても普通に理解できるんじゃないかと思うぐらい。
映画を観るというより、映画を聴くという未知の体験だよ。
「映画を観る上で、もはや目なんて要らないんじゃないか?」という前衛的な持論を提唱した実験作である。
というわけで本作は、生まれてから一度もジブリを観たことのない穢れなき観客、映画は洗い物しながらチラチラ見る程度の主婦層におすすめです。
まぁ、ちょっとガッカリ作だったけど、私は米林の『思い出のマーニー』は実はまあまあ傑作なんじゃないかという持論を秘かに持っているし、今回にしても「まぁ、やろうとしたことは分かるよ」と忖度できなくもない…ぐらいには良い所もあったので、今作に関しては憎からず思っています。
むしろ、だんだん米林を応援したくなってきた。次はもっと頑張ってくれな、コシヒカリ。