シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

20センチュリー・ウーマン

21世紀的自己憐憫には堕さない極上のホームドラマ

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2016年。マイク・ミルズ監督。アネット・ベニングエル・ファニンググレタ・ガーウィグ、ルーカス・ジェイド・ズマン。

 

1979年のカリフォルニア州サンタバーバラ、自由奔放なシングルマザーのドロシアは、15歳の息子ジェイミーの教育に頭を悩ませていた。そこでルームシェアしているパンクな写真家のアビーと、近所に暮らすジェイミーの幼なじみジュリーに相談する。(Yahoo!映画より)


清涼感あるポスターデザインに惹かれていた。浜辺に突っ立つ5人の男女。笑っている者もいれば、ムッとしている者もいる。なんという求心力だろう。この素晴らしいポスターは、私から「この映画を観ない理由」をひとつ残らず奪い去ってしまう。
それと同時に「雰囲気重視の洒落た映画かもしれないな」という一抹の不安もあったが、その不安は、炎上する自動車を映したファースト・ショットを観た瞬間にかくも鮮やかに払拭された。

 

もくじ

 

マイク・ミルズの祝祭的傑作

本作は、思春期を迎える息子ルーカス・ジェイド・ズマンの教育に悩む母親アネット・ベニングが、家を間借りさせている写真家のグレタ・ガーウィグやルーカス坊やの幼馴染エル・ファニングらの力を借りて、母と息子のギクシャクした関係を修復していく…というのが表向きの粗筋。
だがその実状は、1979年の世界情勢や文化的イコンをオーバーラップさせながら、20世紀の精神を包括した内容となっている。一元的なホームドラマではなく、豊かなレイヤーが幾重にも織り込まれた重畳的な作品なのだ。

 

監督のマイク・ミルズは、家族アートを主題にコソコソと映画を撮り続けているインディーズ系の映画作家だが、今回の20センチュリー・ウーマンで激賞を浴びたことで、ようやく日の目を見た遅咲きの監督だ。
親指をしゃぶる癖が治らない17歳の少年の奇妙な青春を描いたサムサッカー(05年)、ストリートで生まれたアーティスト集団がギャラリーを始めるドキュメンタリー『ビューティフル・ルーザーズ(08年)、自分がゲイであることをカミングアウトした末期癌の父親(ミルズの父親がモデル)と息子との関係を描いた人生はビギナーズ(10年)、など、ミルズ作品では絶えず家族アートが主題化されている。

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②1979年と世代間ギャップ

さて、この映画は1979年という時代背景がポイント。
当時のニュース映像が頻繁に使われたり、映画や音楽といった大衆文化の目配せによって、アネット母さん、ルーカス坊や、そして同居人たちとの人間模様が、そうした時代背景の中で語られてゆくのだ。

では、なぜ本作の時代背景に1979年を選んだのか。

「70年代後期はの始まりだからだよ。いちいち言わせんな!」とミルズは語る。少し考えて「あぁ、なるほどな」と思った。

カーター政権のあとにレーガンが掲げた「強いアメリカ」、インターネットの黎明、ポリティカル・コレクトネスという新たな価値観、第3次フェミニズム、人類存亡の危機が核戦争から地球温暖化へ…。

大量消費文化が急成長したポップカルチャーの分野では、若者たちを消費行動に駆り立てたMTVの台頭、パンク/ニュー・ウェーヴの到来、ネオ・コンセプチュアル・アートの勃興など…。

2018年に至る現代の思想/文化の基礎を成し、われわれのライフスタイルを決定づけたのが70年後期だというわけだ。

20センチュリー・ウーマンという題名は、T-REXの名曲「20TH CENTURY BOY」をもじったものだろう( 20世紀少年の元ネタとして有名)。必殺のリフだ。

 

大恐慌時代に育って第二次大戦中は空軍パイロットに憧れたアネット母さんは、グレーテスト・ジェネレーション大恐慌を経験して現代アメリカの基礎を築いた、1901~1926年生まれの世代)丸出しの親。
そしてルーカス坊やは、ジェネレーションX個人主義を貫いて社会や政治に冷めている、1965~1980年生まれの世代)丸出しのボウズ。
6つの世代に分けられるアメリカ人は、日本に比べて自分の世代というものに意識的だ。自分が生まれたときに世の中で当たり前とされていた時代精神を重んじたり、逆にコンプレックスを抱えたり。
日本でも、団塊、バブル、ロスジェネ、ゆとり…といった世代名称はあるが、それが個人のアイデンティティに強く影響を及ぼすほど意識化されていないように思う。
本作のおもしろさは、アネット母さんとルーカス坊やの親子関係の不和や齟齬が世代間闘争の比喩にもなっているところだ。

ノア・バームバック『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(14年)ほど露骨ではないにせよ、この映画のキャラクターたちは個人というよりも時代(世代)の象徴として描かれている。

にも関わらず各キャラクターがとても個性的で活き活きしているから、取り立てて何も起きないこの人間模様を何時間でも観ていたい…という気持ちになるんだね。アリス。

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③家族紹介

女手一つで息子を育てるアネット母さんは、ハンフリー・ボガートを私淑しているヘビースモーカーのシングルマザー。今の時代を生き抜くためには強さが必要だと考えている。運転中にパトカーに止められて氏名や住所を訊かれると「なぜ初対面の人間に住所まで言わなきゃいけないの? 馴れ馴れしいわ!」と盾突いてとっ捕まった。気が強いのかと思いきや、息子と口論になると意外とすぐ負ける。

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失神ゲームを卒業したルーカス坊は、酒やパンクやセックスといった大人の世界に興味津々の15歳。幼馴染みのエル・ファニングへの想いを告げるが秒で玉砕。ポスト・パンクバンドのトーキング・ヘッズにハマるものの、年上のヤンチャ坊主からは「オカマが聴く音楽だ」とディスられる。

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ルーカス坊やと仲のいいエルたんは、いちど性交渉を試みようとしたルーカス坊やに対して「セックスすると友達でいられなくなる」といって突っ撥ねた、男性経験が豊富な早熟女子。にも関わらず、毎晩ルーカス坊やの部屋を訪れては彼の隣りで眠りにつくという奇妙な就寝スタイルの持ち主(ルーカス坊やにしてみれば地獄でしかない。これぞ生殺し)。

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アネット母さんの家を間借りさせてもらっているグレタ姐さんは、子宮頸がんと闘病する写真家だ。パンク伝道師としてルーカス坊やをパンクの道をいざなう。パンクを鳴らして部屋で踊り狂うのが日課

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グレタ姐さんと同じくこの家の同居人であるビリー・クラダップは元ヒッピーの中年大工。木の話ばかりするので、ルーカス坊やからはウザがられている。アネット母さんの再婚相手の候補だったが、グレタ姐さんと肉体関係を結んでしまったことで候補を取り下げられる。

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この5人の疑似家族っぷりはアンニュイでゆったりとしているが、心地よい。まるで土曜日の昼の散歩のように。
それぞれに世界の捉え方があり、生き方がある。それぞれがのっぴきならない悩みにぶち当たっているが、「ぼく、わたし、こんなに苦しんでるんですぅー」みたいな21世紀的自己憐憫のごとき甘えには堕さず、見えないところで必死にもがいている。
なんと愛おしい5人!

 

母親役のアネット・ベニング「無冠の名女優」たる所以は、例えばメリル・ストリープジュリアン・ムーアのような迫真の芝居で場を支配せず、撮影現場をひとつの流動的な生き物として捉え、その胃袋の中で慎ましく消化されてゆく身振りにほかならない。彼女のすごいところは芝居で客を感動させようなんてさらさら思ってないところだ。

そして、いま最も旬な若手急先鋒エル・ファニング。もう19歳だってよ! 今となっては元天才子役の姉ダコタ・ファニングをすっかり追い抜いてエルたん旋風を巻き起こしている。この透明感はいつまで持つのだろう。

個人的に一押しなのはグレタ・ガーウィグだ。彼女は単なる女優ではない。マンブルコア映画自然主義を掲げるアメリカン・インディーズ一派による映画運動)の旗手であり、脚本/主演を兼任した『フランシス・ハ』(12年)は個人的に2010年代のBEST10に入るほど、まさに10年に一度の傑作だ。赤髪も最高。パンクに合わせて赤髪を振り乱しながら踊るさまは、彼女のアーティスティックな一面を端的に表象したすばらしいシーンだ。

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映像的には、ポスター写真のようなハレーションばりばりの淡くウェットな映像ではなく、原色を使ったマットな色彩に特徴がある本作。
また、他のミルズ作品にも見られるが、カットを刻むリズムが音楽のように規則的だ。

色んな映像技法でメリハリをつけるというよりも、あらかじめ決めておいた数少ない映像技法を辛抱強く繰り返すことで一定のテンポを生み出すという、ニューヨーク派の映像スタイルである。
当ブログで評論した中だと『パターソン』(16年)に近い映画の生理というか。まるでメトロノームのように一定のリズムを正確に刻んでいく。尤も、『パターソン』ほど地味ではないので広くおすすめできる作品です。

 

④お気に入りシーン熱論

以下は、私の好きなシーンを随意にピックアップするコーナーね!

書いてるうちにどんどんヒートアップしてしまった。


カサブランカ(42年)のような古い映画ばかり観ているアネット母さん。彼女の好きな音楽はピンポイントで同世代のルイ・アームストロングだ。
パンクを流して踊りまくるグレタ姐さんとルーカス坊やの部屋を訪れ、「何この音楽…。もっと綺麗に演奏できないの?」と眉間にしわを寄せる。

ルーカス坊や「綺麗な音楽は社会の腐敗を隠す(キリッ)」
アネット母さん「彼らは下手だとわかってやってるわけ?」
ルーカス坊や「強い感情があれば技術は必要ない」

 

この映画はパンク趣味全開だ。

好きな人には申し訳ないのだけど、僕はパンクが好きになれない。ニヒリズムアナキズムといった反権力のイデオロギーとは個人的に軌を一にするものの、ただ単に音楽として好きになれないのだ。

それは、いみじくもルーカス坊やがほざいた「強い感情があれば技術は必要ない」という技術不要論。「ちょちょちょ…」と言って待ったをかけたい。
伝説のパンクバンドとして有名なセックス・ピストルズシド・ヴィシャスは、ベーシストなのにベースが弾けなかった。パンクは激情のままに暴れ、叫ぶのだ。
まぁ、僕自身「あまねく芸術とはコンセプチュアル・アート(思想ありき)である」という考え方なので、技術よりも思想優位というのは分かるんだけどさ(反対に技術優位の作品は芸術ではなく美術と呼ぶ)。
ただ、強い感情があって、なおかつ技術もあれば尚更よくない?
だから僕はハードロックを好むのだ(ロックの反骨性と人智を超えた超絶技巧が特徴)。

 

だけど、ルーカス坊やが最初に言った「綺麗な音楽は社会の腐敗を隠す(キリッ)」という主張には大いに首肯する。首をガックンガックンさせて首肯するよ。
基本的に世界は穢れている。好むと好まざるとに関わらず差別と欲望と暴力の素質を有するニンゲンという生物が76億人も地球にいるのだから、そりゃあ穢れて当然。
そして綺麗な音楽は、そんな社会の穢れを隠して幻想を売る。大衆音楽なんて基本的にはどれも同じ。人々から金を巻き上げて愛や希望を売るのだ。そういう意味では、音楽産業なんて本質的には水商売みたいなものなのだ(言い過ぎていたらごめん)

希望の翼を広げて明日に飛び立つんだ♪」とか「世界中を敵に回してもキミを守るよ♪」とかさ。

やかましいわ。

何か言ってるようで何も言ってない歌詞ばかりダラダラ並べやがって!

特にラブソングにおける「キミを守る」ってフレーズ…、そろそろやめませんか?

だいたい何から守るんだよ。

誰に襲われとんねん、そいつは。

 

映画にしてもそうだ。セックスとバイオレンスは映画に付き物だけど、それは映画が世界=現実を映すメディアだからだ。
にも関わらず、まるで臭い物に蓋をするようにセックスとバイオレンスが規制の対象になったり、ちょっと過激な映画に目を覆う観客がいたり、「不健全だ!」といって排斥しようとしたり。
あのねぇ、健全でクリーンなものしか存在しない社会の方がよっぽど不健全だよ。

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いいぞ、もっと踊れ! 身体に染みついたくだらない習性を振り払え!

 

 

まだまだ続くよ。
次にお気に入りのシーンは、トーキング・ヘッズ好きのルーカス坊やが、ブラック・フラッグ好きの年上のヤンチャ坊主を鮮やかに論破して恨みを買い、自宅のアネット母さんの車に落書きされてしまうシーン。
ドアの部分には「ART FAG(アートかぶれの軟弱野郎)」とスプレー缶で書かれ、反対側のドアにはBLACK FLAGと落書きされている。なんちゅうことをするんだ。

 

アネット母さん「虐めっ子がしたの…? アート・ファッグってどういう意味?」
ルーカス坊や「僕がトーキング・ヘッズ(オカマが聴く音楽)が好きだから…」
アネット母さん「なるほどね…。ブラック・フラッグは?」
グレタ姐さん「ハードコアのバンドよ。両者のファンは仲が悪いの」
アネット母さん「何の話?」
グレタ姐さん「パンクシーンは複雑で…」

 

落書きに込められたパンクシーンのコンテクストを解説するグレタ姐さんと、パンクに無頓着ゆえにさっぱり意味が分からないアネット母さんの噛み合わない会話!
すてき!

 

 

最後にもうひとつだけ…お気に入りのシーンは、食事の場で「生理でしんどい」と言ったグレタ姐さんを「そんなことわざわざ言わなくていいわ。食事の席なのよ」とたしなめるアネット母さんに対して、ムキになったグレタ姐さんが「生理なのに生理と言うのが悪いことなの? 口にすべきよ。ほら、ルーカス坊やも言ってみなさいよ。生理!」と言って次々と復唱させるシーン。
「目が泳いでる。もっと自信を持って!」とか「語尾を上げないで!」なんつって、来客に一人ずつ復唱させるのだ。
「最悪…」と辟易するエルたんに対して「そんなことない。これは創造の場よ。変革が起きてると言って生理コールを促すグレタ姐さん。

SU・TE・KI!

 

たしかにここでのグレタ姐さんは常識外れに映るかもしれないが、それだけ世間の人々は常識に囚われすぎているというアンチテーゼ・ギャグなんですよ、このシーンは。

「こういう場ではこういう会話をしなきゃいけない」とか「こういう場合はあの件には触れちゃいけない」みたいな、本来ありもしないルールに勝手に縛られて気疲れしちゃう現代人は多いでしょう。そういうのを俗に「空気を読む」と言うらしいけど。
うまく世渡りしていく上で小狡く身につけた円滑なコミュニケーションに対して、グレタ姐さんは「くだらない。誰に遠慮してんのよ。言いたいことがあったら言えばいいじゃない」と喝破する。

僕も完全にグレタ属性の人間なので、なんとなく背中を押された気がした。
良くも悪くも社交辞令に適応できず、上辺だけの付き合いに気持ち悪さを覚えてしまう。空気は読むものではなく、むしろ積極的に壊していくもの
僕が最も影響を受けたエレファントカシマシ宮本浩次と同じく、嘘が嫌なのだ。嫌いな人には露骨に「嫌いです」という態度を取ってしまうから、悪く言えば社会不適合者かもしれない。グレタ姐さんとは仲良くやっていけそうだ。

 

「人生においては何をやったって構わないが、オレの心と相談して『嫌だな』と思ったら立ち向かえ」
エレファントカシマシ「ロック屋(五月雨東京)」

 

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まさかエレカシで締めることになるとはな。

この結末は予測できなかった。