シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

エコール

 無垢や純粋ほど恐ろしいものはない

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2004年。ルシール・アザリロビック監督。ゾエ・オークレール、ベランジェール・オーブルージュ、リア・ブライダロリ。

 

森の奥深くにある学校「エコール」に、6歳の少女イリスがやってくる。高い塀で外部と遮断されたその学校では、6歳から12歳までの少女たちが年齢を区別するリボンと白い制服を身につけ、ダンスと自然の生態を学んでいた。男性のいない女性だけの閉ざされた世界にイリスは順応していくが、ある少女は耐えられず、壁を乗りこえて脱走を図る。(映画.com より)

もくじ


アート系やインディーズ系の映画をやたらに好む後輩から「これは観なければなりませんよ」とおすすめされていたので、「じゃあ、わかった」つって観た。

おぼこい少女がわんさか出てくる映画である。宮崎駿が大喜びしそうだ。

もはやこれはロリータ映画を通り越してチャイルド・ポルノと言っていい。年端もいかぬ少女たちのヌードがばんばん出てくるからだ。

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①謎だらけの幼女映画

深い森の中にある、高い塀に囲われた学校と寮。ここには女性しかいない。教師は少女たちに基礎教養とバレエを教えている。

毎年、春になると新入生を外界からに入れて運んできて、白い制服赤いリボンを与える。この学校では最年少の少女たちは赤いリボンを、最年長は紫のリボンを髪につけるというルールがあるのだ。

そして最年長の子は教師に連れられるまま「卒業」していくが、どこへ連れていかれたのかはわからない。

この学校から逃げ出したいと思っている少女も少なからずいるが、外界に出るのは禁忌とされており、脱走した者は後日「お別れ会」と称して火葬される。殺されたのだ。

そして最年長の少女たちは夜になると森道を通ってどこかへ行き、外部の「お客様」に向けてバレエの発表会をおこなう…。

 

明らかに怪しい映画だ。大いなる謎を孕んでいる。

この学校が何を目的に運営されているのか。

なぜ女性だけなのか。

なぜ外界に出てはいけないのか。

あるいはなぜバレエのレッスンをさせているのか。

毎年どこから新入生を調達してくるのか。

どうして新入生は棺に入れて運ばれてくるのか。

そして卒業生はどこに連れていかれてどうなってしまうのか。

 

これらの謎は最後まで明かされない。

なるほど。これは後輩から私への挑戦状というわけか。

「映画好きのふかづめさん、あなたはこの映画をどう観ますか!」

よろしい。ならばお答えしましょう(尤も、後輩がこのブログを読んでいる確率は限りなく0パーセントに近いのだが。教えてないし)。

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②耽美主義のゴシック・ロリータ

まず率直に感想から言うと、『エコール』には魔性の吸引力があり、なかなか見応えがあった。

美と頽廃を混ぜ合わせた映像設計と、思わせぶりなストーリーテリングに惹きつけられる。何よりフラフープやブランコに興じる無垢な少女たちが画面によく映える。ダラダラした調子で121分続くのだが、飽きない。

耽美主義のゴシック・ロリータものという点では大成功しているのではないかしら!

 

たしかに物語を追い始めると難解でスッキリしないが、映画はスッキリするための道具ではないのでこれは問題ない(逆に言えば「オチ」とか「伏線」を重視する人にとっては堪らなく苦痛な映画だろう)。

たとえ本作の意味するところが全然わからなくても、少女たちを眺めているだけで「ええのぅ、ええのぅ~」とほっこりした気分を味わえるので、幼女趣味やゴスロリ好きの人に広くすすめられる作品になってござります(※私はロリコンではありません。むしろ子供なんて嫌いだ)

 

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とりわけ、最年長のビアンカはキューティが爆発している。圧倒的美少女。

面倒見がよく、下級生たちの世話をするええ子。夜な夜なバレエの発表会に行き、「お客様」からたいへん気に入られている。

 

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イリスは新しくやってきたアジア丸出しの新入生で、寮生活の面倒を見てくれるビアンカを慕っている。

ビアンカのためなら鉄砲玉になることさえ厭わないぐらいビアンカを尊敬している最年少だ。

 

 

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外界出たがりのアリスはバレエの達人。

アリス!

当ブログで推してるパワーワードと同じじゃないか。

「バレエ好きの校長先生に選ばれた子は飛び級扱いで外界に出られる」という特別ルールに望みをかけてバレエの猛特訓に励むが、校長先生がほかの生徒を選んだことに嫉妬して脱走を企て、殺される。

 

そして、バレエの先生を演じているのがマリオン・コティヤール

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こんなところにマリオン!

思わぬところでコティヤール!

しかも貴重なレオタード姿をここぞとばかりに披露している。眼福以外の何物でもない。

 

ご覧のように、基本的に『エコール』は楽しい楽しい学園青春映画である。

まぁ、たまに少女が殺されたり焼かれたりするだけだ。

では、そろそろ絵解きに移るとしましょうか。

 

③生まれ変わるサナギ

この映画のおもしろいところは、観客一人ひとりの理解度によって解釈がまったく異なる多重構造を持っているところだ。

 

いちばん浅いところで表面的に解釈すると…

(1)無垢な少女を育てる淑女養成学校のお話(見たまんまの解釈)。

 

次に、少しだけ深読みして解釈すると…

(2)少女たちを育てて競りにかける売春婦養成学校のお話。

 

最後に、メタファーを読み込んで解釈すると…

(3)無垢な少女たちが思春期を迎えて性を知るまでの通過儀礼のお話。

 

どんな風に解釈しても楽しめる映画なのだけど、手っ取り早く結論から申し上げると、これは(2)と思わせた(3)についての映画でしょう。

たしかに(2)の「売春婦養成学校」という解釈はなかなかおもしろい。バレエの発表会に現れる「お客様」は男性客がほとんどだし、気に入った少女に薔薇を投げて薄気味悪い笑みを浮かべるのだ。どう見ても少女を狙ってる野獣の目つきだよ!

また、校長先生がバレエのテクニックよりも少女たちのうなじを選定基準にして品定めするシーンまであるのだ。

しかし、それでは新入生を棺に入れて運んでくる理由や、脱走した生徒を殺す理由の説明がつかない。

 

ところが(3)の「無垢な少女が思春期を迎えて性を知るまでの通過儀礼」をメタファーとして描いている…と考えるとおおよその辻褄は合う。

彼女たちが純粋培養されている学校は、穢れなき少女時代そのもののメタファーだ。

そして少女たちはバレエ(厳密にはロマンティック・バレエを通して少しずつ女になっていく。バレエは官能性の象徴。一人の女性が「女」になるまでの過程を描いたブラック・スワン(10年)もバレエを題材とした映画だ。

そしてビアンカがバレエの発表会でもらった赤い薔薇は初潮を迎えたことを示唆している(絵画でも薔薇は「性的なメタファー」として描かれる)。もらっただけでなく、ビアンカがその薔薇を愛おしそうに腹部に当てるシーンまであるのだ。

純粋無垢だったビアンカが性に目覚めたことを仄めかすシーンは、外界に連れ出されて始めて目にした男の子と噴水で戯れるラストシーンにも顕著だろう。全身ずぶ濡れになりながら水の柱を抱き、恍惚の表情で少年と見つめ合うのだ。

また、バレエ発表会に出る少女たちは背中に蝶の羽をつけている。

先生が夜な夜な昆虫標本を作っていたり、サナギが羽化するシーンがあるように、これは少女というサナギが女という蝶になるまでを描いた通過儀礼の物語なのでしょうね。

俗世から調達してきた新入生を棺に入れて運んでくるのは、俗世で染みついたものを一度殺して無垢な状態で生まれ変わらせるための、いわば純化の儀式だろう。だから棺の中の少女はスッポンポンで、棺から出た直後に白い制服(無垢である証)を着せられるのだ。

 

だが、この学校制度は明らかに極端で、完全にイカれた世界だ。

外界(大人の世界)に憧れを抱いて脱走した少女たちを殺すように、早熟は忌避すべきものという倒錯したイデオロギーが蔓延っているのだから。

しばしば善きこととして使われる無垢とか純粋といった言葉こそ、実は最も危険なのだ。

無垢とか純粋なんていうと天使みたいなものをイメージしがちだが、これは逆で、むしろ最も悪魔に近い概念だと思う。

無垢な子供はどこまでも残酷になれるし、純粋な子供はどれだけ残酷なことをされても平然とそれを受け入れてしまうのだ。

墓を建てるために生き物を殺していく無垢な少年少女を描いた、本末転倒の墓ブッ立て映画禁じられた遊び(52年)のように。

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④ノエに捧げんな

ラストシーンのあと、「ノエに捧げる」という一文が出る。

「なんでギャスパー・ノエ*1に捧げんのじゃい!」と驚異的な瞬発力で突っ込んでしまったが(私はギャスパー・ノエが大嫌い)、あとで調べてみると本作の監督はルシール・アザリロビックという女性監督で、ギャスパー・ノエの嫁はんだったみたい。

道理で粒子の粗い映像とかむやみなポルノ感を推してたわけだ。

そうと知って合点がいったのだが、物語のディテールに絡みつく謎や整合性を欠いた描写は、すべて雰囲気だけの可能性が高い。

単なる思わせブリトニー。

すべてのシーンを理詰めで絵解きしようとすると嫁はんの術中にはまってしまうので、あまり深く考察しない方がいい映画でしょう。

そんなことをする暇があるなら、ビアンカのキューティ爆発に心ときめかせ、急に出てくるマリオン・コティヤールに「こんなところにマリオン! 思わぬところでコティヤール!」と大騒ぎしていた方がよっぽど有意義だ。

 

*1:ギャスパー・ノエ…アルゼンチンの問題児。妻をレイプされた主人公が犯人を見つけだす…という単純な映画だが、時間軸を逆回転して見せた『アレックス』(02年)、死んだ主人公の魂視点でホテルを散策して他人のセックスを160分傍観し続けるエンター・ザ・ボイド(09年)、主人公が泣きながら「失踪した恋人」との肉欲の日々を思い出し続ける『LOVE3D』(15年)など、過激な性描写でカンヌ映画祭を騒がせてきた奇手だけの人。