ルーニー・マーラ論:究極の芝居とは芝居をしないこと。
2016年。ベネディクト・アンドリューズ監督。ルーニー・マーラ、ベン・メンデルソーン。
13歳の時、父と娘ほど歳の離れた隣人レイと許されざる恋に落ちたウーナ。2人は互いに愛し合っていたが、レイは少女と関係を持ったことで逮捕され、4年間の服役の末に町から姿を消した。一方、ウーナは大人になった現在も未だにレイのことが忘れられないまま、行きずりの男と関係を持ち、抜け殻のような日々を送っていた。そんなある日、レイの居場所を突き止めたウーナは、15年ぶりにレイと再会を果たすが…。(映画.com より)
私はルーニー・マーラの大ファンです。
どれくらいファンかっつーと、もしも年会費7000円をふんだくられるルーニー・マーラのファンクラブがあるとして、毎月会報という形でルーニーから「踊り続けて朽ち果てろ」などと悪口の書かれたメールが届いたり、「自撮りしました」というタイトルで見ず知らずのおっさんの写真が送られてきたりといった悪辣なサービスだとしてもファンクラブに入るほどのファンです。
いや、でもどうかな…。さすがに7000円は高いかな。
そんなルーニーが立派に主演を務めあげました。それがこの超低予算映画『ウーナ 13歳の欲動』です。すごい。
前半はまじめに映画評をしますが、後半はルーニー・マーラに関する試論をブチまけています。こないだのキャシー映画みたいな構成だけど、あんなふざけた内容ではないですよ。
おふざけでやってるわけじゃねえんだ!
ルーニー・マーラという神秘に、トマト煮込みを作りながらの祝福。
「ベン・メンデルソーンがいつものように工場で仕事をしていると、職場に見知らぬ若い女性(ルーニー)が訪ねてきた」
ウィキペディアに記載された『ウーナ 13歳の欲動』のあらすじ紹介ではこのような書き出しから始まっている。
だが実際は違う。実際はこうだ。
いかがわしいバーのトイレで行きずりの男とセックスした翌朝、ともに実家で暮らす母親に「夜には帰るわ」と言い残して家を出たルーニー・マーラが長距離運転の果てにベン・メンデルソーンがいる職場へと辿り着くが、意を決して工場に入る直前に嘔吐してしまう。ペットボトルの水で口をゆすいだあと、工場内を漫ろ歩き、ようやくベンの姿をみとめると、彼女に気付いたベンは顔色を一変させる…。
つまりウィキペディアは「ベンの視点」から物語を要説しているが、実際、映画は「ルーニーの視点」から語られている。そして、これこそが本作のおもしろさだ。
「ここで話すのはまずい」と言うベンに案内されるまま工場のオフィスに通されたルーニーは、憎悪を剥き出しにしてベンを責め立てる。そこから徐々に二人の関係性がフラッシュバックによって紐解かれるのだ。
どうやらこの二人は15年前に深く愛し合った仲なのだが、そのときすでにベンはおっさん丸出しの中年で、ルーニーの方は13歳の少女だった。そして遂に二人がセックスしたあと、「煙草を買ってくる。厳密にいえばマルボロを買ってくる」と言い残したきり、ベンは戻ってこなかった。後日、未成年淫行で逮捕されたベンは刑務所に4年服役し、ルーニーは世間から冷たい目を向けられて自己破滅的な人間になってしまった…。
こうした二人の過去が工場のオフィスの中だけで淡々と語られていく。しかも舞台はほとんど工場の中のみ。紛うことなき工場映画とは言えまいか。
現在のルーニーは、ベンのことを「かつて私の身体を弄んで人生を壊した変態ロリコンおじさん」だと言って憎悪しており、彼を地獄の道連れにしようと企てる怨恨丸出し女だ。
一方のベンは、未成年のルーニーと肉体関係を持ってしまった過去を十分反省しながらも、「断じて俺はロリコンではない。たまたま愛した人が未成年だっただけだ」と謎の抗弁。
工場の中で延々とおこなわれる痴話喧嘩。それが『ウーナ 13歳の欲動』である。
どうしようもねえな。
ベンは出所後に美魔女と結婚して人生をやり直している。
それを知ったルーニーは、「真性ロリコンのあなたが奥さんのたるんだ身体で欲情できるの?」とディスってみたり、「奥さんはあなたと私の関係を知らないんでしょう? バラすわよ?」と脅すなどして、何が何でもベンを破滅させたいらしい。
ベン「えらいもんに手ぇ出してもうたー」
変態ロリコンおじさんと怨恨炸裂粘着系女による痴話喧嘩。何度も言うが、それが『ウーナ 13歳の欲動』である。
どうしようもねえな。
ベンに詰め寄るルーニー。僕だったらドキドキしちゃう。
本作のおもしろさは「ベンの視点」ではなく「ルーニー視点」から語られている点にある。
普通の映画なら「ベンの視点」から描くような題材だと思うのよ。
ちなみに本作をベン視点から描いた場合、およそ次のような筋書きになるだろう。ぜひ読んでくれ。
気持ちのよい朝。主人公のベンが愛する妻に行ってきますのチューをして工場に出勤。いつものように機械をガッチョンガッチョン動かして働いていると、口元にゲロがついた不気味な女が職場に乗り込んできて「おまえを破滅させてやるー」と呪詛の言葉をベンに吐く。その女に関して、ベンには思い当たる節があった。15年前に関係を持った少女だ。
そして性犯罪者としてのベンの過去が少しずつ明らかになる…。
とはいえ、今やベンも既婚者。守るものがあるので、どうにかしてこの怨恨炸裂女の気を静めて、かかる厄介な事態を穏当に収束させねばならない。しかし女は「償ええ! 淫行を償ええ! むしろ死ねええ! 4回生き返って5回死ねええええ!」と阿修羅のように激憤しており、どうにも手がつけられない。
果たしてベンは過去の過ちを清算して、穏やかなる第二の人生を守ることができるのか…?
…みたいなね。多分こうなりますよ。ヤバい女に脅されてどうしましょう…みたいなドロドロの愛憎劇だ。
だが言うまでもなく、今でっち上げたベン視点の物語は男にとって都合のいい解釈に過ぎない。
ベンはひとりの少女の人生をムチャクチャにしたにも関わらず、劇中にもあるように「キミへの罪は刑務所で償った(ドヤ!)」とか「過去は捨てたんだ(ドヤ!)」とか言って勝手に生まれ変わった気になって、自分だけ幸せを手に入れちゃったりしてるけどさ。
でも被害者であるルーニーの立場は?
ルーニーは28歳になった今でも過去のトラウマに引きずられて、抜け殻のような人生を送っている。15年経っても「おっさんにレイプされた子なんだってね…」と近所の噂になって白い目で見られるし、愛やセックスに対して歪んだ価値観を持つようになってしまったのだ。
それをば、ベンは「キミへの罪は刑務所で償った」だぁ?
ナマ言ってんじゃないよ!
4回生き返って5回死ね!
…と、このようにですね、もしこの映画が「ベン視点」で作られていたらかなり不愉快な映画になっていたと思う。いや、そもそも不愉快とさえ感じないぐらい、心底どうでもいいB級スリラーになっていただろう。
だが実際は首尾一貫して「ルーニー視点」だ。
本作は、あえてルーニー視点から描いたことで、まさにヒロインの愛憎相半ばする感情が文学的とさえ言える密度で丁寧に織り込まれているのである。
たとえば、現在のルーニーはベンのことをロリコン扱いして激しく糾弾しているが、13歳の当時は遥か年上のベンを確かに愛していた。
すなわち過去の「愛」と現在の「憎」が入り混じったアンビバレントな感情の中でもがき苦しんでいるキャラクターなのだ。
だから現在のルーニーの中で、「私の乙女心をもてあそんだベン、まじ殺す」が9割、「でもまだ愛してるかも…」が1割存在する。そしてその1割が、ベンから発せられた嘘偽りのない心情吐露に耳を傾けるほどに少しずつ割合を増していく…という。
まさに愛憎! まさに相克!
ルーニー・マーラの目バッキバキな感じが好き。
しかも、セックスしたあとベンが『煙草を買ってくる』と言い残したきり戻ってこなかった事件には知られざる裏側があった。
それを知るまでの15年間、ルーニーはずっと「ロリコンオヤジにヤリ逃げされた」と思い込んでベンを恨んでいたわけだが、どうやらそういうことではないらしい。
ネタバレになるので「ベンが戻ってこなかった事件」の裏側についてはこれ以上触れないが…。
とにかく、ルーニー視点で描くことで白か黒かでは割り切れない人間感情の微妙なヒダが繊細に表現されていて、昼ドラのような「痴情のもつれ」とか「ドロドロ復讐劇」としては単純化されていない、その奥に一歩踏み込んだ作品になっていてさ。
なかなか見応えがありました。
たしかに本作は「工場の中で男女がベラベラ喋ってるだけ」という自主映画のごとき見すぼらしさだし、何か技術的にすぐれたことをしているわけでもない。
だが、ひとつだけ特出している点がある。ハイ、やっと本論です。
主演のルーニー・マーラ。
ルーニー・マーラという神秘に、カーペットにコロコロを掛けながらの祝福。
この話をするためだけに筆を執ったと言っても過言ではないぐらい、本作はルーニー・マーラがマーラマーラしたルーニー・マーラ映画の最高峰なのだ。
まずこの女優の特徴は、無感動な相貌と浮世離れした佇まいだ。
なんというか、われわれパンピーとはチャンネルが合ってない感じというか。われわれは地上波で世界を見てるけど、ルーニーは衛星放送で世界を見てるのだ。
ごく一部の天才って大体そうなんだよね。普通の人とは感覚が合わないし、言葉も通じない。何ひとつ共有しえない。だから文字通り次元が違うんだよ。住んでる世界が違う。
そういう異星人感をまとった女優なんだよな、ルーニーって。
だから『ドラゴン・タトゥーの女』(11年)でゴスメイクしたハッカーとか、『サイド・エフェクト』(13年)では夢遊病で夫を殺した鬱病女みたいな奇人役があてがわれる。
そして本作は、ルーニーのそんな異星人感…、具体的には無感動な相貌と浮世離れした佇まいありきの脚本になっていて。
ベンに対する得体の知れない感情は、ルーニーが無表情であるがゆえに絶えず留保されていて、観る者に「彼女はベンのことをどう思ってるんだろう?」と思索を促す。そしてその行為自体が一種の謎解きにもなっているのね。
これ、ミラ・クニスとかアナ・ケンドリックみたいな感情丸出し顔の女優だったら成立してないですよ。
実際、無表情=ポーカーフェイスというのは奥が深いというか、もともと奥が深い映画とはきわめて親和性が高い材料だ。
クレショフ効果というものをお前たちはご存じでしょうか。
ロシアの映画理論家レフ・クレショフがおこなった認知バイアスに関する理論である。このおっさんがおこなった実験の中にこういうものがある。
無表情な男の顔のショットのあとに食べ物や人物など様々なショットを繋げる。すると、観客はありもしない感情を男の表情の中に勝手に読み取ってしまうのだ。
たとえば、無表情な男の顔のあとに「棺の中の遺体」のショットを繋ぐと、観客は「この男は悲しんでいる」を解釈する。
「スープの入った皿」に繋げると「めっちゃ飲みたそうやん。よっぽど空腹なのだろう」と解釈する。
「ソファに横たわる女」に繋げると「欲情しとるな」と解釈する。
だが、もちろんそれらの解釈は観客の思い込みに過ぎない。
いわば無表情とは如何様にも観る者を騙せる純映画的な身振りである。逆に言えば、怒鳴ったり泣き叫ぶなどして必死こいて感情表現することがいい役者の条件なのだとする日本映画的な考え方はひどく一面的な解釈に過ぎない。
究極の芝居とは芝居をしないことだ。
現に本作のルーニー・マーラは、終始眉ひとつ動かさぬポーカーフェイスにも関わらず、これほど愛憎にまみれた複雑なキャラクターを豊かに体現しているではないか。
だから、私が提唱したい「本物の役者を見分ける基準」は無表情がどこまで利くかだ。
「究極の芝居が無表情だというなら誰にだってできるじゃん」などと幼稚なことを言ってはなりません。無表情が利く俳優というのはほんの一握りしかいないのです。
だからこそ、その他99.9パーセントの俳優は一生懸命に感情表現しているのだし、世の中的にも「役者は感情表現してなんぼ」という先入観だけで役者を捉えている。
だからメリル・ストリープはゴールデングローブ賞で27回もノミネートされて、8回も受賞しているのだ。
ちなみに、どの映画を観ても表情がひとつしかないハリソン・フォードもまたクレショフ効果に適した俳優で、アメリカの映画学校ではハリソン・フォードの無表情芝居がいかに凄いかについて、しばしば『逃亡者』(93年)での芝居を引き合いに出して講義がおこなわれるという。
ただ、1000人に1人の「無表情の才能」を持ったルーニー・マーラだけど、2年前からホアキン・フェニックス(ウェンザナイ映画『スタンド・バイ・ミー』でお馴染みのリバー・フェニックスの弟)と交際→同棲したことで仕事が激減そして縮小化している。
ホアキンといえば社会不適合者スレスレの超ストイックな俳優なので、もっぱらルーニーは世話係として彼のサポートに徹している。近年パパラッチされたルーニーの写真も買い物帰りの姿ばっかり。
もはや、ほぼ専業主婦!
そんなわけで、伸びしろ抜群のルーニーの芽を摘むホアキンに対して「頼む、ルーニーを解放してやってくれ!」というメッセージを…、そして恋にかまけてホアキンの世話係などに甘んじているルーニーに対しては「頼む、目を覚ませ!」というメッセージを送りたい私なんかがここにいます。
ルーニー・マーラよ、貴女はこんなところで終わっていい女優なんかではない。
『ドラゴン・タトゥーの女』の頃のツンケンしていたリスベットはどこにいったんだよ!!