クソ垂れるウォーリアー
2017年。マイケル・グレイシー監督。ヒュー・ジャックマン、ザック・エフロン、ミシェル・ウィリアムズ。
妻子を幸せにするため努力と挑戦を重ねるフィニアスはやがて、さまざまな個性をもちながらも日陰に生きてきた人々を集めた誰も見たことがないショーを作り上げ、大きな成功をつかむ。しかし、そんな彼の進む先には大きな波乱が待ち受けていた。(映画.com より)
美味しいトマト煮込みの作り方、それはヤバいトマト缶を買わないことです。僕からアドバイスできることはそれだけですね。
買い物してるときから、すでに料理は始まっているのです。
そんなわけで『グレイテスト・ショーマン』です。
意味深ワード「クソ垂れるウォーリアー」については末文にて(末文だけ読んじゃヤーよ!)。
もくじ
①真実と穢れはイコールなのか?
先にこの映画に対する私のスタンスを表明しておくと、まぁ支持派です。
というのも、本作は思いきり賛否両論が巻き起こっていて、「泣いた! 最高!」という支持派が大勢いる一方で、「詐欺師のP・T・バーナムを偉人として描いている」、「人間賛歌というより白人男性讃歌」という観点から本作の欺瞞性を指摘している否定派もいる(青字をクリックしたらすてきなブログにワープできるよ!)。
で、本作に関しては否定派の方に分があるかなと私は見ています。この映画の裏側に張りついた「薄っすらとした不快感」を論理的に指摘しているので、彼らの評を読んで「さもありなん」連発、みたいな。
一方、支持派の中にも、さまざまな瑕疵を認めた上で「でも夢があっていい映画だよね」とポジティブに捉えている人たちが大勢いるんだ。賛否両論の映画にこんなことを言うのもヘンな話だが、とても良い雰囲気だと思う。
少なくともこの映画に関しては日本の観客はすばらしいなって。ヒステリーが一人もいない。
ヒューが演じたP・T・バーナムはフリークス(畸形の人々)を使ってサーカスを開いた実在の興行師。
ただ、こうした映画を絶賛する人の中には、ごくまれに「純粋」という言葉をしきりに使い、否定派の意見に対して「純粋に楽しめないなんて心が汚れてる!」と言う人もいます。特に中高生とかね。
で、私は「純粋」という言葉ほど危険なものはないと思っていて。
まぁ、はっきり言って『グレイテスト・ショーマン』は若者向けのミュージカルだ。
もっと棘のある言い方をすると、本作はかの有名な愚作『レ・ミゼラブル』(12年)で感動した層をターゲットにして作られた作品だ。
そして往々にして若者とは純粋なもの。
たとえば私が「『天空の城ラピュタ』(86年)は社会進化論についての映画だし、『千と千尋の神隠し』(01年)は性風俗の話ですよ」なんて激烈にウザい話をしたとして、きっと若者たちは耳を塞いで「激烈にウザい! そんな深読みをするなんて心が汚れている!」といって私を批判するでしょう。純粋であるがゆえに(深読みもなにも宮崎駿自身がはっきりと公言しているのだけど)。
純粋な若者たちは「見たくない現実」や「知りたくない真実」はなかったことにして夢の世界に生きる、すてきなドリーマーだ。どうやらドリーマーいわく真実と穢れはイコールらしい。
ややゾッとする。
どうも私は、「純粋」という概念を無条件で信奉するドリーマーたちにカルト宗教じみたをものを感じてしまう。だから穢れなき中高生がまじで怖い。
もうなんか…、論理とか通じなさそうで。
もっといえば純粋とバカは同義ぐらいに思っています。
うっかり物事の暗部でも聞かせようもんなら「ぎゃあ! ぎゃああ!」って騒がれそうで。そのあと学級裁判にかけられて「この男は『千と千尋の神隠し』は性風俗の話だとかわけのわからないことを言って我々の純心を穢しました。よって電気椅子の刑に処すことが決定致しました。おめでとうございます」と勝手に決定、「うそー。やめてぇ」と抵抗する私を体育会系男子が無理やり椅子に座らせて、ブーン「りゃぶぶぶぶ」そして死ぬ、みたいな。
何の話をしてるんでしょうね、さっきから。
まぁとにかく、『グレイテスト・ショーマン』のお客さんこそがグレイテストだ、っつう話でございました。なんでこんなに話が脱線したんだろ。
②外ヅラはすごく良い。
どうでもいい前置きをしてごめんなさいね。それぐらい本作に飛び交う毀誉褒貶は傍から見ていて興味深かったので、つい一家言を開陳したくなったのです。
それでは本題に参ります。
私はこの作品に対してまぁ支持派というスタンスを表明した。いつした? さっきした。
「支持派」というのはもちろん括弧付きの表現で、その括弧の中には「色んなところにバッシバシ目をつむっていけば楽しめるミュージカルです」というステキな含意を忍ばせている。
まずこの映画、外ヅラはすごく良い。
好感度かっさらい俳優ことヒュー・ジャックマンのサクセス・ストーリーが、俗に言うエモい歌と踊りの中でわずか105分のうちに語られる。
その中には、友情とか団結とか家族愛みたいな要素がパンパンに詰まっていて。
愛する家族と極貧生活を送るヒューが、サーカスを始めてショービジネスの世界に躍り出る。
↓
フリークスをサーカスに招いてスターに仕立て上げる。
↓
新聞の批評欄で「低俗だ」とこき下ろされたヒューは、世界一の歌姫を懐柔して高尚な芸術路線に突き進む。
↓
芸術路線へのシフトチェンジによりフリークスが足手まといになったヒューは、欲に溺れて仲間を見捨て、夫婦仲も悪くなる。
↓
劇場が全焼して、ヒューが「ヒュー…」って言いながらうなだれているとフリークスが「キミは僕たちに居場所を作ってくれたんだ。もう一度やろうよ!」と励ましてワンスアゲイン。みんながハピネスになる。終劇。
なるほど、なるほど。
最短距離で泣ける(笑)映画としてのパッケージはなかなか魅力的だ。愛と夢と希望がパッツパツに搭載されている。
なんというか…FUNKY MONKEY BABYSの曲みたいだなって。
で、私はFUNKY MONKEY BABYSみたいな曲が大嫌いなので、こういった物語部分にはまったくノレない。むしろ、ただ一言「ファック」とだけ言い添えて鮮やかにスルーするわけだが、それを差っ引いたとしても、なお本作には批判されるべき点がある。
③コピーのコピーのコピー。
『レ・ミゼラブル』のように人物のクローズアップを乱発しすぎて深夜アニメのような構図ばっかり…ということもなければ、『マンマ・ミーア! 』(08年)のようにダンスが汚すぎる…ということもないのだが、なんといっても映画全体がサクサク進みすぎて薄い、軽い、チャラい!
情緒も奥行きもなく、ただ表面的に紋切型のストーリーをなぞっているだけのお手軽仕様。記号的なキャラクターを演じる俳優たちが記号的な芝居をして記号的なサクセス・ストーリーを紡いでいく…という状態で。
「生まれて初めて観た映画が『グレイテスト・ショーマン』です」という人なら感動するかもしれないけど、そうでない大部分の人たちからすれば、もう何百回、何千回と観てきたものを下手にツギハギしているようにしか映らず。押井守風に言うなら「コピーのコピーのコピー」で、そこに命は宿っていません。
監督のマイケル・グレイシーがCM出身と知って「さもありなん」というか。30秒の中でちょっとしたストーリーを紡ぎましょう、っていうテレビCM的な考え方なんですよね。
そもそも、ヒューの幼少期から青年期、そしてミシェル・ウィリアムズと結婚して子を授かるまでの30年の生い立ちをザーッと10分ぐらいで処理してしまう第一幕は、はっきり言って素人芸だ。映像学科の大学生でもこんなことしませんよ。
この映画は105分しかないからあえて駆足で撮ったのだろうが、それ自体がミステイク。
並みの頭脳と並みの腕を持った並みの監督であれば、極貧に苦しむヒューの現在をファースト・シーンに持ってきて、妻や義父との関係性の中でヒューの生い立ちを観客に察してもらうように場面や台詞を構成する。
ヒューの幼少期や妻との馴れ初めなんて、いちいち画にしなくてよろしい。「あぁ、たぶんこの主人公はこういう過去を持った男なんだろうな」と観客に想像させるような気の利いた演出がひとつあれば、それで済む話なのだ。ほとほとうんざりする。
そういうまどろっこしくて無駄だらけの語りをタイトに簡略化できれば、余った尺を使って差別されるフリークスのエピソードをもっとディープに描き込めたと思うし、そっちの方が遥かに感動的な映画になったんじゃないの?
④ここからは擁護タイムです。
そして肝心のミュージカル・シーンだが、これに関しては私はアリだと思う。
いや、正確を期すならば「もうアリでいいだろ」と思ってます。
ミュージカル映画の伝統芸ともいえるバークレー・ショットの汚さは不問に付します。いいよもう。
バークレー・ショット…被写体を真上から見下ろすアングル。
主要キャストのザック・エフロンが致命的にダンスが下手なのも不問に付します。もういいよいいよ!(見ようによっては微笑ましいから)。
むしろ、『ピッチ・パーフェクト』(12年)で誰がどのように踊っているのか全くわからないマイケル・ベイ現象や、『ラ・ラ・ランド』(16年)での群舞の不調和ぶりに比べると、本作のミュージカル・シーンはかなり健闘している方だ(凝ったことをしない≒できない…という監督の引出しの少なさが良い方に転んでいる)。
とはいえ、ものすごく低い次元で褒めてますけどね。
思えば、昨今ミュージカル・ブームにも関わらず押し並べてレベルの低いミュージカル映画ばかりなのは、映画界からミュージカル俳優がいなくなったことが遠因なのでしょう。ハリウッド黄金期にはジーン・ケリーやフレッド・アステアのような一流ダンサーが大勢いたのだけど…以下略(誰に向けて言っているのかよくわからない説教はよしましょう。ただでさえウザい文章なのに)。
私が本作をギリギリのところで支持する理由は、役者の運用術という一点だけ!
内容はペラペラだし技術的にもグチャグチャだしマイケル・グレイシーはマジで格闘家に転身しろって思うぐらい呆れてしまうけど、キャストを眺めてるだけでなんとなくハッピーになるような祝祭空間だけは一丁前によく出来ていて。エンドロールを迎える頃にはこの映画に抱いていた疑問や不快感がスーッと消えていたのですよ。
まずは主演のヒュー・ジャックマン。
もう明らかに『レミゼ』ありきのヒューの起用で、ウルヴァリン・シリーズも終わってちょっと暇になったから『レミゼ』の二匹目の泥鰌を狙った…という大人の事情がミエミエなんだけど、この映画はヒュー・ジャックマンという俳優の本質と奇跡的に符合した、本当の意味での当たり役である。
俳優として目を見張るような表現力やテクニックがあるわけでもなく、適応力が低いという意味ではむしろ使い勝手が悪いというか…、意外と運用が難しいヒュー・ジャックマン。
ただし、ヒュー・ジャックマンの為だけにあつらえた据え膳の表舞台では圧倒的なパフォーマンスで独壇場を演じてみせる、生まれながらの主役格だ。
そういう意味では、すでにヒュー・ジャックマンという俳優そのものが「グレイテスト・ショーマン」なんだよ!
たしかにヒューが演じた主人公は、見れば見るほど嘘と欲と欺瞞に満ちた不快なキャラクターに思えるかもしれないが、あくまでこの主人公自身は「愛」や「純粋」を信じきっていて、そこも含めてヒュー・ジャックマンらしいわけだよ。
私は「もはや清々しい…」とさえ思ったぐらいだ。
次にザック・エフロン。
ザック・エフロンをあまり知らない人のために分かりやすく説明すると、ちょうどオリエンタルラジオの藤森慎吾を筋肉質にしたようなチャラチャラしたイケメン俳優だ。
DQNしか見ないような品性下劣なコメディ映画で活躍しており、間違っても『グレイテスト・ショーマン』のような正統派エンターテイメント大作に出ていい俳優ではない。ケツと腹筋を見せびらかすことしか能がない俳優だからね。
↓普段こんなことばっかりしてるの。
ところが、本作のザック・エフロンはよかった!
グレイテスト・エフロン!
たしかに、ダンスはド下手、芝居はできない、ほかの役者といくらでも交換可能…とメタクソ三拍子が揃っているが、この(良い意味でも悪い意味でも)軽いミュージカルにはストンとハマっていて、「意外と良いな。ザック・エフロンのこういう使い方もアリなんだ」と素直に感心したぐらいだ。
俺たちの知らなかったザック・エフロンが垣間見えます(そんなものを見たい人がいるのか?と言われたらぐうの音も出ないのだけど)。
そして、あえて一番最後に持ってきました…。
彼女についてはやたらなことは言えないので『現代女優十選』ではあえて取り上げませんでした。
ミシェル・ウィリアムズといえば、『ダークナイト』(08年)でジョーカー役にのめり込みすぎたことで死んでしまった俳優ヒース・レジャーと結婚していたガチ未亡人女優だ。
出演作品も鬱々としたものが多く、映画の中でさえ幸せになれない公私にわたるガッサガサの薄幸女優。
愛する夫にゲイをカミングアウトされる『ブロークバック・マウンテン』(05年)、宿無し無職の彼女が愛犬にまで逃げられて彷徨い歩く『ウェンディ&ルーシー』(08年)、夫と息子を自爆テロで失う『ブローン・アパート』(08年)、恋人とグッチャグチャの関係になる『ブルーバレンタイン』(10年)などなど…。
近作では『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(16年)。アレもキツかったねぇ…。
あと『ゲティ家の身代金』(17年)では息子を誘拐される母親の役なんでしょう?(未見)
よく「陰のある女優」なんて言うけれど、もはや彼女自身が陰である。
そんなミシェル・ウィリアムズが、初めて…、ようやく…、幸せになる映画なんだよ!
こんなにニコニコしているニッコリ・ウィリアムズなんて初めてだ。
私はこの映画で感動した大部分の人たちとはまったく違う角度から感動したよ。ミシェル・ウィリアムズ映画という観点に立てば涙なくしては観れないよ!
そもそもこんな煌びやかな映画にミシェル・ウィリアムズを起用すること自体が意外すぎて、未だに実感がないというかしっくり来てないというか、気持ち悪いっす。それぐらいハリウッド・メジャーやハッピーエンディングとは無縁の薄幸女優なので。
「死なせてえー」、「だめええー」ってやってるわけじゃないですよ。でも、なんでミュージカルって一歩間違えたらただの自殺みたいなことをするんでしょうね。
最後に、かなりどうでもいい話を2つします。
私は俗物が犇めきあう京都の繁華街に住んでいて、先々月まで四条通沿いにあるいちびったブランド店のウィンドウに貼られていたミシェル・ウィリアムズの巨大ポスターの前を通り過ぎるたびに「私の街にミシェル・ウィリアムズ!」と心を躍らせていたものだが、最近その巨大ポスターが貼り替えられてエマ・ストーンが幅を利かせるようになってしまった。
エマ・ストーンも好きだけどさ…。
貼り直せ! ミシェル・ウィリアムズのポスターに代えろ!!
私の街からミシェル・ウィリアムズを奪うな!
追記
テーマ曲「The Greatest Show」のサビにあたる「so tell me do you wanna go?」が「クソ垂れるウォーリアー」と聴こえてしまったことを告白しておかねばなりません。
映画を観ながら「なんちゅう下品な曲なんだ。ウォーリアーがクソ垂れちゃあダメでしょう」と思ったものだが、空耳でしたわ。
いま聴き直すと全然そうは聴こえないんだけど。どうしてこんな空耳をしちゃったのかしら。私の前世がクソ垂れるウォーリアーだったとしか考えられない。それってイヤだな。
1分12秒から。改めて聴くと全然そういう風には聴こえないわ。ハードロック聴きすぎて耳が悪くなったのかな。