シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

フィラデルフィア

 こってり。

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1993年。ジョナサン・デミ監督。トム・ハンクスデンゼル・ワシントンアントニオ・バンデラス

 

一流法律事務所に勤務する弁護士ベケットは、自分がエイズに感染したことを知る。やがて会社はベケットに解雇を宣告。エイズ患者に対する不当な差別だとしてベケットは訴訟を決意し、以前は敵として法廷で闘ったことのあるミラーに弁護を依頼する。ミラーはベケットエイズ患者であり、かつ同性愛者であることに偏見を抱き、一度は依頼を断るが、それでも偏見や蔑視と戦おうとするベケットの姿に心を打たれ、弁護を引き受けることに。しかし、裁判は日に日に衰弱していくベケットとその関係者にとって過酷なものになっていく…。(映画.com より)

 

「映画好きなのに実は観ていなかった有名映画」というあるあるを心のうちに秘めながら、今日も映画好きは頭を掻いて舌を出しながら生きているわけです。

映画にハマり始めた人間は、とりあえず評価や知名度の高い、いわゆる名作と呼ばれる映画を片っ端から観ていくので、特にハリウッド・メジャーなんかはだいたい網羅されていくのだけど、それでも「取りこぼし」はある。

なんとなく食指が動かない。観ようと観ようと先延ばしにして結局観れていない。嫌いな人間が関わっているから観たくない。

…など理由はさまざま。

もちろん私の中にも「映画好きなのに実は観ていない有名映画」が沢山あって、フィラデルフィアもその内の1本です。

だからフィラデルフィアを観た…と、こうなるわけです。わかるけ。

で、観た以上はレビューする…と、こういう理屈になるわけです。わかるけ。

 

もくじ

 

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フィラデルフィアという食卓。

さて。

本作は、トム・ハンクスデンゼル・ワシントンというアメリカの良心を象徴する二人が差別や偏見に立ち向かう姿を描いたド直球の感動作だ。

初めて真正面からエイズを扱った映画であること、そしてトム・ハンクスにアカデミー主演男優賞が初めてもたらされた作品として知られている(翌94年のフォレスト・ガンプ/一期一会』で2年連続オスカーを獲得したことで名実ともにトップスターの仲間入りを果たした)。

 

なんだろうな…、このコッテリ感?

わかりますか。このコッテリ感ゆえに長年わたしはフィラデルフィアを避けてきたのだと思う。

だって、トム・ハンクスデンゼル・ワシントンて。一回の食事でカツ丼と豚骨ラーメンを両方食うがごときコッテリ感だ。

しかもゲイやエイズに対する差別をドッシリと描いた125分の法廷劇ときた。ヒィヒィ言いながらカツ丼と豚骨ラーメンを食ってたらカレーまで出てきたみたいなコッテリ感。

極めつけは、トム・ハンクスが衰弱していくエイズ患者を演じてオスカー受賞。カレーの時点で諦めかけていたのにダメ押しで豚汁まで出されたようなコッテリ感。

そんなわけで、フィラデルフィアという食卓には、カツ丼と豚骨ラーメンとカレーと豚汁が並んでいる。

こんなに食えるかよ!

 

胃もたれするほどカロリー過多。

実際、映画自体も胃もたれするほどカロリー過多である。

監督は、当時羊たちの沈黙(91年)アカデミー賞主要5部門を独占してすっかりいちびりモードになったジョナサン・デミ。彼の特徴は羊たちの沈黙スイング・シフト(84年)にも顕著だが実質的なダブル主演による演技合戦だ。役者と役者をぶつけてその緊張感をカメラで掬っていく…という撮り方をする人なんだよ。

だから本作の狙いもトム・ハンクスデンゼル・ワシントンの鍔迫り合いであり、そこが見所になっている。言ってしまえばゲイやエイズが絡んだ本筋なんて体裁を整えるためのタテマエに過ぎず、この映画に何かしらのメッセージを感じとる暇があるなら一秒でも長く二人の貌に視線を注げという映画。

 

だから必然的にアップショット主体の画面構成となる。

対話するトムとデンゼルの切り返しショット(トムのアップとデンゼルのアップを交互に見せる)によって物語は進行していくので、演出的にとても淡泊。抑揚のない歌を聞かされてる感じ。

おまけにセリフが主役の法廷モノなので、映画全体が言葉に従属しすぎていて。言葉を発さずして多くを語るのが役者の本分(または映画演技の醍醐味)だとすれば、ここにそれはありません※*1

 

喋り続ける二人のアップショットだけでもカロリー過多なのに、説話的な鈍重さがことさら胃もたれに拍車をかける。

「一週間後…」とか「二週間後…」といったキャプションが意味もなく連発されるんだよ。

シーンが進むごとにトムの顔つきが弱々しくなっていくんだから、それ見てりゃあ時制は把握できるんだけどね。

あと、デンゼルと雑談したあとにトムが人生最後のオペラ鑑賞に酔い痴れる…という幻想的なシーンがあって、その翌晩にデンゼルが家で娘を寝かしつけるシーンでまたしてもオペラがかかる。

しつこっ。

そして長っ。

しかもうるさっ。

トムのシーンに爆音でオペラをかけるのはわかるよ(余命幾ばくもないトムが唯一「生」を実感できる瞬間だからね)。でもデンゼルシーンに爆音オペラは完全に意図不明。完全なる中弛みでしかない。

 

事程左様に「なんでこんなことするの?」という不必要&意図不明な演出がベタベタ張りついていて、贅肉だらけのメタボ仕様なのである。

でも、まぁいいよ。私は昔から「『羊たちの沈黙』が名作扱いされたことで何となくウヤムヤになってるけど、ジョナサン・デミって下手だよね?」とは思ってたので、これぐらいのケガは想定内だよ。

むしろ法廷劇としてはなかなか楽しめるし、デンゼル弁護士がブラックユーモアを交えながら被告側のロジックを崩していくさまは何とも気持ちよい。舌鋒エモだよ!

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「わかりますか。僕の言ってることわかりますか。なんでわからないんですか。どこがわからないんですか」と極めて高度な論理を駆使してトムを弁護するデンゼル弁護士。

 

③「泣き」に関する一家言。

だけど、いよいよトムの死期が迫るクライマックスには妙な気持ち悪さを覚えてしまう。

トムの家族や恋人(恋人役にアントニオ・バンデラス!)が、ベッドに横たわる死にかけのトムに向かって一人ずつハートウォーミングなコメントを残して病室を去る愁嘆場。これはいい。すてき。

特に、感情を押し殺して瀕死のトムを見つめ続けるデンゼルの渇いた眼差し(デンゼル・ポーカーフェイスと呼ぶことにする)は、この映画がお涙頂戴のメロドラマに堕すことを回避していて逆に感動的

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話は逸れるけど、湿ったものが大好きな日本とか韓国のメロドラマって、涙の生搾りには精を出してるけど泣かせのパターンが貧困だよね。

泣いてる役者を見て観客も泣いちゃうっていう「もらい泣き戦法」ばっかりで。

人間の感情って脳の電気信号の反応に過ぎませんから、ヘンな話、誰かが泣いてるのを見たら自分も泣くわけですよね。涙のバケツリレーっすよ。

だからアジア的メロドラマは、観客を泣かせるためにまず役者を泣かせる。そして客がまんまともらい泣きして、それで感動させた気になっているし、客の方も感動した気になっている。

勘違いも甚だしい。

もらい泣きって、いわば共感性を利用したマインドコントロールの一種ですから。前運動野と下頭頂葉ミラーニューロンが働いてるだけ。脳の化学反応に過ぎません。感動とは無縁です。

ホラー映画で急にデカい音を出して客を驚かせる手抜き演出と根本は同じ。それで客を怖がらせた気になってるけど、いやいや「怖がること(感情)」と「驚くこと(反射反応)」は別ですからね…っていう。

つまりアジア的メロドラマは映画の力で感動させているのではなく人体のメカニズムを利用して感動という錯覚を与えてるだけ。

 

何が言いたいかというと、涙も同情も誘わないデンゼル・ポーカーフェイスで感動させたデンゼル兄貴はすばらしい役者ってこと!

 

④トムのキャラが徐々にブレていく…。

ただ、ラストシーンで全部ご破算になっちゃってるきらいはあります。

トムが死んだあと、家族や弔問客が家に集ってトムの幼少期のホームビデオをみんなで眺める…というラストシーン。

この映画でトムが演じているのはゲイへの差別やエイズに対する偏見と断固戦う「ゲイ・コミューンの代弁者」というシンボライズされたキャラクターで、物語も差別や偏見という要素に焦点を当てている。だからこそデンゼルはトムの弁護はするけど本当はゲイに対して嫌悪感を持っている…という複雑なキャラクターになってて、同性愛差別をこの2人の関係性の中に縮図化しているわけで。

だけど中盤の爆音オペラシーン以降のトムは、「ゲイの人権を主張する代弁者としてのトム」から「病気に苦しむ一人の人間としてのトム」になっちゃってて、映画の主題そのものが大きくブレてしまっている。なんだかトムのキャラクターがチグハグなんだよ。なんなの、結局この主人公のことをどう見てほしいの? っていう。

で、ラストシーンが幼少期のホームビデオでしょ。

ゴリゴリの社会派に始まった映画が、いつの間にかトムのパーソナルな話にすり替えられちゃってた…という印象で、何かをごまかされた気がしてならない。

まぁ、代弁者だったトムを「一人の人間」に修正していくことでメロドラマは成立するんですけど。良くも悪くもハリウッド的でしたね。

 

たとえばこのラストさぁ、これまでゲイに対して偏見を持っていたデンゼル弁護士が同性愛に関する弁護依頼を引き受けるようになる…みたいな着地点だったら、お話としては完璧だったと思うよ。亡きトムが与えた影響とデンゼルの成長が同時に描かれるし、この映画が志向した社会派的なメッセージにも沿ってるし。

わけのわからないホームビデオエンドよりもよっぽど一貫性があるよ!

「ラストシーンには頓着しない。むしろ映画はファーストシーンこそ全てだ」というスタンスの私だけど、今回ばかりはラストシーンにもの申してしまいました。

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ぽきぽきに痩せてオペラ狂のエイズ患者を演じたトム・ハンクス

 

追記

私はことあるごとにトム・ハンクスの顔をソラマメに喩えてきたが、本作でのトムは驚くほどハンサムで「やばい、俺のソラマメ理論が崩れる」と危機を感じました。

あと、デンゼルに口髭は似合わないね。痩せてることもあってエディ・マーフィすれすれです。

 

*1:言葉を発さずして多くを語るのが映画演技の醍醐味…演劇の芝居においてはその限りではありません。演劇芝居は、舞台と客席が離れているために役者の細かい表情までは目視できないので大袈裟な身振りと台詞回しによって感情を表現します。一方、カメラによって任意の被写体を任意のサイズで観客に提示できる映画においては、演劇的な「言語化された感情表現」はあまり好ましくない。時として「沈黙こそが最も雄弁な感情表現」になり得るからです。