どうも全員ハロー。後半のお時間がやって参りました。総合司会は私、ふかづめです。
『シネマ一問一答 前半』を読んで貴重な時間をドブに捨てて頂いた皆さん、おはようございます!
時間稼ぎ企画にしては楽しんでくれた方が3~4人いたようなので、後半となる本稿ではその数を1~2人まで減らそうと思います。そしてゆくゆくは読者数が0人になることを目指して頑張ります。
B'zも歌ってましたよね、「ゼロがいい ゼロになろう」って。
それはそうと、B'zってガチのロック好きからはナメられがちだけど、実はすごいと思うんですよ。日本のメジャーシーンで未だにハードロックを鳴らし続けてるミュージシャンなんてB'zぐらいですからね。僕の大好きなイエモンやエレカシでさえ、時代に合わせてそこからブレたりしてるので。
やべえ、脱線の予兆だぁ。こうして僕は幾度となく話を脱線させてきたんだぁ。
つうこって『シネマ一問一答 後編』です。クソ面倒臭い文章を喰らえ。
Q.16 このブログでは「映画作家」という言葉がよく出てきますが、映画監督との違いはなんですか。
A.16 私は「映画作家」と「映画監督」の違いを明確に区別して使い分けるようにしています。
映画を撮る監督のことを一般に「映画監督」と呼ぶわけですが、その映画監督の中でもとりわけ作家性の強い監督のことを「映画作家」と呼びます。
「カイエ・デュ・シネマ」という古い歴史を持つ映画批評誌がフランスにありまして、その初代編集長のアンドレ・バザンが提唱した映画批評理論のひとつに作家主義というものがあります。
作家主義というのは、ひとりの映画監督の個性・思想・表現手法を認めて「映画は監督のものである」とする考え方です。
思えば、美術、音楽、文学といった芸術領域ではごく普通に存在する考え方なんですよね。
ピカソにはピカソだけの作風があるし、『人間失格』を読むときは「作者は太宰治である」ということを踏まえて読まなければ作品の本質を思いきり見誤ってしまいます。音楽の場合だと、ある曲を聴いて好きになったら、次にその曲を作ったミュージシャンに興味が湧きますよね。
そうした「すべての表現物は作者ありき」とする考え方って映画にも適用できるんじゃない? というところから作家主義が提唱されたわけです。
たとえばスピルバーグの作品は映画単体として観ても楽しめるけど、スピルバーグ固有の映像技法や彼の生い立ち、あるいは特定のスピルバーグ作品が他のスピルバーグ作品とどのような関連性があってどのように位置づけられているのか…など、さまざまなバックボーンと照らし合わせることで、その映画をより深く理解できる。
で、より深く理解できると映画が何倍も楽しくなります。映画に限らず、芸術もスポーツも科学も政治も、全部そうですよね。
個人を知ることは全体を知ることに繋がるし、全体を知ればより楽しめる(唯一の例外は宗教だけです)。
つまり「作品だけでなく作者にも目を向けよう」というのが作家主義で、それに値する強烈な個性を持った映画監督のことを「映画作家」と呼ぶわけですが、もちろんこの世の多くの映画監督たちは独自の作風や世界観なんて持たないので、そういう映画監督のことを「職業監督」という言葉で相対化しています。
映画作家が「芸術家」だとしたら、職業監督は「職人」にあたるわけです。
したがって、すべての映画監督はこのどちらかに分類することができるっつうわけです。
他方、作家主義が権威化してしまうケースも多々あって、マーティン・スコセッシのような間違った監督が神格化されてしまうと「スコセッシの作品だから良いに決まってる!」と脳死状態で絶賛、ひいてはカルト宗教に陥る危険性もあるので、私自身もあまり作家主義を絶対視しないように気をつけております。
後編はじまって一発目からこんなカロリー過多な回答でごめんあさあせ。
Q.17 「ハリウッド・バビロン」とか「死に時間」といったわけのわからない造語に混乱しています。一度整理したいので意味を教えなはれ。
A.17 私の文章には造語が多いですよね。反省はしませんが謝罪はします。
それでは、使用率の高い造語を5つチョイスしてオレ語辞典を作ってみたいと思います(ほんの氷山の一角だがな!)。
死に時間…なんの目的も生産性もなく、ただ無為に流れているだけの無駄な時間のこと。
これはレビューでも日常会話でもよく使ってます。私は電車が嫌いで、駅のホームで電車が来るのをただ漫然と待ち続けているときに「なんや、この死に時間」と思ってしまうんだ。
ハリウッド・バビロンの生贄…ここでいうバビロンとは「バグダッドの古代都市」ではなく「体制」を意味します。すなわちハリウッド・バビロンとは「ハリウッドの体制」を皮肉めいたニュアンスで指した言葉であり、その生贄というのは「ハリウッドという巨大産業の餌食になった人々」を指します。マリリン・モンローとかね。
マイケル・ベイ現象… 『アルマゲドン』(98年)や『トランスフォーマー』(07年)で知られる監督マイケル・ベイが得意とする困った撮撮影法。カメラ振り回しすぎ&カット割りすぎにより、スクリーン上で何が起きているのかさっぱり分からないという精神錯乱みたいな映像群を指す。
類語:ザック・スナイダー現象(スローモーションだらけで遅々として話が進まないという不思議な現象)。
映画好きなのに実は観ていなかったシリーズ…そのまんまの意味で、映画好きなのに実は観ていない有名映画というのが映画好きには大なり小なり必ずあります。そしてそれはちょっとした劣等感となり我が身を蝕むのです!
「こんな有名映画を未だに観てないオレ」とか「こんな体たらくで映画好きを自称していいのか、オレ」みたいな。ね。わかるでしょ。
で、そんな有名映画をようやく観て今さらレビューするってときに、私は先手を打って「有名映画だけど今まで観たことなかったんだよね」と告白します。先にこっちから自己言及することで「え、映画好きなのにこんな名作を今まで観たことなかったなんて。とんだ恥知らずのペテンボーイだよ。田舎に帰れ」と思われることを未然に防いでいるのです。
わかりますか、この独り相撲という名の自意識との駆け引き。
映画好きが必ずぶち当たる壁…映画にハマったばかりの映画ビギナーが必ずぶち当たって頭を抱える通過儀礼のような作品群を指す。
多くの映画好きがまず最初にぶち当たるのはスタンリー・キューブリックの『2001宇宙の旅』(68年)。
その次がジャン=リュック・ゴダールのいずれかの作品だ。
その他、ジャン・コクトー、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジョン・カサヴェテス、デヴィッド・クローネンバーグにもよくぶち当たりがち。
Q.18 映画好きとしてのおまえに質問です。弱点はありますか。
A.18 ※旧友からの質問です。
もちろんあります。
日本、韓国、香港を除くアジア圏の映画にはめっぽう弱いです。中国映画やインド映画とか。
キッズ向けのアニメ映画もほとんど観ません。『妖怪ウォッチ』の劇場版とか。
また、丸出し関西人の私はとにかく育ちが悪いので、シェイクスピアのようなコスチューム・プレイ(史劇)はたまらなく苦痛です。
映画史でいえば、ポーランド派(50年代のポーランド映画)、シネマ・ヌーヴォ(60年代にリオデジャネイロを中心に起こった映画革新運動)、イラン・ニューウェーブ(イスラム革命後のイラン映画)など、わりと弱点だらけです。ゴリゴリのシネフィルと語り合ったら多分すぐにボロが出ます。
あと、これだけは言いたくなかったですが、長回しマニアを自称しているのにテオ・アンゲロプロスの作品をひとつも観ていないという悲しい事実を告白しておかねばなりません。どうぞ、嘲笑してくださいよ。
Q.19 「役者たるものこうあるべきだ」というのを教えないと鍋にぶち込んで茹でるからね。
A.19 ワキリントさんからの質問です。茹でられたくないのでお答えします(茹でられるにはまだ早い)。
質問の意図とは思いきり逸れるかもしれないけど、私は「上手い演技なんて存在しない」という持論を声高に叫んでいるので、上手い演技をしようとしている役者はその時点でアウト・オブ・眼中です。
レビューを読んでいると、よく「演技力が~」とか「この俳優は演技が上手い」などと訳知り顔で言っているけど「なんですか、それ?」と。
私は、誰かの映画評論を読んでいて「演技力」という単語が2回以上出てきた時点で即座にページを閉じます。
なんだったら、この世ではじめて「演技力」という言葉を発した人間に往復ビンタしたい…とさえ思っています。往復ですよ。
たとえば、演技力(笑)が極端に高い主演俳優がいて、あとは全員どうしようもない大根役者ばかりの映画があったとしましょうよ。
どういう風に見えますか?
その映画の中でヘタに見えるのは演技力が高い主演俳優だけですよ。
周りはみんなセリフ棒読みで顔が引きつってるカスみたいな大根役者ばかりだから、観客の目には演技力の高い主演俳優が相対化にヘタに見えるのです(異化作用と言います)。
主演以外が全員ヘタな映画においては、ヘタが基準になっているからです。基準というのは映画内におけるリアリティラインのことです。
せっかく周囲の大根役者たちがヘタというリアリティラインで統一してるのに、主演一人だけ迫真の演技なんかしたら「足を引っ張るな。俺たちのレベルに合わせろ」ということになります。
観客としても、はじめこそ「まともな役者は一人だけか…」といって大根役者の学芸会演技にうんざりして主演俳優の上手さに感心するでしょうが、徐々に「ヘタが当たり前」というリアリティラインに目が慣れるにつれて「主役だけ浮いてるなぁ」と感じ始めるようになります。なまじ主役の演技力が高いばかりに。
要するに「上手い役者」と「下手な芝居」はイコールで、そうなってくると、もはや「上手い芝居ってなに?」という禅問答に行きつくわけです。
今のケースだと、周囲が大根役者ばかりならそのレベルに合わせて下手な芝居をすることこそが上手い芝居になるわけですから。
したがって「役者たるものこうあるべきだ、というのを教えなはれ」という質問に私なりの答えを提出するなら「役者たるもの『上手い・下手』という幼稚な二元論で芝居するなかれ」という、ずいぶん偉そうな結論に辿り着いてしまいます。
繰り返すようで申し訳ないけれど、「上手い役者」と「上手い芝居」はまったく別ものです。
上手い芝居をしたから上手い役者だ…とか、そんな程度の低い話じゃないんですよ。芝居の奥深さをナメるな!(芝居なんてしたことないけれど)
本当に上手い役者ほどヘタを演じるし、もっと言えば芝居をすることではなく映画を理解することこそが役者の仕事だと考えるのです。
Q.20 ふかづめさんはどういう映画が嫌いなのか気になります。嫌いな監督とか。教えてみない?
A.20 当ブログにサイコパスのような頻度でコメントをくださることに定評のあるGさんから、ステキな質問を頂きました。
ここからは輪をかけてカロリー過多のやかましい話になるので、ご覚悟あそばせね!
抽象論で申し訳ないですが、私が心から憎悪する映画はバットを振りきらなかった映画です。
やりたいことを思いきりやりきって大失敗した世紀の駄作は、やりたいことを思いきりやりきって大成功した世紀の傑作と同じぐらいの情念や激情がほとばしっているので、そうした世紀の駄作は全身全霊で擁護します。たとえ出来が悪くても、命懸けで作ったものは表現物としては最高なので。
つまり私にとって、フルスイングしたという意味においては「最高位の傑作」と「最底辺の駄作」はまったくの等価値なのです。
DA・KE・DO!
命懸けで玉砕する勇気もなく、「製作費を回収できる程度に10人中6人に『まあまあ良かった』と思ってもらえれば御の字だ。たとえ翌週には綺麗さっぱり忘れ去られたとしてもね☆」なんつって、そこそこのものを目指した60点映画は心から軽蔑します。
そういうのを私はバットを振りきらなかった映画と呼んでいます(また造語)。
それはもはや「作品」ではなく「商品」なので、商材としては理に適っているかもしれないけど、表現物としては宇宙追放級のゴミと断じざるを得ません。
10人中10人の魂をブッ貫いた傑作。
端的にすばらしい。涙さえ出る。
10人中9人からは鼻で笑われたけど、その内の1人の魂をブッ貫いた駄作。
これもすばらしい。西野カナばりに震える。
10人中6人に「まあまあ良かった」と思ってもらえたけど、翌週には綺麗さっぱり忘れ去られた凡作。
はぁ?
要するに、バットを振りきらなかった60点映画なんて観ても観なくても同じなんですよ。
我ら人類が、わざわざ金と時間と体力を使って映画を観たり音楽を聴いたり読書をするのはショックを受けたいからなんですよ。
価値観を揺さぶられたり、感性を豊かにしたり、見識を深めたり、視野を広げたり、違った景色が見えたり、自分にはない感覚や思想に触れたり…。
誰かの作った何かによって自分の中の何かを触発されるために映画を観るんですよ。「SHOCK HEARTS」ですよ。
「知的快楽」とはそういうこと。
「文化的営為」とはそういうこと。
ずいぶん大袈裟に聞こえるかもしれないけど、新しい世界を知ることの歓び、その歓びが自己を刷新して、新たな自分と巡り会う…っていう精神の旅だよ!
極論めいた話になるけど、文化や芸術が何のために存在するのかといえば「精神の旅」をガイドするために存在するわけです(この説が正しいかどうかは俺は知らない。それは各々で判断してください。間違ってたら謝る)。
でも、目先の小遣い稼ぎのためだけに作られたバットを振りきらなかった60点映画に精神の旅はない。無価値だ。
本当に価値があるのは「100点に近い映画」か「0点に近い映画」だけ。60点とか、そんな毒にも薬にもならない平均点映画などお呼びでない。チェンジだ、チェンジ。帰れ。精神の旅を邪魔すんな!
なので私が嫌いな映画は、中途半端な態度で作って中途半端に売れて中途半端に評価された中途半端な映画です。
Q.21 ふかづめさんは大学で映画を学んだと伺ってますが、ご自分で映画を撮ったりしたんですか?
A.21 はい、またGさんからの質問です。アメリカ在住なのにアメコミが苦手という、まるでスペイン出身なのにチョリソ食うのを嫌がるスペイン人みたいなゴーイングマイウェイ精神を持っていることでお馴染みのGさんです。いつもアリス。
で、質問なんでしたっけ? あぁオーケー、オーケー。いま読み返しました。
私が通っていたのはもうひとつパッとしない美大ですが、そこで映画は学んでないんですよ。主に芸術全般について学んでいて、映画の話はチラッと出てくる程度です。
基本的には無手勝流の独学です。
大学時代は1日1本以上映画を観るのがライフワークになるぐらい人生で最も映画に狂っていた時期で、映画を観てないとき(通学途中、食事中、入浴時)は、手当たり次第にわけのわからない評論本やわけのわからない学術書を読み漁ったり、映画評論のラジオを聴き続けていました。
その結果、頭でっかちのうるさ型シネフィルになってしまったんだよ。だれか元に戻して。
映画を撮ろうと思ったことは一度もないです。
友人にはよく「そんなに映画が好きなら映画監督になればいいじゃない」と言われましたが、そのたびに青森のリンゴみたいに顔面を紅潮させて「ばか! やたらなことを口にするんじゃない!」って。あのころの私は青森のリンゴでしたね。
自慢と言い訳をミックスしたような言い方になってしまうけど、たぶん私は映画を撮るには映画の恐ろしさを知りすぎてしまったのかもしれません!
映画というのは、寒気がするぐらい底が見えない。
「おまえは映画というものを何パーセント理解していますか?」と問われれば、まぁ15パーセントぐらいでしょう(「嘘つけ。そんな高いわけあるか!」と思ってくれた方の感覚こそ正常です。15パーセントは傲慢なほど大きい数字です)。
で、残り85パーセントはまったくの未知ですし、それを知りたくて映画を観続けているので、とてもじゃないけど自分で撮ろうなんて厚かましい考えには至りません。人が撮った映画に寄生してやいのやいの言うだけで精一杯のエキノコックスです。どうぞよろしく。
Q.22 mixiレビューでは星評価を参考にしてました。『シネマ一刀両断』では点数をつけないの?
A.22 ツルコフさんという、わりと古い付き合いになる、ロシア人みたいな名前だけど実際たぶん日本人って感じのマイミクさんから頂いた質問です。ちなみにツルコフさんは北欧映画の申し子で、暇さえあれば北欧映画ばかり観ているらしいです。
で、なんの話ですか?
あぁオーライ、オーライ。映画採点ね。
mixiレビューでは好むと好まざるとに関わらず5点満点で星評価をつけさせられてましたが、私はもともと映画を点数化することに異を唱えている人間なので、当ブログでは点数はつけません。
点数評価というものには、どこか高慢ちきな臭いが漂っていて。まるで教師が生徒の答案用紙をバシバシ採点していくような。
「そもそもおまえは教員免許(映画を正当にジャッジする審美眼)を持ってるのか?」という自分自身への疑問もありますし、「じゃあ65点の映画と60点の映画の違いはどこにあるんだ? どういう評価基準で点数つけてるの?」となれば、たぶん多くのレビュアーは好みと気分なんですよね。
特に私なんか「最高位の映画と最底辺の映画は等価値である」という持論を持っているので、そうなると、もはや星5つの映画と星1つの映画はまったくのイコールなんですよ。
5点満点の星評価なんて何の意味もないし、何の指標にもならないですよ。
まったくアホらしい。何がmixiじゃ。そんなことしてるから過疎るんじゃ!
そもそも、映画のおもしろさは点数化できないというところにあると、アホの私なんかは睨んでいます。
たとえば、スマホを指でスイスイしながら「なんぞ良い映画はないかなぁー」つっておもしろい映画を探している現代人丸出し野郎が、お気に入りの映画ブロガーやレビューサイトにアクセスして、そこで90点がついてたら「あ、傑作なんだな!」と思って、その点数を鵜呑みにしてしまう。
これは早合点というものです。
そのレビュアーが90点をつけた背景には、もしかしたら「その監督の過去作をすべて観ている人にとっては90点です」とか「特定の感性を持っている人にとっては90点です」とか「オレが個人的に大好きだから90点です。文句あるなら来い」といった90点をつけるに至った理由(評価のプロセス)があります。
で、その理由(プロセス)を知るためには本文を読むしかないわけですけど、悲しい哉、悔しい哉、最後にドーンと点数を載せちゃうと、あまり真面目には読まれないと思うんですよ、本文が。
なまじ点数化することで評価を数字でまとめちゃってるので、そうなると読者にしてみれば「点数だけ確認すればこのレビュアーがこの映画をどう評価しているかは大体わかる」と思ってしまうわけです。特に現代人って「まとめサイト」みたいな分かりやすいものが大好きですもんね。
そうすると、物書きにとってはいちばん読んでもらいたい本文が読まれにくくなる(もちろん良い文章を書いている人なら、本文までちゃんと読んでもらえるでしょうが)。
自分がつけた90点が額面通りに受け取られて、90点をつけるに至った理由や根拠(これぞ評論のメインディッシュなのに!)が無視されて「あ、傑作なんだな」と早合点されてしまう。
それってチョー悲しい。
なので私は、映画を点数に置き換えることはしません。
本文を読んでもらえれば、私がその映画にだいたい何点ぐらいつけたのかを察して頂けるように書いているつもりなので。
むしろ、私の評論を読んでくれた方が点数をつけてください。
「ふかづめの餓鬼がその映画に何点つけたがっているか?」、あるいは「ふかづめの評論は何点だったか?」。どちらでも構いません。採点は読者様にお任せします。
もちろん批評スタイルは人によって様々だし、様々だからこそ批評は面白いので、いま述べたことは「私のこだわり」であって、決して映画を点数化しているレビュアーの評価方法を否定するものではございません(という言い訳じみたフォローを入れておく…という今風の身振り!)。
「いや、自分にはこういうこだわりがあって点数化してます。ナメとったらいてまうど!」という映画レビュアーがいれば、ぜひいろんな意見をお寄せくださいね。
Q.23 映画が他の表現媒体(音楽、小説、マンガ、アニメなど)よりも優位な点はなんですか?
A.23 この『シネマ一問一答』、実は一回だけパスが使えるという裏ルールがあるんですよ。
いつ使う? 今でしょ。
パス!
すみません、その質問だけは答えたくないので黙秘権を行使します。容疑者のように押し黙ります。
せっかく真面目に質問してくれたのに、こんなブザマな回答をして本当にすみません。
Q.24 おまえのブログを読んでると「縦軸横軸 評価法」とかいうわけのわからない言葉が出てくるけど、なんだそりゃ。意味のわからないことを言って人民を惑わすな。
A.24 私の文章にはわけのわからない造語が多くて本当に申し訳ないと常々思っています。
「縦軸横軸 評価法」は、映画批評をする際、その映画の「良し悪し(技術論)」と「好き嫌い(感情論)」を区別するために独自開発した批評メソッドです。
私はいつもこのメソッドを使って映画評を書いてます。
まずはその映画が「技術的にどうだったか?」について分析します。
たとえば、あのシーンには胸が締めつけられた→なぜ胸が締めつけられたのか?→「別れを告げる女の顔」ではなく「別れを告げられた男の顔」にカメラがクローズアップしていたから失恋の悲しみがダイレクトに伝わった。…という風に。
映画を観ていて感動した瞬間、おもしろいと感じた瞬間には、必ずそれ相応の理由があります。すべて技術的に説明がつくのです。
「なんとなく面白かった」のなんとなく、「なんか感動した」のなんかを見つけだす作業。いわゆる技術論。これを縦軸とします。
次に、その映画に対する個人的な感情を明確化します。
あのシーンには胸が締めつけられたけどなんかイラッとした→なぜイラッとしたのか?→役者の顔がむちゃむちゃブサイクだったから。
ただの感情論ですね。これを横軸とします。
そして最後に、導き出した縦軸と横軸をひとつの文章に落とし込むのです。正直に。
よって、私の評価には「おもしろい・つまらない」の二元論ではなく、大まかに分けて四通りのパターンが存在します。
①出来が良くて、好きな映画。
②出来が悪くて、嫌いな映画。
③出来は良いけど、嫌いな映画。
④出来は悪いけど、好きな映画。
たとえば『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』評なんかは、まさに③です。出来栄えについては褒めちぎって「良し」とする一方、個人的には苦手な題材なので「嫌い」という感情を混ぜ込んだ評になっていると思います。
なぜ「縦軸横軸 評価法」を編み出したのかというと、この世には「良し悪し」と「好き嫌い」を混同した評があまりに多すぎるからです。
「大好きな映画だから欠点は見なかったことにして全肯定!」とか「この映画にはムカついたから良いところがあっても全部けなす!」という風に、往々にして人は、物事の客観的な在り様と個人的な感情を一緒くたにしてしまいがちです。
いやいや、「良し悪し」と「好き嫌い」は別ものだから、そこは分けて考えましょうよ…という発想でもって独自開発したのが「縦軸横軸 評価法」なのですね。なっとく。
要するに、なるべくフェアに物事を見たいという態度の権化です。
「良し悪し」と「好き嫌い」は、どちらが欠けてもダメだと思うんす。
映画理論に則って「良し悪し」を判断せず、ただ自分の「好き嫌い」だけで自由に語るのは評論ではなく感想ですし、そんなアカの他人の「わたしはこうおもいました!」みたいな感想文を読んだって何の参考にもなりません。
とはいえ「好き嫌い」を表明することも大事です。
なんとなれば、「好き嫌い」を表明せず、ただ映画理論に則って「良し悪し」だけを無機的に判断していくのは評論ではなく答え合わせですし、そんなものはチャチャッとプログラミングすればコンピューターにだって出来るわけです。そうなると、わざわざ血の通った人間がレビューなんて書く意味がないし、第一、映画には理屈を超えた情緒というものがあるのです。
すなわち「縦軸横軸 評価法」とは、理性と感情を融合した弁証法なのです!(ドヤ顔)
完全なるオレオレトークにお付き合い頂き、まことアリスの極み。
Q.25 最近映画にハマりました。映画についていろいろ知りたいので、どの映画から入ればいいか教えてください。
A.25 いち映画ファンとしては喜ばしい限りです。地獄へようこそ。
「最近映画にハマりました」のあとに続く言葉が「おすすめ映画を教えてください」ではなく「どの映画から入ればいいですか」であることに、当方、深く深く感動しております。恐らくあなたはアカデミックな精神の持ち主だとお見受けしますし、高飛車な言い方ですが、そういう人をこそ私は尊敬してやみません。もう大好き。ハグしちゃう。
…と、ここまで言っておいてなんだけど、私の答えは「好きな映画を観ればいい」と、こうなるわけです。僕が僕である限り。
どの映画から入ればいいか…。その質問に対する合理的なアドバイスは確かに存在しますよ。
合理的にアドバイスすれば、映画が発明された1890年代から10年単位で「名作とされる映画」をいくつか観ていけばいい…となります。
たとえば、1920年代なら『カリガリ博士』(20年)に『戦艦ポチョムキン』(25年)。
1930年代なら『モダン・タイムス』(36年)に『駅馬車』(39年)。
1940年代なら『市民ケーン』(41年)に『天井桟敷の人々』(45年)…という具合に。
でも、そういう見方ってお勉強してる感じがあって堅苦しいし、たぶん楽しくないですよ、映画観てて。
そんな、教育ママからレール敷かれまくりのガリ勉エリート路線を辿るより、フラッとビデオ屋に立ち寄って「お!」または「あ!」と思った映画をジャケ借りすればいいんですよ。
実際、この世のほとんどの映画好きはそうしてるよ。「お!」または「あ!」と呟くエブリデイだよ。
畑を耕すには農業の知識がいるけど、映画の耕し方なんてデタラメでいいんだよ、デタラメで。ウンコばらまいときゃいいんだよ。半狂乱で鍬を振り回しときゃいいんだよ。
なんとなく心に引っかかったタイトル、なんとなく気に入ったパッケージデザイン、なんとなく「この俳優、好っきゃわ~」と思ったスチール写真…、その映画を観ろ!
そこからオマエだけの映画史が耕されていきますから。
オマエの畑なんだから、晴耕雨読って感じで、自由にのびのび耕しなよ。
※ただし、ネットの下馬評に依存するのはあまり推奨しません。
あえて商売上がったりの禁句を破って口にしますが、そもそも映画レビューというのはすでにある程度の映画リテラシーを持っていて自分の頭で取捨選択できる人たちが楽しむ「知識人の道楽」ですから、これから映画について深く知ろうとする人がそこに頼っても洗脳されるだけです。
取扱注意。畑のたとえになぞらえるなら農薬だよ。
あれを観ろ、これは観るな、映画の見方はこうだ、この監督はとにかく褒めろ…ってね。
実際、著名な映画評論家やレビュアーの影響をモロに受けて、その人の感性・価値観・思想をまるっきりトレースしちゃったような映画好きはゴマンといます(何を隠そう、私自身もそこに陥ったクチですから)。
オマエの大事な畑、踏み荒らされるぞ!
こうなってくると、もはや映画に限った話ではないけど、大事なのは主体性を持つことです。
自分の頭で考えて、いちいちブレないような自分だけの理念や哲学を持って、他者からのしょうもない影響をバリアする自分だけの感性で物事を判断することが大事だと私なんか愚考するン。
他人が言ったことなんて半分以上ウソだから惑わされるな。誰かの言ったことに影響を受けるな。『シネマ一刀両断』を読んで「なるほどな~」なんて思うな。
人を見たら泥棒と思え。
真実はオマエの中だけにある。
だからおまえはオマエの眼で映画を観てください。
そしてその感想を私に聞かせてください。
オマエが観てオマエが感じたことを、私はオマエの口から、オマエ自身の言葉で聞きたいのです。
いつか、オマエの畑に遊びに行かせてね。