シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

黒い牡牛

動物の尊厳を描いたドナドナ型の闘牛映画!

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1956年。アービング・ラパー監督。マイケル・レイ、ロドルフォ・オヨ・Jr、エルザ・カルデナス。

 

メキシコの農村。母親を亡くした少年レオナルドは、その夜、落雷で倒れた大木の下敷きになっている黒い子牛を発見する。父親から許可を得て、子牛を「ヒタノ」と名付けて育て始めるレオナルド。1人と1頭の間には、次第に絆が芽生えてゆく。やがてヒタノは牧場主のものであることが判明するが、牧場主はヒタノをレオナルドに任せることを約束。ところが、牧場主が事故死したことから、ヒタノは闘牛場へ送られることになり…。(Amazonより)

 

やっほほ。みんなどう?

昨日は一日じゅう虫の居所が悪かったです。

といっても私は、365日、常に何かしらに対して怒っているので、いわばこれが日常なんですよ。生まれたときから既に怒ってましたからね。「何なんだ、この世界は」って腹を立てながら分娩室で誕生したわけです。

あと、別に怒ってないときでも怒ったような顔をしています。

怒りの根源って「疑問」だと思う。

「なんで?」という疑問が強くなっていったものこそが怒り。

たとえば「仕事がトロくてむかつくので、これからあなたを殴ります」と前もって予告したあとに殴ってくる奴に対して、人は腹を立てない。仮に腹が立ったとしても、それは殴られたという外的刺激に対する感情の乱れに過ぎないので、怒りではなく「興奮」である。

一方、何の理由もなく急に殴られたら、人はまず「なんで?」と疑問を抱く。なぜ殴られねばならないのか? どれだけ考えても答えは見つからないので「不快感」を抱くようになる。そして「理不尽だ」と結論する。その理不尽な事柄に対する感情に名前をつけたものこそが「怒り」なのだ。

 

裏を返せば、普段あまりモノを考えずに生きている人は基本的には怒らないし、温厚な性格だと思う。パリピとかね。「アホはおめでたい」とか「バカの方が幸せになれる」という言説の意味するところはここにある。

要するに、考えるから怒るのだろうな。いつも考え事ばかりしている人(主婦や学者)や、自分なりの考えを持って譲らない人(夫や文化人)ほど気難しくてよく怒る。

でも、だからこそ怒りって大事だと思うン。喜怒哀楽の中でいちばん大事。怒りの根源は疑問を抱くこと。疑問を抱かないと科学も政治も文化も産業も発展しない。それらが発展しないと人類は死ぬる。

怒りは人を突き動かす。ロックンロールだ!

だいたい、浮世の人民は「怒り」というものをネガティブに捉えすぎている。波風立てず、できるだけハッピーな方がいいよねって。確かにそれは素晴らしいしラブ&ピースは最高だけど、それだけになってしまうと全世界が思考停止して頽廃、衰退、死あるのみって感じになってしまう。何に対してもキレまくるのはただのヤカラだけど、「なんで?」という疑問を抱いたら徹底的に追求して怒っていきましょう!

 

…というのが、年中怒っている私が「まぁまぁ。そんなに怒るなよ」となだめられたときに返す必殺の詭弁です。

眉間にしわを寄せすぎてムッとした表情がデフォルトになってしまった私をどうかよろしく。みんなの楽しいブログを読んでる時でさえムッとしてるからね。

まぁ、そういうわけで『黒い牡牛』です。「もー!」が口癖の私にはぴったりの映画だ。

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◆トランボが二束三文で偽名を使ってまで書き上げた珠玉のシナリオ◆

ローマの休日(53年)は好きですか。

皆さん好きですね。

好きじゃないという奴はローマで休日を過ごす資格なし。アイスなめる資格なし。

まぁ私はそれほど好きではないのだが。べつに今後ローマで休日を過ごすことなんてないし、アイスなめたいって欲望もないし。グレゴリー・ペックよりケーリー・グラント派だし。

そんなローマの休日の脚本家として知られるダルトン・トランボが、赤狩りでハリウッドを追われていたことから「ロバート・リッチ」という偽名で原案を執筆した作品が今回の『黒い牡牛』である。本作はアカデミー賞原案賞を受賞したが、会場でオスカーを受け取ったのはトランボの替え玉だった。

 

『黒い牡牛』はトランボを知っていれば感慨ひとしおである。

ハリウッドに迫害され職を奪われたトランボが、二束三文で偽名を使ってまで書き上げた珠玉のシナリオなのだ。当時の人々は、まさか『黒い牡牛』を書いたのがトランボだとは夢にも思わないので、アカデミー賞原案賞の栄光はロバート・リッチという架空の人物に譲られることになった。

ようやくトランボが偽名で執筆活動をしていたことが世に知られ、改めて本人にオスカー像のレプリカが授与されたのが『黒い牡牛』の公開から19年後の1975年。トランボが亡くなる前年だった。

ちなみに、当時は脚本家イアン・マクレラン・ハンターが書いたとされていたローマの休日の原案賞も、公開から40年後の1993年(トランボの死後)に改めて贈られ、原案者クレジットもハンターからトランボへと正式に変更された。

 

まさに、ハリウッドの逆風に晒されながら誰にも知られることなくシナリオを書き続けた孤高の脚本家。

彼にまつわるエピソードは『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(15年)に詳しいので、古い映画に興味がない人もぜひ観てみてください(激烈にいい映画です)。

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 実際のトランボ(左)と、トランボに扮するブライアン・クランストン(右)。


◆よく連れていかれる牛の話◆

さて。少年と牡牛の交流が描かれる本作だが、およそハートウォーミングとはかけ離れたシビアな作品だった。

レオナルド少年の母親の葬儀に始まるファーストシーン。いかにも陰気。次のシーンではレオくんの家の牧場で飼っていた牝牛が雷に撃たれて死ぬ。いかにも陰気。死ぬにしても雷て。

だが牝牛が死の直前にぷりっと産んだ仔牛は、レオくんを絶望の暗夜から救い出した。牡の仔牛に「ヒタノ」と名づけたレオくんは、いつしかヒタノとマブダチに。

だが、ヒタノは事あるごとに邪悪な大人たちに連れていかれそうになる。「ドナドナ」を5回歌っても足りないぐらい何度も何度も捕らわれの身になるのだ。おまえはピーチ姫か?

隙あらばすぐに連れていかれるヒタノ。それを取り戻すレオ少年。このヒタノ救出作戦がしつこいぐらい繰り返される。おそらく本作はポン・ジュノ『オクジャ okja』(17年)に影響を与えているだろう。

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大好きなヒタノと寝るレオ坊。焼肉食ってる夢見てたらおもしろいのに。

 

次第に成長するヒタノには恐るべき闘牛ポテンシャルが秘められていた。すっかり大きくなったヒタノは、大地を揺るがし、柵の壁を突き破り、ニワトリを追いかけ回す。百万馬力の猛牛だ。

これに目をつけた邪悪な大人たちは、やっぱりヒタノを連れていく。「強いんだから少しは抵抗せえよ、ヒタノ」と思ってしまった。だがヒタノは抵抗しない。普段は見るものすべてを蹂躙し尽くす猛牛だが、連れていかれるときはスーッと連れていかれるのだ。

大人たちはヒタノをスペインに連れて行って闘牛にしてしまう。

ここでおもしろいのは、ヒタノを救い出すために単身スペインに乗り込んだレオくんが闘牛場に乱入して「やめて、やめて!」などと情に訴えて競技をやめさせるのかと思いきや、なんとスペインの大統領に会いに行って「このままだと僕の大事な牛がやられてしまうので、今すぐ競技をやめさせてください!」と直訴するのだ。

国のトップに直談判…。掛け合うところ間違えてない?

だが、ばかに物分かりのいい大統領は「やめたりーな」と一筆書いてやり、レオくんはその手紙を持って闘牛場へと走る。

 

闘牛場では、名うての闘牛士が赤い布をヒラヒラさせては突進してくるヒタノをかわす、みたいな白熱のプレイがおこなわれており、いよいよ競技も大詰め、ヒタノの背中をブスブスと槍で刺し、とどめの瞬間を迎えようとしていた…。

ヒタノ「背中、熱っつー」

だが、血だらけになっても勇敢に闘牛士に立ち向かうヒタノに心を動かされた人民が殺すなコールをしたことで、恩赦が与えられてヒタノは生かされることに。

ラストシーンで、レオくんとヒタノが寄り添いながら会場の出口へと向かうシルエットが実に美しい。

 

◆殺される者の誇りと尊厳◆

本作の見所は、まず第一にジャック・カーディフの撮影だろう。

『黒水仙(47年)アフリカの女王(51年)戦争と平和(56年)などスペクタキュラーな画をよく撮る撮影監督だが、本作でカメラを向けたのは青空と積乱雲。まるで細田守のアニメのようだ。

また、雄大な自然をバックに動物たちと走り回るメキシコから、ビルと自動車でごった返すスペインへと舞台が移っていくが、二通りの街の活力が見事に描き分けられている。

 

そして、「レオくんの愛情がヒタノを救う」というありがちなメロドラマには堕さず、「ヒタノの威厳と強勇が勝利する」という着地点の高潔さ!

この映画に「子供と動物のメロドラマ」はない。ヒタノは自力で生を勝ち取ったのだ。

結局、大統領の手紙はクソの役にも立たなかったが、大統領に命令されたから競技を中止するのではなく、ヒタノの勇敢さに胸を打たれた人民が自発的に競技中止を訴えるというところがミソなのだ。

ヒタノが体現した「殺される者の誇りと尊厳」は、このシナリオを手掛けたトランボ自身へと照射される。実際に『黒い牡牛』が勝ち取った原案賞は後年トランボに贈られ、闘牛場で戦い抜いたヒタノと同じように人々から祝福されたのだから。

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恩赦が与えられたヒタノを抱きしめるレオくん。

レオくん「よしよしよし。かしこいな、かしこいな」

ヒタノ「背中、熱っつー」


◆闘牛に対する一家言◆

本作への讃辞を根底から覆す形になるかもしれないが、闘牛が嫌いだ。

もうぜんぶ人間の勝手だわな。

勝手に連れてきた牛を挑発して最終的に剣でブスブス刺し殺して「いい闘いだった!」とか。いやいやいや。どのみち牛は殺されることが前提になっていて、もう出来レースも甚だしい。競技という名の殺戮ショーだよ。

基本的に人間は野蛮なのでそれ自体は別にどうでもいいのだが、私が嫌悪感を覚えるのは「闘牛を見て感動する」という観客サイドの精神の在り方である。

「人間も牛も勇敢だった! よく頑張った!」といって、まるでファイターを讃えるかのように「一方的に惨殺された牛」にスポーツマンシップを重ね合わせて感動なんかしちゃったりして。「狂ってるなぁ…」と私なんかは思います。

そのくせ、牛が闘牛士を襲った途端に「何してけつかんねん!」とばかりにその牛は大勢の人間から袋叩きにされてぶっ殺される。えぇー。

闘いと言っておきながら「牛が手を出すのは許さない」って。そういうのを「なぶり殺し」と言うのでは?

北斗の拳のクラブかよ!

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クラブ様。「一瞬でも俺の体に触れることができたら生きて解放してやろう」と言っておいて、いざ触った者は「家畜の分際でこの俺の体に触りやがったな!」と理不尽な言い分で惨殺するDQN


そんなわけで、映画はよかったけど闘牛の決闘精神はイヤだ、という二律背反したワガママな結論に至って候。