遊び飽きたオモチャをぶつけ合う惰性の遊戯。
2017年。ミヒャエル・ハネケ監督。イザベル・ユペール、ジャン=ルイ・トランティニャン、トビー・ジョーンズ、ファンティーヌ・アルドゥアン。
建設会社を経営し、豪華な邸宅に3世代で暮らすロラン一家。家長のジョルジュは高齢のためすでに引退し、娘のアンヌが家業を継いでいた。アンヌの弟で医者のトマには、別れた前妻との子で13歳になる娘エヴがおり、両親の離婚のために離れて暮らしていたエヴは、ある事件をきっかけにトマと一緒に暮らすためカレーの屋敷に呼び寄せられる。それぞれが秘密を抱え、互いに無関心な家族の中で、85歳のジョルジュは13歳のエヴにある秘密を打ち明けるが…。(映画.comより)
一昨日、友人から電話がかかってきて、開口一番「餃子は好き?」なんてふざけたことをぬかしやがった。
「なんで?」と訊き返したらば「いや、先に答えて。ふかづめの答え次第でこのあとの話の流れが変わってくるから。…餃子は好き?」なんつって、融通の利かない一方通行の質問が再び。
友人が何らかの計画を隠し持っているのは明らかで、たぶんその計画は「餃子パーティーしようぜ」とかその程度のモノなのだろう。だとしたら友人は、きっと私に「餃子、好きよ」と答えてほしがってるだろうから、私は求められた通りの回答、すなわち「好きよ」と答えた。そう答えないと話が進まないから。
すると友人、「どれくらい好き?」とか「5段階評価ならどのあたり?」なんつって、私の餃子に対する愛を測ろうと、とてつもなく面倒臭いことを言ってくる。とはいえ私は厳密化の鬼なので「超好き」なんてテキトーに答えることができず、「けっこう好きよ。5段階評価なら4。10段階なら7。最後の晩餐ランキングの19位に堂々のランクイン」なんて答えたら、ようやく納得してくれた友人はやっと本題に入った。
「餃子パーティーしようぜ」
うん、まぁ…、だと思ったよ。
それ以外考えられないもの。必然の帰結だよ。ていうか、こんなミエミエの話でよくこれだけ引っ張ったな。最初から「餃子パーティーしようぜ」って言えばええやないか。あほか。回りくどさの鬼か。迂回の達人か。
そんなわけで、今月末は拙宅で餃子パーティーが開催されることになりました。たぶん夜通し餃子を焼き続けるという地獄の様相を呈すと思うので、翌1日のレビューはお休みしますっていう業務連絡でした。
じゃあ今日は『ハッピーエンド』ね。 ハッピー、苦ピー、エンドルフィン。
◆どいつもこいつも半身メディア怪人◆
この映画はスマホのムービー画面に始まる。
12歳のファンティーヌ・アルドゥアンがペットのハムスターに精神安定剤を食べさせて殺し、そのあと母親にも同じことをして毒殺未遂事件を起こす。そして「Happy End」のタイトルがスクリーンに浮かび上がる…。
どうやら今回もハネケ節は好調らしい。
ミヒャエル・ハネケといえば、『ベニーズ・ビデオ』(92年)や『ファニーゲーム』(97年)など胸糞悪い映画ばかりを嫌がらせみたいに撮っては人々をアジテートする挑発者だ。
だから母親とペットに毒を盛って「Happy End」とするアバンタイトルに「来た来た、今回もカマしてきたな!」と大いにニヤつくのである(『ファニーゲーム』で幸せいっぱいの家族が別荘に向かう途中でデスメタルが大音量で流れるアバンタイトルの変奏でしょう)。
二人組の男が幸せな家族を散々いたぶった末に殺害する『ファニーゲーム』。カンヌ映画祭では不快感を露にして席を立った者が続出、ビデオの発禁運動まで起こったが、ハネケが凄いのはこの映画を『ファニーゲーム U.S.A.』(07年)としてハリウッドでセルフリメイクしたこと。まさに嫌がらせの天才。
そしてこのアバンタイトルはファンティーヌが撮影したスマホ動画として画面に提示され、それを見たわれわれは秘密の共有を強いられることになる。
かわいい顔とは裏腹に毒殺少女として暗躍するファンティーヌは、母が入院して身寄りがいなくなったために祖父のジャン=ルイ・トランティニャンと叔母のイザベル・ユペールが暮らす豪邸に招かれるのだが、彼らは毒殺未遂事件の犯人がファンティーヌであることを知らない…。
スマホ動画、ビデオ撮影、監視カメラなどの映像を使う「フレームの二重化」は『ベニーズ・ビデオ』や『隠された記憶』(05年)でも繰り返されてきたハネケ的技法で、そこではもっぱら「現実と虚構」を線引きするための装置として使われてきたわけだが、本作でのスマホ動画(虚構)が意味するものはSNSだ。
ファンティーヌはチャットを使って心の中の毒を吐き出し、ユペールの弟でありファンティーヌの父親でもあるマチュー・カソビッツは二人目の妻に隠れて不倫相手とfacebookでテレフォンセックスならぬチャットセックスに興じる。
御年75歳のハネケは「現実社会への無関心」を風刺した『ハッピーエンド』を撮るにあたって、SNSを猛勉強したらしい。
たぶん私よりもハネケの方がSNSに詳しいだろう。私はスマホを持っていないし、10年以上使っている老いた傭兵のようなガラケーだってもっぱら時計がわりに使っている程度で、休日に外出するときにいちいち持ち歩いたりしない。そもそもアイフォンとスマートフォンの違いさえまったく理解していないのだし、赤信号や電車内でLINEばっかりしている奴を見ると「この半身メディア怪人が!」といってブン殴りたくなる。
まぁ、かく言う私もサビビやmixiなどで14年ぐらいSNSのオデッセイを経験した半身メディア怪人ゆえにスマホ依存の現代人を批判する資格なんてないのだけど。
◆惰性の遊戯◆
それを差し引いても、今回の作品はハネケにしては凡庸というか、はっきり言ってぬるい。
もちろん技法的な意味ではハネケ節は健在である。被写体を突き放したフィックスショット(固定撮影)や恣意的な長回しだけでなく、色彩、調度品、役者の芝居など画面内のすべてが渇いていて、どこにも愛がない。
何の迷いもなくハムスターを毒殺したファンティーヌのように、ハネケは自身の映画に出てくるキャラクターをモルモットのように扱い、まるで無垢=残酷な子どものように生殺与奪の特権を行使する。
ただ、本作のハネケにはモルモットに対する邪心や好奇心さえほとんど無く、もっぱら遊び飽きたオモチャをぶつけ合うだけの惰性の遊戯が繰り返されるのだ。
「現実とSNS」というテマティックな側面にも不満が残る。
イーストウッドやスコセッシらの若々しい時代感覚に比べると年寄りの冷や水そのもので、そこで描かれている「SNSでしか曝け出せない本当の自分と、現実社会でのペルソナ」という問題提起なんて「何を今さら…」という感じ。
元来、ハネケ作品という料理には致死量の毒が盛られているわけだが、今回の料理には髪の毛が混入している程度で、確かにやや不快ではあるけどサッと取り除けば問題なく食べられるのである。そしてそれが問題なのだ。
ハネケの作品は絶えず物議を醸し、人を不快にさせ、こちらが健全だと思い込んでいる世界を脅かしてきた。そんなブラックユーモアが希釈されたのは、やはり寂しい。
多くのハネケファンは知性が高くて上品な映画通ばかりなので口には出さないが、きっと私と同じ寂しさを味わっているファンは一定数いるだろう。唱和しましょう。
寂しい! (寂しいー)
寂しい! (寂しいー)
オーケー、実にナイスな「寂しいー」をありがとう。勇気が湧いてきました。
さみしいー。
◆『エル ELLE』こそハネケが撮るべき映画だった◆
家業を娘のユペールに継がせたトランティニャンは、「ジョルジュ」という役名やイザベル・ユペールが娘役という共通点からも分かるように『愛、アムール』(12年)と同じ役柄で再登場している。
『愛、アムール』でのトランティニャンは、病に侵されていく妻の顔に枕を押しつけて窒息死させた。だから本作のトランティニャンには妻がおらず、死の憧憬に駆られた彼はあの手この手で自殺を試みる。
※だが本作は『愛、アムール』の続編ではない。トランティニャンが両作品にクロスオーバーするだけなので『愛、アムール』を未見でもまったく問題ありません。
老夫婦の終末を描いた『愛、アムール』。カンヌ映画祭でパルム・ドールをかすめ取った。
その他、ユペールの弟や、その妻、そして息子、婚約者など、さまざまなキャラクターが絡み合ってクソややこしい家系図が形成され、しめやかな群像劇がフィックスの長回し主体で紡がれていく。
どうやらこの連中は「崩壊寸前の家族」ということになっているらしいが、どうもそうは見えない。それぞれの内奥とか家族関係の危うさみたいなものが皮膚感覚として伝わってこないのだ。これを「控えめ」と取るか「薄い」と取るかは観た人次第だけど、私は『エル ELLE』(16年)の方がよっぽど素晴らしいと思う。
というか、『エル ELLE』こそハネケが撮らなければならなかったのでは?
今のところ微温的不満しか述べていないので、好きなところを挙げましょう。
祖父の誕生日会で「お爺ちゃんに挨拶しに行ってらっしゃい」とユペールに言われたファンティーヌが、こわごわとトランティニャンに近づいて他人行儀な挨拶をすると、トランティニャンが「キスはしてくれないのか?」と言うのでファンティーヌは祖父の両頬にキスをした。するとトランティニャンが怪訝そうな顔で一言…。
「おまえ誰だ?」
アンタの孫だよ!
この祖父は認知症気味なので、まぁ自然といえば自然なシーンなのだけど、私はシリアスな笑いに弱いので噴き出してしまったんだよ。せっかく頑張って祖父に歩み寄ったのに「おまえ誰だ?」なんて言われるファンティーヌちゃんが不憫すぎて、どうも可笑しいのです。
次に褒めるべきは、そのファンティーヌちゃん。
ものっそい美少女である。
儚げで、どこか翳りを帯びた佇まいと妙な緊張感を身にまとった女優だ。
よく見つけてきたな、こんなの。
アメリカが『gifted/ギフテッド』(17年)のマッケナ・グレイスちゃんを推すというならば、フランスはファンティーヌ・アルドゥアンで対抗するというの!?
ぜひとも次作ではマッケナとファンティーヌ演じる人気子役が映画業界の暗黒面を目の当たりにする…という陰惨な映画を撮ってほしい。ハネケは『白いリボン』(10年)で子役を使いこなしているので、確実にいい作品になるだろう。