一矢報いズム。それは男の自爆体質である。
1973年。サルヴァトーレ・サンペリ監督。ラウラ・アントネッリ、アレッサンドロ・モモ、テューリ・フェッロ。
シシリー島で暮らす生地商のイグナツィオは、妻を亡くしてから長男アントニオ、次男ニーノ、三男エンジーノと男だけの生活を送っていた。ある日、若く美しい娘アンジェラがお手伝いとしてやって来る。イグナツィオは優しく気の利くアンジェラが気に入り、何かと彼女の気を引こうと躍起になる。ところがアントニオも、アンジェラの魅力の虜になっていたのだった。一方でニーノは、そんな父と兄の態度に反感を持っていた…。(Amazonより)
おはよう。業務連絡をするね。
明日からはしばらく日本映画を取り上げます。
「え~。基本わたしは外国映画しか観ないから日本映画をレビューされても困るんですけどー」という読者に追い打ちをかけるようなお知らせをもうひとつ。
日本映画といっても日本映画黄金期の作品を中心に取り上げます。
「日本映画の黄金期っていつ?」という読者に更なる追い打ちをかけるようなお知らせをもうひとつ。
戦後っす。
「戦後っていつ?」という読者にトドメのお知らせを最後に…。
1945年っす。
そんなわけで、次回以降は思いきりアクセス数が減ってスターも全然つかないという運命が決定致しました。おめでとうございます。ありがとうございます。『シネ刀』崩壊前夜でございます。
でも書きたいんだもの~。来週いっぱいは私のワガママ週間ということで、どうか許してください。
それでは本日は『青い体験』についてダラッと語っていきましょう。
◆青春スケベ映画のマスターピース◆
イタリア式コメディというのが60年代に流行った。『追い越し野郎』(62年)や『イタリア式離婚狂想曲』(62年)、あと個人的にはカトリーヌ・スパーク主演の『女性上位時代』(67年)など。お色気要素が詰まった他愛のない艶笑譚である。
サルヴァトーレ・サンペリはイタリア式コメディの重要人物の一人で、本作『青い体験』と『スキャンダル』(76年)の二作に持ちうる限りの表現力を叩きつけて完全燃焼した男だ。
ちなみに『スキャンダル』という映画は、薬局を営む人妻が下働きの男と羞恥プレイに興じ、男に言われるがままケツ丸出しで夜の街をほっつき歩くという『ナインハーフ』(86年)を先取りしたようなアブノーマル映画の金字塔である。
二大アブノーマル映画。
そんなロクでもない映画ばっかり撮って喜んでいるサルヴァトーレ・サンペリの処女作にして代表作こそが『青い体験』!
女っ気のない家庭にやってきた若く美しいメイド・アンジェラをめぐって、父親と息子たちが恋の争奪戦を始めるという…まぁ、どうしようもない内容である。
脚立に乗って窓拭きしているアンジェラのスカートを下から覗き込む父親と長男。次男のニーノは「どうしようもねえ奴らだな」と辟易するが、彼だけはアンジェラに対して欲望ではなく恋心を寄せていた…。
本作は、メイドのアンジェラに恋したニーノ少年の悶々たる思春期が綴られた青春スケベ映画といえる。どうしようもねえな。
◆聖人としてのアンジェラ◆
アンジェラを演じたのはラウラ・アントネッリ。
『裸のチェロ』(71年)や『セッソ・マット』(73年)といったイタリア式コメディで知られる70年代を代表するセックス・シンボルだ。1991年に麻薬所持でとっ捕まって2015年に死んだ。
ぅワオ!
アンジェラの一挙手一投足は男たちをよろめかせる。
朝は父親のベッドまで朝食を運び、長男のつまらない冗談に笑い、勉強中のニーノに「えらいぞっ」といって頭を撫で、おねしょをする三男のズボンを下ろして夜中におしっこをさせる。思いやりがあって働き者のアンジェラの仕事ぶりに、男たちは瞬く間に骨抜きにされてしまう。
この映画が上手いのは、アンジェラをあからさまに色香を放ったセクシーメイドとして描かず、誰にでも優しく接する気のいいお姉さんというキャラクター造形を持たせた点だろう。
つまりアンジェラを小悪魔ではなく「聖人(女神)」に仕立て上げることで、彼女に対して下心を抱く父親と長男が「俗物」として対比される。なぜ対比構図が必要なのかといえば、『青い体験』は聖人でも俗物でもないニーノの恋煩いが次第に暴走する映画だからだ。
ニーノは、家族じゅうに無償の愛を振りまくアンジェラに嫉妬を覚え、やがて独占欲が芽生え始める…。
股間まわりを怪我してアンジェラに処置してもらうニーノ。洗面器を使ってニーノの股間を隠した美しい構図。
◆ニーノの一矢報いズム◆
そんな折、あろうことか父親とアンジェラがまさかの婚約発表。
「こいつはやべぇ」と焦ったニーノは、二人の結婚をあの手この手で妨害するが、そのたびにアンジェラからは「悪い子。始末に負えない子。なぜこんなイケズをするの?」と折檻される。
「きみを愛してるからさ!!」とは言えないニーノ。彼はまだ中学生で、アンジェラからすればキッズ同然。あまつさえ思春期のプライドも邪魔して、どうしてもアンジェラに愛を伝えられないのだ。伝えたところで無駄と分かっているのである。
愛した女性がママになるかもしれない…という未曽有の危機に直面したニーノは、ついにアンジェラへの想いが嫉妬や独占欲を越えて愛憎と化す。ニーノ、屈折。
アンジェラの弱みを握ったニーノは、そこにつけ込んでさまざまな羞恥プレイを要求し始めるのだ。
「明日はノーブラで生活するんだ」
「今日はノーパンで生活してくれ」
家族と食卓を囲っているときも、ニーノがテーブルの下でアンジェラのパンツを脱がせる…という器用なセクハラを展開したり、ストリップを要求して別室からスケベな同級生と一緒に窃視する…というヘンタイの嗜みを謳歌するのである。
やってること『スキャンダル』と同じやないか。
どうやらサルヴァトーレ・サンペリの映画はいつも羞恥プレイに行き着くようだ。
ニーノの地下活動。
そして真夜中にアンジェラの部屋に忍び込んだニーノは、ベッドの周りをウロウロと練り歩きながらアンジェラの寝顔を見つめ続ける。
端的に怖ぇわ。
ハッと目を覚ましたアンジェラが「そこで何してるの…!?」と訊ねても、ニーノはただ無言でアンジェラを見つめ続ける。氷のような眼差しで。
しまいにはスンスン泣いてしまうアンジェラ。無理からぬこと…。
本稿ではかなり駆足気味でニーノの凌辱記を綴ったので、読者の皆様におかれましてはただのソフトポルノとお思いかもしれないが、実際にこの映画を観れば「ニーノの倒錯した恋心」がそれなりの文学性で活写されている。
ニーノがなぜこんなことをするのかと言うと、要は「好きだからこそ穢したい」とか「思い通りにならないなら、いっそすべてをぶち壊したい」みたいな男性的破壊衝動に目覚めてしまったからだろう。
安いドラマでよく見るでしょう、「俺のモノにならないなら、おまえを殺す!」みたいな展開。とかくそういうキャラクターはサイコパスとして描かれがちだが、本来的にはすべての男性が持っている性質なのではないかしら。
ニーノの「屈折した愛」は闘争本能の一種である。
男というのは勝つ戦いをする生き物。逆に言えばなかなか負けを認めないヘンコなので、勝てないとわかった途端に負けない戦いにシフトする。つまり自爆とか相討ちに持っていくことで一矢報いようとするのだ。
この恋が決して報われないことを始めから知っていたニーノは、せめて父とアンジェラの仲を引き裂こうとしてわざとアンジェラに嫌われるようなことを繰り返す。その行動原理こそ、まさに一矢報いズム。
男は危険な生き物である。いざとなったら自爆スイッチを押してキミを巻き添えにするぞ!
◆解釈次第でまるっきり意味が変わるラスト◆
こんな映画を紹介したところでどうせ誰も観ないだろうから結末に触れてしまうが、このラストシーンにはちょっと驚いた。
父親とアンジェラの結婚式がラストシーンにあたるのだが、あれだけ憎悪を剥き出しにして結婚を妨害していたニーノが花嫁衣裳のアンジェラの頬にキスをして「結婚おめでとう、ママ!」と笑顔で祝福するのだ。
これは意味深。
愛する人を父親に取られたことの諦めとも取れるし、現実を受け入れて大人の階段をのぼったニーノの成長とも取れる。他方、ニーノは依然としてアンジェラの弱みを握り続けているので、「羞恥プレイはまだまだ続くよ。果たして結婚生活がいつまで持つかな?」というドス黒い皮肉にも聞こえる。
観た人の解釈次第で、後味爽やかなイニシエーションの物語だったり、年上女性への恋に破れた少年のほろ苦い青春映画だったり、愛した人を徹底的に追い詰める羞恥地獄の倒錯ムービーだったするので多角的に楽しめる作品になっていると思う。
すべての解釈に共通するのは、弱冠13歳そこらの子どもが愛の不可能性に直面する残酷な物語…ということだ。『早春』(70年)にも似てるよね。
ちなみに映像面では、胸の谷間、太もも、パンチラなどが満載なので、ありとあらゆるカメラアングルが使われている。映像技法の引き出しが多い。
その「引き出し」を引き出すのは、やはり女性なのでしょう。「映画の被写体として優れているのは男性よりも女性」という持論はそうした理由にもよる!