スペイシーは心の安らぎを得るな。
2001年。ラッセ・ハルストレム監督。ケビン・スペイシー、ジュリアン・ムーア、ジュディ・デンチ。
妻ペタルに裏切られ、娘バニーと共に父の故郷であるニューファンドランド島へとやってきたクオイル。凍てついた岬に建つ朽ちかけた家に住みながらも、地元新聞にコラムを書き始め、愉快な仲間たちに囲まれた充実した日々が始まった。さらには美しい未亡人ウェイビィと出逢い、クオイルは新しい人生への期待に心を躍らせる。そんな折、村人から彼の一族には封印されていた過去があることを聞かされる…。
おはようございます。
あえて言うまいと思って黙っていたのですが、前髪を切って失敗するといったことが先月起きました。
あれから一ヶ月ほど経ったのでずいぶんマシにはなったのですが、とにかくこの一ヶ月は忸怩たる思いで過ごしました。髪型評論家の私がセルフカットに失敗したと知れれば、きっと髪型名誉会長の座から引きずり降ろされてしまいます。そんなことになっては大変だ。そんな処分はいやだ。二度と映画女優の髪型について言及できまい。そんなことになるなら死んだ方がマシだ。
というわけで本日は『シッピング・ニュース』。たまたまビデオ屋で目にして「興味ないから観よう」と思って鑑賞した映画です。
前髪は切りすぎるなよ。
◆新生活応援監督◆
アバズレの妻がよその男とドライブしている最中に事故死したので、いろんな意味でショックを受けた夫が娘を連れてニューファンドランド島に移住して人生をやり直す…という中身である。
主演はケビン・スペイシーで、アバズレの妻をケイト・ブランシェットが演じている。
私がこの映画を観た理由は「ケイト様の出演作の中に『シッピング・ニュース』という取りこぼしがあったから」にほかならないのだが、第一幕で死んでさっさと退場してしまった。ふざけるな。
それにしてもケイト様のアバズレ演技がすばらしい。気弱なスペイシーに「妊娠線が残ったら殺してやるからね!」と怒鳴りつけ、娘を出産したあとは外で遊びほうけて育児放棄。そして浮気の最中に事故で死ぬ。わけてもTバックから露わになった尻をジーンズにねじ込む仕草のなんと下品なこと!
そして彼女が死んでしまったことで、スペイシーはニューファンドランド島への移住を決意する。
ろくでもない妻を演じたケイト様。
ラッセ・ハルストレムという映画作家は喪失感を抱えたキャラクターが新天地でやり直すという物語を飽きることなく40年以上も描き続けている。
知的障害の弟と超絶肥満の母親の面倒を見るために地元から出られないジョニー・デップがようやくトレーラーに乗り込んで新世界へと旅立つ『ギルバート・グレイプ』(93年)から、指名手配中のヒロインがノースカロライナの港町で人生をやり直す『セイフ ヘイヴン』(13年)に至るまで、とにかくハルストレムの作品は「ここではないどこか」への憧憬だけで成り立っていると言っても過言ではない。
『サイダーハウス・ルール』(99年)も孤児院を抜け出してリンゴ農家に居を移すトビー・マグワイアの新生活が描かれているし、『ショコラ』(00年)もまた世界中を旅するジュリエット・ビノシュがフランスの小さな村にやってきたところから物語は始まる。
しまいには、離れ離れになった飼い主に逢うために何度も輪廻転生を繰り返し、そのたびに「ここではないどこか」で「人生をやり直す」犬を描いた『僕のワンダフル・ライフ』(17年)というワンちゃん映画まで撮ってしまうのである。
なんぼほど人生をリセットすれば気が済むのか。
とにかくラッセ・ハルストレムは自他ともに認める新生活応援監督である。
ジョニー・デップがコスプレ俳優になる前の良心的作品群。
◆傷の舐め合い◆
ハルストレムの映画をありがたがるのは仕事や人間関係に悩みを抱えながらも日曜日の午後にはそういうことを忘れて映画でも観ようというありふれた人たちであって、日常的に映画を観ている人たちにとってはこれといった刺激や深い感動をもたらしてくれる作家ではないと思う。
何が言いたいかといえば、この映画の鑑賞中 正確に6回寝たということだ。
第一幕はケイト様が派手に暴れてくれるのでこれは楽しめる。だがハルストレム作品においてケイト様のような動的なキャラクターは速やかに排除される運命にあるので決定論的に自動車事故を起こして画面から退場することになる。
問題はニューファンドランド島に舞台が移る中盤以降で、これがまったく退屈なのだ。たまんねえ。
スペイシーは地元新聞にコラムを書き始め、未亡人のジュリアン・ムーアと慎ましく交流を重ねて心の安らぎを得る。
退屈といったのはこの静謐な物語に対してではなく、ニューファンドランド島の空気に対してである。
ハルストレム作品の視覚的な特徴といえば寂寥感を含んだ自然や田舎の淡い風景なので、よく「美しい映像」などと言われているが、ハルストレムがカメラを向けるのは風景ではなく空気である。つまり孤独、喪失、再生といったハルストレム的主題を触覚的に画面の中にばらまいた「映像の雰囲気」のことだ。
それが退屈というのがどういうことかと言えば、たとえば大変どうでもよいエピソード群。
スペイシーは自分の祖先が海賊だったことを知ってひどく落ち込み、父の異父妹のジュディ・デンチは幼少期に近親相姦に遭ったことを胸にうちに秘めている。未亡人のジュリアン・ムーアは夫を殺したことを告白し、記者仲間のリス・エヴァンスは島を出ていくために作った船を仲間たちに壊されて泣く。
つまり、多くのキャラクターが何かを失ったり心に傷を負った人物として画面に現れ、これ見よがしに不幸自慢を始めてはみんなで傷を舐め合うという、非常にしみったれたメロドラマが111分続くのである。あたかも全員が示し合わせたかのように「ハルストレム作品の雰囲気」の醸成・統一に与しており、そういう馴れ合いに対して「退屈」という言葉を使わずに不快感を示す術を私は知らない。
そもそもケビン・スペイシーが心に安らぎを得るさまを見て何が楽しいというのか。
スペイシーはイカレ界のカリスマなので、こんなほんわかした映画で平凡な男を演じられても何の面白味もないわけだ。というか安らぎを得るスペイシーがなんかむかつく。こういうのはティム・ロビンスあたりにやらせておけばいい。
それなのに、ジュリアン・ムーアと一緒におかしなニット帽をかぶって、美味しいね、美味しいね、なんつって不味そうなファストフードを食っては心に安らぎを得てやがるのだ。
安らぐな。
まさにいま安らぎを得ているスペイシー(左)。
◆家は壊れる◆
「家」というのもハルストレム作品の多くに共通する主題である。
主人公を縛り、留め、孤独や閉塞感のなかに幽閉してしまう牢獄として家というモチーフが使われるのだが、最終的にハルストレム的主人公は「家を出る」か「家を失う」かのどちらかひとつを選択することになる。
本作の場合はクライマックスの大嵐によってスペイシーの家がむちゃむちゃに全壊するので、これはジョニー・デップが自分の家を丸焼きにした『ギルバート・グレイプ』と同じパターンをなぞっている。
自分を縛りつける家を物理的に破壊することで自由を獲得する…というのは勿論ひとつのメタファーなのだけど、ともするとその行為によってすべての問題がいとも容易く解決してしまうというデウス・エクス・マキナのような短絡さに思わず笑ってしまう。「壊せば済むのかよ」という。
近年でも『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(15年)で妻を失ったジェイク・ギレンホールが家を木端微塵にしていたが、ハルストレムのように大真面目に破壊したりせず、半ば「シリアスな笑い」として破壊活動が描かれていたので好感が持てた。
画面奥にそびえる家。ていうかこっち見んなスペ公。いつまでニット帽かぶっとんねん。
とにかくキャストが派手で、ケビン・スペイシー、ジュリアン・ムーア、ジュディ・デンチ、ケイト・ブランシェットのほかにも、某映画での犯人役が有名なスコット・グレンと、某映画での犯人役が有名なピート・ポスルスウェイトも出ているが、ケイト様以外の全員がしみったれた顔でしみったれたことをボソボソ喋ってるだけなのでたいへん気が滅入る。
メロドラマに服従しないケイト様ただ一人が煌めいていた。
どこまでもついて行こうと思った。
ケイト・ブランシェット(左)とジュリアン・ムーア(右)。
ケイト様、若っ!
オマエはええねん、スペ公こら!