シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

グッバイ・ゴダール!

誰が喜ぶねん、この映画。

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2017年。ミシェル・アザナビシウス監督。ルイ・ガレルステイシー・マーティンベレニス・ベジョ

 

パリの大学で哲学を学ぶアンヌは、もうすぐ19歳。ある日彼女は、映画を変えたと世界中から注目される天才監督ジャン=リュック・ゴダールと恋に落ち、彼の新作映画で主演を飾ることに。新しい仲間たちとの映画づくりやゴダールからのプロポーズなど、生まれて初めての経験ばかりの刺激的な毎日の中で、様々なことを夢中で吸収していくアンヌ。一方、パリの街ではデモ活動が日ごとに激しさを増し、ゴダールも次第に革命に傾倒していく。(映画.comより)

 

はいどうも、ごっつぁんです。

昨日はipod touchの調子がおかしくて、機械と格闘してるうちにブチ切れてしまいました。

「アップデートをしろ」とうるさいからアップデートすると「パスワードを入れろ」とか「もっぺんパスワードを入れろ。ちゃう。さっきのとはちゃうやつや」とか「わからんかったらこの番号に電話せえ」とかあれこれ命令されるもんだから、だんだん腹が立ってきて、ついこっちも文句を言い始めて。

「こないだアップデートしたばっかりやないか。なにをそんなアップデートすることがあんねん。たまにするから良いんやろ?」とか「パスワードを教えてくれる為のパスワードって、なんやそれ。それが分からんから聞いてるのに。雁字搦めやないかい!」なんつって、大喧嘩ですよ。

しまいには双方ぐったり疲れて、一旦2人でコーヒーを飲みながら「どないすん?」「ほんまやで。どないすーん?」と言い合ったり。

こうして俺たちの絆は深まっていくのかな…。

 

あいよ。本日はグッバイ・ゴダール!というほぼ誰も興味のない映画を観たので、楽しくご報告申し上げます!

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◆果たしてこれは誰に向けた映画で、何のために存在するのだろう◆

中期ゴダール『中国女』(67年)で主演を務めた女優アンヌ・ビアゼムスキーの自伝小説の映画化である。さぁ、誰が興味あるんでしょう。

アンヌがゴダールと結婚して五月革命を駆け抜けた2年間が描かれているのだが、題材がピンポイント過ぎてすげえ。

ただでさえゴダールは60年近いキャリアを持ち、47本の映画をすべて観れば理解できるという単純な映画作家ではなく、映画史や政治とも密接な関わりを持っているので知っておかねばならないことがとにかく多い。カイエ・デュ・シネマヌーヴェルヴァーグ、ジガ・ヴェルトフ集団、五月革命毛沢東思想、ソニマージュ…。

だもんで、映画好きにとっての最難関人物というか、まぁはっきり言ってここでイチからゴダールを解説する気も起きないぐらいすこぶる面倒臭い人物だし、そもそも上手く解説できる自信もないので前提知識の共有は放棄する

ゴダールの概説なんてする気も起きんわ。興味ある方は各自で調べてくださいね。

知らない。請け負わない。そっちでやってよ!


まぁ、それぐらい長い歴史と面倒なアレやコレやがある人物なので、『中国女』で知り合ったアンヌとゴダールの結婚生活(その内のわずか2年間)だけを切り取った本作はピンポイント過ぎるのである。

しかもアンヌの視点からバイアスかかりまくりのゴダール像が描き出されるので、ゴダールに関する客観的な描写はなきに等しい。したがってヒッチコック(12年)『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(15年)といった実在の映画人を扱った劇映画とはまったく異なる性質を持っている。ここで描かれているゴダールアンヌから見た夫としてのゴダールなのだから。

なので私は、本作を観ながら「果たしてこれは誰に向けた映画で、何のために存在するのだろう?」という疑問と取り組むはめになった。

ゴダールを描く気がないなら「よくある結婚生活の話」だけがあとに残るわけで、だったらその対象がゴダールとアンヌの結婚生活である必要もない。

監督のミシェル・アザナビシウスはアカデミー作品賞に輝いた『アーティスト』(12年)サイレント映画へのオマージュを捧げ倒した男だし、『メリエスの素晴らしき映画魔術』(12年)というドキュメンタリーにも出演していることから相当なシネフィルだと思っていたが、グッバイ・ゴダール!はおよそシネフィルが撮った映画とは思えないほどゴダールへの言及を避けており、「夫に蔑ろにされる妻の孤独」などというメロドラマに湿っている。

せっかくのゴダール関連作なのにそれでいいのか感がすげえわけである。

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『中国女』の主演アンヌ・ビアゼムスキー(左)と、本作で彼女を演じたステイシー・マーティン(右)。


◆難しい映画じゃないですよ◆

とはいえ、まあいいじゃないですか。堅苦しい話はよしましょうや。あくまでアンヌの自伝映画なんだからさぁ。あまりゴダール固執するのは無粋というものですよ。ふ・か・づ・め・さん!

…とテメェ自身をなだめすかして、キレイな魂で本作を観ました。


キレイな魂で観るぶんにはそれなりに楽しめる作品であった。

なんといっても、画面を彩る60年代フレンチカルチャーの数々に心躍りて。

ゴダールなんて一本も観たことないけどメチャ楽しめるぅー」といって魂をぽよぽよさせていたレビュアーがいたように、おもちゃのような室内とか原色の衣装がじつに可愛らしい。ファッションや風景もポップなので、ただ画面を眺めているだけでも心ウキウキ、魂がぽよぽよするというわけだ。

こうしたポップなビジュアルはメイド・イン・USA(66年)とか彼女について私が知っている二、三の事柄(67年)に見られる60年代後期のゴダールタッチを再現したもの。

アンヌを演じたステイシー・マーティンなんて、まさにゴダール作品に出てきそうな貌である。60年代の作品を支えたアンヌ・ビアゼムスキーとアンナ・カリーナを足したような少々キッチュだが線の細い美女で「いるいる!」という感じがする。

さらに言えばこのステイシー嬢、ヌードシーンでの肌の質感までゴダール的なのだ。いかにもゴダールが撮りそうな裸体というか。

ゴダールフェティシズムもここまで度を越すともはや変態である。


また、ステイシー嬢が着ている服、それに本棚やカーテンなど、全編に渡ってを基調とした色彩が目を引くわけだが、これは『中国女』のカラーをそっくりそのままなぞったもの。赤は共産主義の色であり、当時のゴダール毛沢東思想に傾斜して文化大革命に憧れていたのだ。

だからルイ・ガレル演じる若き日のゴダールは、いわば文化大革命のパロディでもある五月革命に身を投じ、アンヌ(ステイシー嬢)との夫婦関係に溝を作ってしまう。

革命に狂っていた60年代のゴダール「映画を取るか、政治を取るか?」という葛藤に苛まれていて、本作のなかでも政治映画として撮った『中国女』の評価が振るわず、街でファンに出会えば「また勝手にしやがれ(60年)みたいな映画を撮ってくれよ!」と不本意なことを言われてしまうというシーンまであるのだ。

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画像上が『中国女』。真っ赤っか。それを受け継いだ本作も至るところに赤の配色が。


アンヌは映画革命児としてのゴダールに惚れていたので、彼が政治にのめり込むほどに愛は冷めていく。

早い話、この映画は私が愛したのは今のあなたじゃない!系の悲恋なのである。

今の時代、ゴダールと聞いて「どうせシネフィル好みの監督でしょ? ハードル高えよ」といって及び腰になる映画好きは多かろうが、そんな人にこそグッバイ・ゴダール!はうってつけの一本。

アンヌの視点を通すことでゴダール感はかなり希釈されているし、何より本家本元のわけのわからなさはどこにもなく、一本筋の通った劇映画としてまとめられている。

「服かわいいー。内装かわいいー」なんつってファッション感覚で観ても十分楽しめる上に、ゴダールのこともちょっぴり知れるというオマケもつく。

実際、私は画面に向けた眼差しの約70パーセントをステイシー嬢の髪型に注いでおりました。

髪型評論家ですから。

癖毛をそのままに、ドゥルッと弧を描くミディアムヘアがメチャ最高!

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ドゥルッとヘアーを惜しみなく見せつけていくステイシー・マーティン。こいつぁいいや!


◆ぜんぜん難しい映画じゃないですよ◆

ここからは「もちろんゴダールは押さえておりますよ。なめてたら殺しますよ」という怖い怖いシネフィル諸兄をこの映画に向かわせるための文章に特化しようと思う。


本作のおもしろさは全編の端々にゴダール演出がばらまかれているということ。

たとえば壁際に立ってカメラ目線で喋る人物。ゴダールはメタ(カメラ目線)と平面性(壁際)を強調することで映画制度を解体した人物だが、本作でもバッチリやってます。イェイ。

そしてソニマージュ(音と映像の融合)。ゴダールお家芸といえば、画面に文字情報だけがデカデカと表示されて、それとは無関係の政治的発言がボイスオーバーとしてひたすら流れる…という字幕鑑賞者殺しの演出(二種類の字幕が同時に表示されるわけです)

ただし本作でこれをやると「わかりやすい劇映画」というコンセプトが崩れてしまうので、「口にした言葉」が音声として流れ「心で思っている本音」が字幕で出てくるといったユニークな試みをしています。イェイ。

そのほか、ゴダール映画に欠かせないコラージュ(テクストの羅列)にも言及したいのだが、ちょっと自分でも退屈になってきたのでやめる。

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ゴダール演出① 壁の前に立って観客に語りかける(左)。

ゴダール演出② 文字情報の羅列と政治的ナレーションで観客を苦しめる(右)。


ゴダールとゆかりのある人物もぞろぞろ出てくるので、映画好きなら「あっ」とか「ほーん」と思いながら楽しめるかもしれんぞ。

フランソワ・トリュフォーアラン・レネクロード・ルルーシュらを従えたゴダールがカンヌに殴り込みをかけて映画祭を中止に追い込んだカンヌ映画祭粉砕事件は音声処理とはいえしっかり掬っているし、ベルナルド・ベルトルッチと訣別したエピソードも盛り込まれている。

その後ゴダールがジャン=ピエール・ゴランと出会って「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する流れに至っては「誰が喜ぶねん、この映画」と思いながら画面を観ていたが、私がもっと呆気にとられたのは、『東風』(70年)のロングテイクを撮るかどうかで揉める様子をラストシーンに持ってくるというマニアぶり。

いやだから…

誰が喜ぶねん、この映画。

ターゲット層狭すぎでしょ。

 

とはいえ、そうしたマニアックなディテールを無視しさえすればゴダールを知っていようがいまいが無前提的に楽しめる作品になっています(もちろん楽しめない人にとっては無前提的に楽しめない)。

それは取りも直さず、ゴダール作品自体が難解なように見えてなんら教養を必要としない純粋映画であることを祝福しているのである。

ゴダールを難解だと感じるのは「映画」ではなく「意味や物語」を見てしまっているからにほかならない。

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