押しかけ女房エヴァ。その正体は…。
2017年。ロマン・ポランスキー監督。エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーン。
自殺した母親との生活をつづった私小説がベストセラーとなったものの、その後はスランプに陥ってしまった作家デルフィーヌの前に、熱狂的なファンを自称する女性エルが現れる。本音で語り合えるエルに信頼を寄せ、共同生活を始めたデルフィーヌだったが、エルが時折みせるヒステリックな一面や可解な言動に次第に翻弄されていく。やがてエルの壮絶な身の上を知ったデルフィーヌは、その話を小説にしようとするのだが…。(映画.comより)
おはようございます。一昔前にポリンキーのCMがよく流れていたけど、最近めっきり見かけないですね。あと じゃがりこも。
ていうかお菓子のCM自体が少なくなってるのと違いますか。昔はよく目にしたよねぇ。ねるねるねるねとか。
お菓子のCMといえば、最近はもっぱらチョコレートだもんなァ。美人女優がうっとりしながらチョコを口に含んで口溶けがどうのこうのぬかすだけの甘ったれたCM。
しょうもない。
「ポリンキー♪ ポリンキー♪ 教えてあげないよ!」とか「ジャガリコ、ジャガリコ、ジャガリコ、ジャガリコ…」みたいな楽しいリズムで宣伝してよぉ!
ハイ。つうこって本日は 『告白小説、その結末』です。謎の多い映画なので慎重に語らねばなりません。
はっきりとはネタバレしてませんが、読む人が読めばすぐ分かっちゃう文章なので、未見の人は読まないのが得策です。
「でも観ないよー」つう人。「この映画を観ることは一生ないよー」っつう人、もしくは「べつに筋だけで映画を観ているわけではないので結末を知ったぐらいで楽しさが減じたりはしないからネタバレOKよー」という私みたいな人は、ぜひ読んだってください。
◆ポランスキーの最新作だぞ!◆
ロマン・ポランスキーのファンのことをポラン好きーと呼ぶのなら、私は紛れもなくポラン好きーである(どうぞよろしく)。
初期の『反撥』(65年)、『ローズマリーの赤ちゃん』(68年)。
中期の『チャイナタウン』(74年)、『赤い航路』(92年)。
後期の『戦場のピアニスト』(02年)、『ゴーストライター』(10年)。
半世紀以上に渡るキャリアを持つポーランドの名匠だが、中でも私が偏愛しているのは60年代の初期作。『反撥』は言うに及ばず、『袋小路』(66年)もベリークールである。
ポランスキーが聡明なのは80年代に2本しか映画を撮っていないことだ。
80年代というのは街にカメラを向けようが人に向けようがどうにも画にならない映画史上最悪のディケード、つまり何をどう撮ってもショットにならないという呪いが全世界的に瀰漫していたため、世界中の監督は「映画」を諦めて「物語」を撮るしかなかった(ハリウッド第二黄金期=超娯楽主義が幅を利かせるように)。
したがって、ヨーロッパの作家たちは大衆向けのブロックバスター映画を撮るかいっそ撮らないかの二者択一を迫られたわけだが、ここで「撮らない」という選択肢を選んだのがポランスキーでありベルトルッチなのだ(二人のキャリアの築き方は非常によく似ている)。
また、80年代ほどではないにせよ90年代も救いがたいディケードなので、多くの映画作家同様、ポランスキーもこの間にいくつかの愚作を残している。
だが21世紀以降になると時代が少しずつ清澄な空気を取り戻し、デジタル撮影が主流化したこともあって、約20年間も「お預け」を喰らっていたポランスキーのような作家が70歳を超えてやおら活気を帯び始めた。まるで失われた20年を取り戻すように。
さて。有卦に入ったロマン・ポランスキー(84歳)が、持ちうるロマンをすべて注ぎ込んだ『告白小説、その結末』。
自身の作品でたびたび起用する妻エマニュエル・セニエと、ベルトルッチが陸に放ったセイレーン エヴァ・グリーンのW主演でお送りする摩訶不思議なサスペンスである。
ポランスキー作品のごく一部です。
◆この映画を「見る」ことができるのは劇中のエヴァのみ◆
スランプに陥った作家エマニュエル・セニエが、熱烈なファンを自称する謎の女エヴァ・グリーンと意気投合して親交を深める。やがてエヴァは仕事の手伝いや身の周りの世話までするようになり、「あちきを住まわせー」と言ってセニエのアパートに転がり込む。押しかけ女房としてのエヴァ・グリーン。端的に言って羨ましすぎ。
「あなたの才能を誰よりも理解しているのは…あちき!」が口癖のエヴァは、とにかくセニエのことが大好きでよく懐くのだが、次第に創作に口出しをしてセニエと喧嘩したり、彼女がインタビュアーと楽しく会話している様子にやきもちを焼くなどしてセニエ愛がエスカレートしていく。
告白しておこう。
エヴァ・グリーンのツンデレぶりが可愛すぎて意識が飛びそうになった。
ほかの映画ではどれもツンツンした女王様気質なのに。とりわけ誕生日プレゼントに赤いストールを貰ってしみじみと喜びを噛みしめるエヴァに私は失神寸前まで追い詰められた。
なんやこれ。
過去最高のエヴァ・グリーンやないか!
エバーグリーン(不朽の名作)やないか!
大好きなセニエにプレゼントをもらってウットリするエヴァ。失神しかけるオレ。
舞台はほぼアパートの一室だけで、登場人物はほぼこの二人だけ。
新作が書けない作家とそれを書かせようとするファンの缶詰共同生活がひたすら続くのだが、言うまでもなく退屈などしない(エヴァに悶絶しっ放しだったから、ではない)。
登場人物が2人の密室劇というのはきわめて高度な撮影技術が要求される。カメラの機動力が制限され被写体の自由度が低いぶん単調なショットに陥りがちなのだ。画が持たないし間も持たない。
したがって凡百の監督であれば役者の名演技とやらで観客を惹きつけようとするが、本作はそこをクリアした上で撮影もしっかり素晴らしい。そしてすべての撮影がサスペンス足り得ているというポランスキーの意匠にはただただ眩暈を覚えるばかりだ。
たとえばこのショット。
セニエのパソコンに届いたメールを整理してやるエヴァは、後ろのソファに座っているセニエからはディスプレイが覗き込めない位置にいる。そしてエヴァは正面を向いたままキーボードを叩いているので、われわれ観客にもディスプレイが覗き込めないという構図である。
彼女は本当にメールを整理しているのだろうか?
スクリーンの内外にはエヴァとセニエと観客がいながら、このショットではエヴァだけが特権的に「見る」ことが許されている(綺麗にピントが合っているのもエヴァだけ)。
われわれにはエヴァを「見る」ことはできても、彼女が散りばめるミステリ=物語を「見る」ことはできない。
前章の最後に「摩訶不思議なサスペンスである」と言った通り、これはミステリではなくサスペンスである。
ドアの開閉、隣室の足音、ミキサーやベッドの使い方に至るまで、ポランスキーは王道・邪道問わず、持てるすべての映像技法をぶち込んでエヴァという不詳の女を徹底的に妖しく撮った。
そしてサスペンスがいよいよ物理化し始めるのが映画後半。
足を骨折したセニエがエヴァの別荘で療養生活を送るのだが、これまで自分の話を一切しなかったエヴァが少しずつ身の上話をするようになったので、こりゃ面白いと膝を打ったセニエはそれを次作のネタにしようとして秘密のアイデアノートに書き留める。
ところがノートを見つけたエヴァが烈火のごとく怒り、片足骨折のセニアを監禁して毒入りスープを飲ませるのだ。
…ってこれ『ミザリー』(90年)じゃねえか!
さぁ、セニエは別荘から無事脱出することができるのか…?
という話ではない! というあたり。
う~ん、ポランスキー。
エヴァが怖い顔で見ております。インタビュアーと楽しそうに話すセニエにやきもちを焼いておるのです(ドアの使い方がいちいち巧い)。
◆表現者懊悩映画でした◆
エヴァは何者なのか…という話はさておき、この映画は創作についての物語である。
セニエは自身の家庭環境を綴った告白小説がベストセラーになった作家だが、それからというもの毎日のように嫌がらせの手紙が届くように。差出人は不明。
また、セニエがエヴァと別れたあとに駅のホームでアイデアノートを落としたことに気づく。私は「どうせエヴァが盗んだんでしょ」と思ったが、それっきりこのエピソードは放ったらかしにされる。
そして次作では告白小説ではなくフィクションを書くつもりでいたセニエだが、エヴァから猛反対を受ける。その結果、セニエは自分自身の話ではなく、エヴァに黙って彼女の身の上話を小説にすることに。
本作のエマニュエル・セニエは憔悴しきっている。終始フラフラで顔面蒼白。Facebookのなりすましアカウントに評判を下げられ、毎日のように届く誹謗中傷の手紙に追い詰められているのだ。
書きたいものを書くと批判に晒され、ならばと方向性を変えればファン(エヴァ)が怒りだす。
セニエが抱えるジレンマはすべての表現者にとっての悩みの種だろう。
だいぶお疲れのセニエ。挙げ句の果てにエヴァに監禁されてしまう。
だがラストシーンで不思議なことが起こる。
エヴァの監禁から逃れたセニエが病院で目を覚ますと、出版社の人間が「新作の本、素晴らしかったわ。またベストセラーよ!」と大喜びしているのだ。
「なんのこと…? そんなの書いてないわ」とセニエがいくら言っても、現にセニエの著作として出版されていたのだ。DVDで本作を観ると、その本のタイトルが日本語字幕で「実話に基づく物語」と示されているが、正しくはこっちだろう。
つまり、この映画の原題『D'après une histoire vraie』と同じタイトルを冠した小説がセニエの新作として出版されたのである。
勘のいい読者ならピンとくるかもしれないが、この映画は『スイミング・プール』(03年)とまったく同じパターンである。
劇中でエヴァがセニエ以外の人物と会話しているシーンはなく、エヴァは身の上話を思いつきのように話している。極めつけは全編に配置された対のイメージ…。
そして小説家とは頭のなかで他人を作り出してその人生を物語として綴る職業。
この映画は表現に身を置く人間が究極的に追い詰められたらこういう事になる…という精神分析サスペンスである。ピンとこない人にはまったくピンとこない書き方をしたので、モヤモヤする奴は観ろ! 観てもらいたくてネタバレを伏せたんだから観ろ!(まぁ、ほぼ言っちゃってるんだけど)
それにしても、真っ白なワード画面の前で何も打てずにいるセニエの戸惑いたるや…。その気持ちは大いに分かるので私の所にも来てくれないかしら。エヴァ。
ウチ来て!!