シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

しあわせの絵の具

一切のメロドラマを排した奇妙な夫婦愛。

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2016年。アシュリング・ウォルシュ監督。サリー・ホーキンスイーサン・ホーク

 

カナダ東部の小さな町で叔母と暮らすモードは、買い物中に見かけた家政婦募集の広告を貼り出したエベレットに興味を抱き、彼が暮らす町外れの小屋に押しかける。子どもの頃から重度のリウマチを患っているモード。孤児院育ちで学もないエベレット。そんな2人の同居生活はトラブルの連続だったが、はみ出し者の2人は互いを認め合い、結婚する。そしてある時、魚の行商を営むエベレットの顧客であるサンドラが2人の家を訪れる。モードが部屋の壁に描いたニワトリの絵を見て、モードの絵の才能を見抜いたサンドラは、絵の制作を依頼。やがてモードの絵は評判を呼び、アメリカのニクソン大統領から依頼が来るまでになるが…。(映画.comより)

 

おはようございます。

私は思ったことや感じたことを逐一言語化しないと気が済まない。つまり何らかの不快感を抱いたとして、その感情を言葉に直すという癖があるわけです。

たとえば人にいきなり頭をブッ叩かれたと、たぶん多くの人は「叩かれて嫌だな」とか「なんで叩くのかな」と感じるだろうが、私の場合はそれを「感じる」のではなく「思う」のだ。

叩かれたことの不快感を、マンガでよくある心の声みたいに「叩かれて嫌だな。なんで叩くのかな」といちいち言語化してしまうのです。沸き上がった感情を一旦「感情翻訳室」に持っていって言語に置き換えてしまう。すなわち私の感情はすべて文章に起こすことができる。

この癖のメリットは、自分の感情を論理的に紐解くことで正確に把握したり他者に伝えることができること。

デメリットは、一瞬のうちに沸き上がった感情をダラダラと言語にするのでレスポンスが遅いというか、返事や反応に時間がかかってしまうこと。

車が正面から突進してきても「うわ危ない! いや、危ないっていうか怖いと言うべきだろうか? 危機感と恐怖心というのは似て非なるものだからね。今すげえ速度で車がオレに向かって突進してきておられるが、これに対しては危機感よりも恐怖心が勝るので、この場合は『危ない!』ではなく『コワ!』と表現するべきだったな。何事によらず言葉は正しく使っていきたいものです」なんてなことをグズグズ考えているうちに避ける暇もなく轢かれて候。

「うわっ、うわっ、轢かれた。感情を言語化している間に轢かれた! なんでそんなことするの。いわば特撮ドラマの悪役がべらべら喋ってる間にヒーローが殴りかかるに等しいルール違反をなんでするの。ていうか、背中あっつー。感覚ないんだけど…これどうなん。首も回れへんがな。あ、でも右手は動く。これなら『シネ刀』が更新できる。オレはなんてハッピーボーイなんだ」

 

そんなわけで本日は皆さんお楽しみの『しあわせの絵の具』だよ。絵具なんて何年も触ってないなぁ。ぼくは線画のスペシャリストなので絵具は使わないんだよ。

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◆小市民アーティスト、モード・ルイス◆

女性画家モード・ルイスとその夫の半生を描いたビタースイートな夫婦映画である。

1903年にカナダで生まれたモード・ルイスは幼い頃からリウマチを患っていたことで人民から敬遠され、生涯通して質素な生活を送った小市民アーティストである。結婚後はじつに小さな家に住み、部屋のあちこちに絵を描きまくっていたが、ノリで描いたポストカードが評判を呼んで安価で売るようになり、やがてメディアに取り上げられるほど知名度を上げる。1970年に亡くなったがカナダでは最も愛された画家として今なお根強い人気を誇るというよ。


モードの絵はフォークアートに分類される。

フォークアートとはその土地の民族性や地域性を背景に脈々と培われてきた土着的な美術の総称。要するにアレだ、年寄りが趣味で作るキルトとかアフリカ民族の装飾品とかだよな。アカデミック美術のように絵の訓練を受けたり、ポップアートのように商業目的で作っているわけではないので、きわめて趣味性の高いアウトサイダー・アート(伝統や技巧に囚われず自由に表現したアート)と言える。

モードの作品はシンプルで平面的なタッチと温かい色使いが特徴的だ。意地でも大きな絵を描かず、ポストカードや木板にちょこちょこと描くスタイルを好んだため、画家というよりはデザイナーと呼んだ方がしっくりくらァな。

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モード・ルイスの作品。すてきね。

 

そんなモードをサリー・ホーキンスが演じおられる。

『パディントン』(13年)『シェイプ・オブ・ウォーター』(17年)でギュギュッと注目を集め、40代にして黄金期を築いたいま最も旬の女優である。

本作の撮影前には絵の教室に数ヶ月間通ったらしく、劇中でもサリホ自らが絵を描いている。モード・ルイスの映画化と知った彼女は脚本を読まずに二つ返事でオファーを受け「この役にチャレンジしない奴はバカであらァな!」と言い放ったことから、いかに彼女がモードを愛していたかが窺い知れる。

ちなみにサリホの両親は絵本作家とイラストレーター。絵の上手さは遺伝するので、おそらく教室になど通う必要がないぐらい元々絵に親しんできた女優なのだろうが、それでも一から勉強し直すという気合いの入れよう。詳しくは後述するがサリホのキャリアハイとなる凄まじい芝居を見せつけている。

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奇跡の一枚。


そしてモードの夫役にイーサン・ホーク

いつも迷子の犬みたいな顔をしている八の字眉毛の童顔オヤジであられる。まさに童顔ホーク

また、ジェネレーションXの権化とも言えよう。斜に構えて80年代に青春を送った者特有の青臭さがあり、ナイーブな少年がそのまま年を取ったという雰囲気だが、近年ではいい具合に泥臭さが出てきた。

キャリア初期は『いまを生きる』(89年)『生きてこそ』(93年)などに出ていたことからやたらと生きたがる奴というイメージをまき散らしていたが、ガタカ(97年)トレーニング デイ(01年)のワンツーパンチで一躍スターダムに。

スターとは言っても『テープ』(01年)その土曜日、7時58分(07年)のようなどよーんとした映画、もしくは『ウェイキング・ライフ』(01年)プリデスティネーション(14年)のような難解映画によく出るアウトサイダー気質であり、ハリウッドメジャーにはあまり出演しない(このヒネクレ具合がいかにもジェネレーションX)。

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ガタカのイーサン。この映画の共演がきっかけでユマ・サーマンと結婚するが6年後に離婚。

 

◆ぶきっちょな二人◆

さて。物語は家を失ったサリホが住み込みの家政婦としてイーサンに雇われるところから始まる。

支配欲が強くかなり気難しい性格のイーサンは、安賃金でサリホをこき使い、寝る場所も与えず、彼女の反論を怒声で抑え込むような邪悪な魚売りであった。イーサンいわく、この家では彼が絶対的なボスで、サリホのヒエラルキーは外で飼っている犬とニワトリより下! とのこと。つまり彼女はメチャメチャに虐げられている。圧政も圧政。シェイプ・オブ・ウォーター』でもここまで酷くなかったぞ。

家の中ではずっと無口で、家事をこなすサリホをジーッと睨みつけるのだ。

ひと昔前ならチビで童顔のイーサン・ホークが威張り散らしても全然迫力がなく、むしろ「あらあら、怒っちゃってぇ~」とホーク萌えすら抱き得たのだが、近年のイーサンは恰幅がよくなり声もしわがれてダーティ感満載なので凄みを利かせるとマジで怖い。

「くらぁぁぁぁッ!」と言いながらサリホを張っ倒したりもするので、映画序盤は「DV映画ですやんコレ…」と戦々恐々たる面持ちで観ていた。ほんと、ピリピリした空気がずーっと続くからね…。

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サリホの一挙手一投足をメンチ切りながら監視し続けるイーサン。


これほど虐げられても、サリホはいつも笑顔を浮かべていてマイペース。ついに怒り疲れたイーサンは彼女が勝手に壁や窓に絵を描いても「妖精描いたんけ?」「鳥よ」といったごく普通の会話を重ねていくように。

やがて二人は結婚して絵を中心とした生活を送ることになるのだが、それに伴って二人の立場が少しずつ逆転していくさまがおもしろい。はじめこそイーサンが生活費を稼いで自分のやり方に彼女を従わせていた「ボス」だったが、サリホの絵が売れ始めてからはイーサンが家事をこなすようになり、次第にリウマチが悪化して動けなくなってゆく彼女の面倒を見るようになる。

次におもしろいのは、およそ夫婦愛と呼びうるものがすべて無言のうちに描かれていることだ。

この夫婦は愛を語らったりキスをしたり、あるいは支え合ったり慰め合うといった可視的な愛の振舞いをその身に固く禁じている。風変りな画家は愛情表現の術を知らず、寡黙で強情な夫もまた気持ちの伝え方を知らないのだ。


そんな超絶ぶきっちょな二人だから、この映画は一切のメロドラマを排している。

互いが結婚を決めた瞬間は曖昧に濁され、実の娘との再会はサリホが遠目から娘の成長した姿を確認するという程度に留まり、しまいにはサリホが病院のベッドで息を引き取るシーンでさえも画面がメロドラマに湿る寸前にスッパリと省略してみせるのだ。

まるで「感情移入」などという無用な作業と戯れようとする観客を「易々と移入されては困る」と突っぱねるかのように、ここには風変りな夫婦の理解しがたい夫婦生活だけが慎ましく描かれているのである。

また、モード・ルイスのフォークアート(素朴派美術)に合わせるように、あえて映像技法の披瀝を避けた単純なショットの連続体が淡々と物語を織り上げているあたりも好印象。

本作にはわかりやすい「泣きどころ」もなければ「クライマックス」も存在せず、話の展開性すら目視できない(させない)作りになっている。絵という空間芸術さながら、無時間化されたフィルムが鮮やかな景色を浮かび上がらせるだけだ。

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まるでモード・ルイスの作風に合わせたようなシンプルな映画技法。その素朴さを楽しむべし!


◆採れたてのトマトと丸かじりキュウリ◆

サリー・ホーキンスのポキポキした動きと小刻みな喋り方はおそらくモード・ルイスを徹底再現したものだろう。

だが芝居はモノマネではないので再現自体には何の値打ちもない。

モード・ルイスにそっくり? だからどうした。

サリホが素晴らしいのは「モードに似ている」と思わせうるほどの徹底再現をしてのけたからではなく、むしろそれを思わせなかったからだ。

そもそもサリホを見て「モードに似ている」と思うほど、1970年に死んだこの画家の喋り方や動き方まで知っている観客がどれだけいるのか。確実に少ないはずだ。いわば我々は実際のモードを知らないままモードを徹底再現したサリホを観ているわけで、似てるかどうかなど分かりようがないのである。

にも関わらず本作のサリホはスクリーンの中の女性が間違いなくモード・ルイスであるという幸福な誤解をもたらしてくれる。

我々はサリー・ホーキンスという女優が芝居をしていたことをエンドクレジットで初めて知るだろう。こうなってくると、もはや似る似ないの問題ではない。ここでは役者ではない人間が情感豊かに画面を描きあげ、ささやかなエピソードに温かい色をつけている。彼女の笑顔ひとつ、歩き方ひとつでショットが締まったり和んだりして、その度にこちらの感情は大きく小さく揺さぶられてしまう。

先に述べた通り、本作は映像技法の四十八手がほとんど何も使われていないので、もっぱらサリホの表現力だけで引っ張っていくという世紀の剛腕映画。

この素朴さはまるでスローフードだ。しかも調理もせず道具も使わず、もっぱら素材の味だけで勝負した究極のスローフードだ。採れたて新鮮まるかじりトマトである。

サリー・ホーキンスは採れたてのトマト!

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サリー・ホーキンスが採れたてのトマトならイーサン・ホーク丸かじりキュウリといったところか。『ブルーに生まれついて』(15年)を見逃しているのであまり知った風なことは言えないが、ことによるとイーサンが出ている2010年代の作品の中ではベストアクトではないだろうか。どうだろうか。

感情豊かなサリホとは対照的に、ほぼひとつの表情だけで夫婦生活の緊張感から深い愛情までを抜群の解像度で表現しており、映画に行間を作ることで観る者を自由な解釈へと導いている。サリホの自由な芝居をすべて受けきる防御力の高さがそれ単体として芸になっているので、とにかく観ていて飽きない。

思えばイーサン・ホークはどの映画でも「受け」に徹している。キアヌ・リーブスをも凌ぐ受け専であり、マット・デイモンのように時おりカウンターを狙ったりもしない。

でも、ここまでイーサンが光ったのは実はサリホが巧かったからではないか…という気もする。サリホは「攻めに見せた受け」もしているように見えたので、イーサンのリアクションを引き出すためのアクションを起こしていたのかもしれない。

いずれにせよ、二人の化学反応がとても奥深くておもしろい映画であらぁな。

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歳を取った二人。画面の色彩もやや薄れている。


また、妻の絵が売れるほど立場をなくしていく夫の複雑な心境…というあたりもビターに描かれていて、天才と凡人の溝を厳しく描いた作品でもある。

「愛」という言葉で単純には括れない愛の形がここにはありました。イーサン・ホークがこの映画を「過去にない美しいラブストーリー」と称していたが、映画を観ればこのありふれた言葉の奥に隠された本当の意味がわかるはずだ。


追記

監督のアシュリング・ウォルシュの見た目が強烈な印象を私に与えた。

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紛うことなき左。


パンチ効きすぎ。