ほぼ意味不明。
2018年。篠原哲雄監督。黒島結菜、小瀧望、高杉真宙、川栄李奈。
両親が離婚し、母親の再婚相手とはウマが合わない住友糸真。入学したばかりの女子校では友達からハブられてしまい、自分の居場所が見つからない糸真は、実の父親を頼って東京から北海道への引っ越しを決意する。転校先の札幌の学校で糸真を待っていたのは、まったくタイプが真逆の2人のモテ男子、舘林弦と桜井和央だった。女子たちの間では「弦と和央はみんなのもの」というルールがある中、糸真と弦、和央との距離が縮まっていく。両親の離婚もあり恋愛には興味がなくなっていたにもかかわらず、恋に落ちそうな糸真だったが…。(映画.comより)
おはようございます。
現在、過度な空腹によりチャーハンを食べる必要に迫られているので前置きは省略させて頂きます。
そんなわけで本日は『プリンシパル ~恋する私はヒロインですか?~』をしっとりと評論。使えそうな画像がまったく無いという異例の事態が発生したため、自作の絵でダマしダマし書き上げた記事となっております。ご了承下さい。
◆名前を決めよう◆
世界に誇る日本映画の名作が誕生した。興行収入8兆円越えの『プリンシパル ~恋する私はヒロインですか?~』である。原作はかつて私が敬愛していた漫画家・いくえみ綾の『プリンシパル』(だけど未読という裏切り)。
ずっと観たかった作品だったので身震いしながら鑑賞に臨んだのだが、これがとんでもなく素晴らしかったわけだ。「映画史に残る~」というクリシェはこの映画のために存在したのだと気づき、戦慄、鳥肌、ならびに悪寒、吐気、脱毛、脱臼、くしゃみ、失禁、脱糞等をきんじえない。
まずは主要キャストの黒島結菜、小瀧望、高杉真宙、川栄李奈に関してだが、わりとゴロゴロした漢字ばかりで字面的にガチャつくため、パッと識別できるようにニックネームをつける必要がある。
まずはヒロインの黒島結菜だが、彼女はヘルメットのようなかわいい髪型をしているのでヘルメッ子と名付ける。タイピングが面倒臭いのでゆくゆくはヘルメと呼ぶかもしれない。
そしてイケメン2人の小瀧望と高杉真宙だが、どうもポスター写真を見るにつけ小瀧望(茶髪ロンゲ)は首を痛めてるように見えるし、高杉真宙の方は首がすわっていない。
首をバキバキに痛めている小瀧望(画像左)は首バキ夫。略称バキ夫と命名する。
首がすわらなくてグニャグニャしている高杉真宙(画像右)は首グニャ夫。略称グニャ夫で統一したい。却ってややこしい呼称だが、まぁいいだろう。
そして川栄李奈。彼女はAKB48の元メンバーらしいので川栄メンバーと呼びたい。
あ、でも川栄メンバーだと山口メンバーみたいな感じになってしまうので元AKBに変更する。
本作はヘルメっ子、バキ夫、グニャ夫、元AKBを中心とした笑いあり涙ありの青春恋愛群像である。観るっきゃないね!
◆きもちがわからん◆
母と東京で暮らしていたヘルメッ子が離婚した父を頼って北海道の高校に転入すると、そこにいたのは学園のアイドルであるバキ夫とグニャ夫。バキ夫はホストのようなオラオラ系で、グニャ夫は性格温厚な優男。首に爆弾を抱えた二人の王子様だ。
この幼馴染のイケメン二人は気持ち悪いほど仲がよく、その親密なムードに入っていけない女生徒たちの間では「抜け駆け禁止令」が施行されるほど激烈にモテる男児であったが、ヘルメッ子は登校初日にグニャ夫と仲良くなる。これを快く思わないコギャルの元AKBはヘルメッ子を村八分にするが、気の強いヘルメは「どうしてこんなことするの」と元AKBを問い詰め、なぜか2分後にはマブダチになっていた。
そんなこんなでグニャ夫だけでなく元AKBとも仲良くなったヘルメだが、唯一、バキ夫だけがつっけんどんな態度でヘルメを嫌う。彼はグニャ夫とヘルメの仲に嫉妬するほどグニャ夫のことが大好きなのである。グニャ夫が寒がっているとバキ夫がブレザーを着せてあげたりするのだ(ゲイではない)。
そして次第に明かされるそれぞれの恋模様…。ハラハラドキドキの胸キュン恋愛劇に私の乙女心は鷲掴み!
ヘルメはグニャ夫に対してほんのりとした恋心を寄せているが、そのグニャ夫はバキ夫の姉である音楽教師(谷村美月)に片想いしている。また、バキ夫は誰にも恋心を寄せていないが、元AKBが秘かにバキ夫のことを恋慕していた…。
グニャ夫とバキ夫の区別がつかなくてパニックですか? ごめんなさいね、こんなニックネームつけて…。私も書きながらパニックを起こしているよ。
つまりバキ夫以外が全員片想い状態というわけだ。まぁ少女漫画らしい相関図である。
ところが、親同士が再婚したことでヘルメとグニャ夫が義理の兄妹になるというトンデモ展開がぶっ込まれる。
もうパニックだよ!
一度キャラクター相関図を整理しておきましょうか。
図にするとこういう感じです↓
がんばって描きました。
不思議なのが、ヘルメとグニャ夫はいきなり家族になって共同生活することに対してまったく戸惑いを見せないことだ。ヘルメは片想いの相手が義理兄妹になってしまうことの焦り、もしくは同じ屋根の下で暮らせることの喜びをまったく感じておらず、一方のグニャ夫も家庭環境の劇的変化をどうとも思っておらず、お互い「今日から兄妹だね。よろしくね~」って…。
感情バグっとんのか?
さらに面白いのは、二人が兄妹になって以降はヘルメがグニャ夫に片想いしていることが何の説明もなくなかったことにされ、本当に好きな相手はバキ夫だったことが何の説明もなく明かされることである。
片想いを解消したり別の相手を好きになったりする「キッカケ」が描かれないので、ヘルメの気持ちがどこにあるのか終始わからない状態で。
『恋する私はヒロインですか?』って…こちとらオマエがいつ誰に恋したのかすら分からねぇんだよ!
最終的にはヘルメとバキ夫が結ばれます! 努力して描きました。
すべてのキャラクターの気持ちが一切見えないまま親同士が急に再婚したり、グニャ夫と音楽教師が両想いになったり…とビュンビュン話が進んでいくので、こちらは置いてけぼりを喰らって唖然とするほかはない。「そうなる前兆、どっかにあった…?」というぐらいキャラクター相関図が何の契機も前触れもなくガンガン変更・更新されていくのでハナシに付いていくだけで精一杯という。
いちど頭のなかを整理するために、わたしはDVDを一時停止して茶を飲んだ。なんだこの難解映画。ガイ・リッチー*1か?
それに、呑み込みづらい箇所も多い。たとえば貧乏なグニャ夫の家庭に金持ちのバキ夫が資金援助していたことがサラっと語られるのだが、これっきりその話は二度と出てこない。
え。資金援助ってなに? どういうこと…?
いつも仲のいい三人。写実性を追求した絵に仕上がりました。
◆感情不明恋愛劇◆
きっと正確に説明すればするほど意味不明な文章になるので、あえてかいつまんで書いてるのだが、もうムチャムチャな映画である。
ヘルメはいつの間にかバキ夫のことが好きになっていて、バキ夫もラストシーンで急にヘルメのことが好きになって結ばれるわけだが、相手への恋心に少しずつ気づき始めたり好きになったキッカケがまったく描かれない。つまりキャラクターの心情が覆い隠されたまま「あの人が好き」とか「この人が好き」って矢印ゲームみたいな恋愛相関図が描き出されていて、たまに何の説明もなく矢印の向きが変わるという迷惑仕様。混乱ここに極まれり。
ヘルメの父親とグニャ夫の母親が再婚したのも唐突なら、ヘルメを村八分にするほど性格の悪い元AKBがめちゃくちゃ良いヤツになるのも唐突。
グニャ夫と音楽教師(バキ夫の姉)の関係性もまるっきり分からないが、何故かこちらが分かってる体で勝手にハナシが進む。音楽教師がグニャ夫のことをどう思ってるのか…ということが一切語られないまま、彼女のお見合いをぶち壊したグニャ夫が「僕のこと好きじゃなかったの!?」って言うんだけど…
知らんがな。
その件に関しては情報共有されてないよ、こっちは。さも両想いが既成事実であるかのように「僕のこと好きじゃなかったの!?」と言われても…。
で、それを言われた音楽教師は「好きよ!」と涙目で呟くのね。
好いとったんかい、ワレ。
てっきりグニャ夫の片想いと思ってたわ。何の説明もないから。
つまり我々はキャラクターのセリフを聞いてそこで初めてそのキャラの気持ちを知る…という後手後手の見方で後追い的にストーリーを理解するほかはない。
そのセリフを聞くまでは、そいつが何を考えていて誰が好きなのかは…まるっきり謎!
恋はミステリーってか? やかましいわ。
どうやらグニャ夫と音楽教師は両想いだったらしい。音楽教師の顔が思い出せなかったので想像で描きました。
あぁ疲れた…。
きっと読者諸君も本稿の文章を理解するのにかなりエネルギーを使ったことでしょう。ごめんなさいね。グニャ夫とバキ夫もややこしかったね。パニックだったね。
現在、少女マンガの映画化は一部の職人監督の寡占状態にあるが(だいたい廣木隆一、新城毅彦、川村泰祐、古澤健あたりが手掛けている)、本作を手掛けた篠原哲雄は少女マンガ畑の人ではなく『地下鉄(メトロ)に乗って』(06年)や『真夏のオリオン』(09年)といったごく普通の日本映画を手掛ける監督。
したがって少女マンガ専門監督よりも幾分かは映画を心得た人だと思うし、実際この作品も『今日、恋をはじめます』(12年)とか『海月姫』(14年)のような産業廃棄物に比べれば多少なりとも丁寧に作られていて、一定の水準にも達している(ご承知の事とは思うけど今ものすごく低いレベルで褒めてますよ)。
にも関わらず、これほど意味不明な作品になってしまったのは、全7巻の原作マンガを再現しようとして112分に圧縮しようとしたからだろう。
あのねぇ…「再現」という発想自体がそもそもの誤りで。そんなものは犬にでも食わせてしまえばいい。
おそらく原作マンガにはヘルメの揺れ動く乙女心の機微とかグニャ夫と音楽教師の微妙な関係性が丁寧に表現されているのだろうが、そこを拾っていくと2時間を越えてしまうという判断からこのような感情不明恋愛劇が産み落とされてしまった…と推測するのだが、そりゃあそれぞれ全く異なる表現媒体(マンガと映画)なのに原作と同じストーリーにしようとすれば齟齬が生じるよねって話で。
かれこれ80回ぐらい言ってるが…
マンガの実写化は再構築ではなく脱構築。
作り手の皆さん、「再構築」と「脱構築」の違いがわかるけ?
「マンガを映画に置き換える」のではなく「マンガを映画的に解釈する」と言えば分かりやすいけ?
もっと分かりやすく言ったろけ!?
…疲れてきたのでやめる。首が痛くなってきた。
ボツ絵です。
(C)2018「プリンシパル」製作委員会
*1:ガイ・リッチー…『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(98年)や『スナッチ』(00年)で知られる低能監督。登場人物がむだに多くてキャラ相関図がまったく把握できないことで有名。ただし『コードネーム U.N.C.L.E.』(09年)はそう悪くない。群像劇さえ撮らなければ割とフツーの監督だと思います。