もし私がうら若き女性で、目の前にとてつもなくブサイクな男がいたとして「こんな奴と付き合うなんて死んでもイヤ」と思っていたのに気がついたら抱かれていた…みたいな映画。
2017年。ホン・サンス監督。キム・ミニ、クォン・ヘヒョ、チョン・ジェヨン。
不倫スキャンダルにより、キャリアを捨ててハンブルクに逃げて来た女優ヨンヒは、会いに来ると言ったまま姿を見せない恋人を待ちながら、自身の気持ちもはっきり分からずに、後悔と欲望を引きずっていた。月日が流れ韓国へ戻ったヨンヒは、旧友たちとの再会をきっかけに女優復帰を考えはじめる。ひとりカンヌンの浜辺を訪れた彼女は、意外な方法で自身の心と向き合うことになり…。(映画.comより)
トイレットペーパーの最後の一切れを残すヤツ…
地獄に堕ちろ!!
私はむかついとるんじゃあ。切れかけのトイレットペーパーを最後まで使い切らず「次に入ったヤツが交換しやがれ!」とばかりにチョロッと一切れだけ残してトイレを出るヤツの精神構造がどうなっているのかをむかつきながら考えているんじゃあ。夜通しなァ!
なんてドス黒い魂なんだ。なんて醜い不協和音を奏でるヤツなんだ…。
きっとそんな野郎の前世は「罠を張り巡らせることが趣味の森林レンジャー」か「やめろと言ってるのに執拗にヒザカックンしてくる中産階級のクソガキ」だったに違いねえ。あるいは「チキンレースが得意なジェームス・ディーン似の不良」だったかもな。
って、けっこうイイ身分じゃねえかよ! なめやがって。
私憤をばらまくのはこの辺にしておこう。挨拶がまだだったな。
おはようございます、人民諸兄!
そんなわけで、韓国の映画作家 ホン・サンスが2015年から現在までに手掛けた4作品がまとめてドカッと日本に入ってきたことを記念して、本日から「ダラッとホン・サンス週間」をグデッと開催します。
第一弾は『夜の浜辺でひとり』。最初から飛ばしすぎるのもアレなんで、あまり突っ込んだ話はしておりません(突っ込んだ話ができなかったことの言い訳)。
◆ホン・サンスは眺めることを許さない◆
ホン・サンスの映画には「表の見方」と「裏の見方」がある。
だいたいの観客は裏から映画を見ている。裏の見方とは、画面に意味を見出そうとしたり、物語を先読みしようとしたり、キャラクターの心境に自らを重ね合わせるといったおよそ映画とは関係のない雑事のこと。見えないものを見ようとしてただ画面を眺めている状態だ。かの名曲「天体観測」じゃあるまいし、見えないものを見ようとして画面を覗き込んだところで映画は見えてこないのだ。
裏から見るホン・サンスは頓死してしまうほどつまらない。
なぜならサンスの映画では何も起きないからだ。
これといった物語などなく、映画的な意思も目的も持たないキャラクターたちが取り留めのない会話をダラダラと続けて、何の出来事も起こらぬまま、いつの間にか映画は終わってしまう。喜怒哀楽のいずれの感情にも触れることのない空疎な映像群が恣意的に散らばっているだけ。どこにも向かわず、どこにも辿り着かない映画である。
ところが「表の見方」をしてみると、やおら息づいたフィルムが嘘みたいな発色のよさで輝き出し、無意味かと思われたショットの断片が知覚しきれぬほどの意味を主張し始める。炙り出しの暗号かよ。
そう、ホン・サンスは暗号なのだ。ゴダールのようにな。
言うまでもないが「表の見方」とはスクリーンに映っている映像に目を向け、出された音に耳を傾ける…というだけのごくシンプルな態度にほかならないが、これが出来ない観客がじつに多く、にも関わらず得意満面で「映画を観た」などと嘯いていらっしゃる。
たとえばカーテンの揺れ、水しぶき、降り注ぐ陽光。そういうところを見逃したのなら「映画を観た」とは言わない。ただ画面を眺めているだけだ。
そしてホン・サンスは眺める者を容赦なく置き去りにする!
眺めるぶんにはクソつまらんが、観るぶんには素晴らしい映画の量産者。それがホン・サンスである。やべえよ、このオッサン。
映っている映像に目を向けるのだ。窓の外にヤバい奴がいるね(最後まで正体不明です)。
◆ホン・サンスはくつろげる◆
さて。
ハンブルクの街で来るともしれぬ恋人を待ち続けるキム・ミニが、「先輩」なる女性と公園のベンチで恋愛論を交わし合ったり、古本屋を覘いたり、マンションのベランダで煙草を吸うといった取り留めのないシーンがひッたすら続く本作。
前章で「ホン・サンスは眺める者を容赦なく置き去りにするでええええ!」と偉そうなことを語ってしまったが、正直に告白しよう。
私は開幕20分のあいだに5回居眠りを遂げている。
えらく眠かったのだ。
寝て起きて巻き戻し、寝て起きて巻き戻し…を何度繰り返しても20分から先に進めない。無限ループの罠にハマっちまったというわけだ。こうなったらお手上げだ。結局「今日はもうむり」と諦めて床に就き、翌日、万全の態勢で再度鑑賞に臨むはめになった。
そして無限ループの死線を越えた私は無事に本作を観終えたあと、思わず小声でホン・サンスを激賞することになる。「やべえよ、このオッサン」と。
『夜の浜辺でひとり』はやべえ作品である。
サンス作品はどれもそうだが、基本的にはワンシーン・ワンショットの長回しで、構図=逆構図など一度として出てこない。フィックスショット(固定画面)が大部分を占め、たまにカメラが動いてもパンかズームのような単純な動きだけで、それ以外の撮影技法は一切ナシ(それゆえに睡魔が降臨する)。
もともとホン・サンスはミニマリズムの作家だが、この映画ほど静的な画面を持続し得たとは知らなかったので、映画が進むにしたがって「嘘だろ、このオッサン…」と身がこわばり、逆に睡魔が吹き飛んだ。
結局恋人はハンブルクに現れず、諦めたキム・ミニは韓国に帰り、そこでチョン・ジェヨン演じる友人らと旧交を温め合うわけだが、ここでも取り留めのない雑談がいくつか場所を変えながら1時間以上に渡って延々とおこなわれる。10分近い長回しが平気で顔を覗かせるが、もはやそれにすら驚かなくなるほど死にも近い静的な画面が恒久的にまとわりついた映画なので、われわれは「すごい」とか「うまい」と感じるまえに感覚そのものが無方向化されてしまうのだ。ただロケーションの洒脱さと、芝居や台詞のおもしろさ、それに風や海やタバコの煙に息づいた「映画」に甘美な錯覚をおぼえるだけである。
なんていうのかな…。もし私がうら若き女性で、目の前にとてつもなくブサイクな男がいたとして、「こんな奴と付き合うなんて死んでもイヤ」と思っていたのに気がついたら抱かれていた…みたいな映画である。
全編居眠りトリガーのくせに、なんだこのヒーリング効果は…。なぜこんなくつろげるんだ。
くつろげ過ぎるッ!!
カフェでダラダラ話し込むキム・ミニ(左)とチョン・ジェヨン(右)。観ているだけでくつろげます。
◆ホン・サンスは不倫する◆
主演のキム・ミニはパク・チャヌクの『お嬢さん』(16年)で一気に注目を浴びた女優。本作では映画監督と不倫してハンブルクに逃げて来た女優という役どころであり、物語終盤では不倫相手の映画監督と愛について延々と語らうシーンがある。
そしてホン・サンスとキム・ミニは撮影中にマジで不倫関係にあったことをマスコミに発表した。
えっ…?
じゃあ実話じゃねえかよ!
劇中のヒロインは不倫相手の映画監督と愛や映画論について長々と語らうが、それは取りも直さずホン・サンスとキム・ミニの実際の関係性をフィクションに置き換えたものだったのだ。
二人は不倫関係を堂々と認めており、現在では公私に渡るパートナーとして監督ホン・サンス×主演キム・ミニの映画をアホほど撮っている。
韓国映画史に名を残すであろうビッグカップル、ホン・サンス×キム・ミニ。
映画監督と映画女優のロマンスはいつの世にも付き物だ。とはいえ、小津と原節子を想起するには二人の関係性はあまりに明瞭で背徳の蜜に湿りすぎている。
ホン・サンスとキム・ミニの爆裂不倫。ここに幻視すべきは巨匠ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマンの世紀の不倫カップルであろう。
劇中のキム・ミニは不倫スキャンダルによってハンブルクに逃亡する。イングリッド・バーグマンも同じ理由からイタリアに逃亡して、そのものズバリの『イタリア旅行』(53年)というロッセリーニの作品に出演した。
ちなみに『イタリア旅行』という映画は、結婚生活の危機に陥った夫婦が気まずい表情を浮かべながらイタリア中をほっつき歩く…といった重苦しい恋愛劇である。待ち人来らずのハンブルクで破れた恋にしがみついているキム・ミニと重なりはしまいか。
さらに言うと、ロッセリーニが『イタリア旅行』の次に撮った『不安』(54年)と、ホン・サンスが『夜の浜辺でひとり』のあとに撮った『それから』(18年)が ともに不倫を題材にした映画であるという点も一致する。
ロッセリーニとバーグマンはわずか7年で愛の炎を燃やし尽くして別れたが、はてさて、サンス&ミニのカップルは…。
左のおっさんが映画監督役(ホン・サンスの分身)です。
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